009 テーブルマナー
シーラ様を見送った後、私は自席に戻り素早く報告書を作成した。そしてアントン殿下にこの件を調べていいか相談し、無事了承を得た。
「では、定時なのでお先に失礼致します」
私は机の上を整頓し、そそくさと鞄を手に臨席の先輩に挨拶をする。
「お疲れ。飲みにでもいくのかい?」
私のいつもより帰宅に向け慌てた様子に勘違いの言葉をかける上司のマーティ様。話しかけられた内容から、人のいい先輩の耳には未だ私が子連れ出勤をした事は伝わっていないと安堵した。
「野暮用がちょっと」
「デート?」
「まぁ、色々と」
「マーティ、彼女は今子育て中だから」
必死に誤魔化す私にアントン殿下が余計な一言を発する。
「え、だってゾーイ、君は」
「小さな彼氏を待たせておりますので。じゃ、お疲れさまです」
もはや自分でも意味不明な言葉を吐きつつ、私は職場を飛び出した。そして、淑女らしからぬ勢いで猛ダッシュ。向かう先は勿論託児所である。
途中目的地が同じであろう女性とかちあった私は密かに駆け足の速さを競う。そして私は華麗に敗北を期した。
「む、無念。というか、働くお母様って、最強だわ」
私は息を切らしながら託児所に駆け込み、何とか保育の延長料金を支払わないで済んだ。
そして現在私は両手に大荷物を抱え、マルセル君が行きたいと所望したレストランへ向かっている所である。因みになぜ大荷物かというと、マルセル君の当面の衣服だのお菓子だの、勉強道具だの暇つぶしの本だのを言われるがまま購入した結果、両手に抱える程になってしまったからだ。
子育ては意外にお金がかかるという事を私は今日初めて理解した。一応まだ独身であるのに。
しかしより一層私に懐いてきたマルセル君は正直可愛い。それにこれは親の義務だしと、何気に私はマルセル君を既に自分の子だと認めてしまっている。全く困った状況だ。
「いつもはね、父様が魚介のワイン蒸し。それでね母様はタラのムニエルと、食後にまずい太っちゃうって言いながら、トライフルをちゃっかり食べてるよ」
レストランの前に吊り下がる丸い木の看板が見えた瞬間、マルセル君がそう暴露した。
つまり今の言葉から予測できる事は、未来にもこの店がまだ営業していて、更にはこの店を家族で利用しているらしいこと。そして私はダイエットに興味を持つほど太っているらしいということである。
「でも待って。映像写真の私は太ってなかったし」
私はマルセル君が首元に隠し持つペンダントに視線を落とす。昨日うっかり凝視した映像によると、私は今とそんなに変わらない感じだったはずだ。
「うん、太ってないよ。まずい太っちゃうって言うと、父様が必ず「太った君も素敵だろうな。俺は気にしないから食べなよ」って言うから、その言葉が聞きたくてわざと母様は言ってるだけ」
「な、なにその砂糖マシマシな状況……」
あり得ない、いや告白するんだからあり得るのか?いやそれにしたってあり得ないと私は完全に怪しい人物と化し、ブツブツと呟く。
「ここは、父様が独身時代の時から良く来ていたお店なんだって」
「えっ?」
驚いては見せたものの今更である。よくよく考えてみれば私はこの店に今日初めて足を運ぶ。つまり未来の私がこの店に来るのは、結婚相手がこの店を知っていたからと考えるのがわりと普通。となるとユリウス・クラーセンがこの時代にも利用する可能性があるという事で。
私は店の前に吊るされた、ジャンプした魚を熊が網ですくうという、実にシュールな情景が木彫りされた看板を眺めながら決めた。
「やっぱさ、今日は違う店にしよっ……あっ、マルセル君!!」
私が一人、店の看板に気を取られている間にマルセル君は、テキパキと入り口のボーイに「二名です」などとスマートな紳士の如く告げていたのであった。
ぬかりない子、マルセル君。末恐ろしいのである。
★★★
入店して前菜が届くまでの間、私はしっかり周囲を警戒していた。しかし目の前に美味しそうな彩り豊かな野菜が出されると、警戒することをすっかり忘れ食事に夢中になった。
人は食べ物を前にすると、注意力散漫になるのである。
「クラーセン様が行きつけっぽいお店だから、てっきりお値段もそこそこするかと思ったけど、何とかなりそうで良かった」
私は未来の自分がこの店で良く注文しているというタラのムニエルを食べながら、胸を撫で下ろす。
とは言え、私が普段行く食堂よりはずっと根が張る事は確かである。こういう店は親がいる時か、兄、もしくは姉に奢ってもらえる時にしか私なら立ち寄ろうとしない。つまりだいぶ小洒落た店であった。
「いつもは父様が支払ってくれてるよ」
丸テーブルの向かい側に座るマルセル君が新情報を教えてくれた。
「ふーん。結婚したらお財布は合同になるのかな?」
「そんなの僕知らない」
「あのさ、魔法省のローブって悪い意味で目立つけど、最強だよね」
「なんで?」
「ドレスコード代わりになるからよ」
「ふーん」
私の話題に興味なさそうに丸くなったイカフライを綺麗に切り分けフォークで口に運ぶマルセル君。その姿を見て、ふと私は自分の幼い頃を思い出す。
『ゾーイ。フォークの持ち方が違いますよ』
『ゾーイ。フォークを持ち変えずに、最後まで左手にはフォーク、右手にはナイフだ。それは規則だから絶対に守らなくてはいけないぞ?』
兄と姉もいるのに、父と母に毎回注意されるのは私。
産まれてきた順番的にマナーの荒がどうしたって目立つのが末っ子の私だったからだ。
それが悔しくて、理不尽で、私は家族との食事を楽しんだ記憶があまりない。
大人になった今なら、きちんと躾けてくれてありがとうという気持を抱く余裕もある。けれどあの当時、何をしても叱られていた私は、本当に家族との食事であまりいい思い出がない。
その事を急に思い出し、私は結婚したら同じ事をマルセル君に強要しているのだろうかと、ふと自分が怖くなった。
「マルセル君、未来の私は食事のマナーに厳しい?」
「うん」
素直に肯定され、私はどんより落ち込んだ。あんな風になりたくはない。そう思っていたはずなのに、結局私はベレンゼ家の窮屈なしきたりを我が子にも強要しているのだ。そしてそのループは永遠に続いてしまうのかも知れないと、私は気を落とす。
「でも、それはテーブルマナーをきちんと身に付けていれば、周りの人に不快感を与えないからなんだって。それに父様はわりとすぐ何でも褒めてくれるしね」
マルセル君の何気ない一言で私は気付いた。確かにテーブルマナーが大事なのは、一緒に食事を取る人達に気持ちよく過ごしてもらい、より一層料理を楽しむ為の気遣いだ。
「それは誰に教わったの?」
「父様が母様に教えてあげてたし、僕も父様から聞いたよ」
「ふーん。ま、そういう意見もあるわね」
私は何となくマルセル君の手前、素直に認めるのが悔しくて、半信半疑な雰囲気を醸し出す。
私は今までテーブルマナーは堅苦しいものだと、そう感じるだけだった。そういう決まりだから守らなくてはいけない。理由はいい。体で覚えろと、幼い頃言われた気がする。だから私も叱られたくなくて、そういうもんだからと納得し、テーブルマナーというものが存在する意味を考えた事がなかった。
けれど私は今、マルセル君の言葉で自分の価値観が一つ大きく変わった。そして、今なら子供に教える時に、どうしてそうしなければいけないか、その理由をきちんと説明してから教える事ができそうだと自信を持つ。
未来の私はその事をユリウス・クラーセンに教わった可能性があるらしい。嫌いだけど、ちょっと良いところもある。私は少しだけユリウスを認める事にした。
「あー。ってまずいね。僕が先に教えちゃった。父様に悪い事しちゃったかも。母様、いつか父様が母様にその話をしたらさ、ちゃんと初めて聞いたフリしてね?」
「わかった」
マルセル君にすっかり感化され、私は素直にそう答えた。
それからは食事が楽しく感じ、マルセル君と私。お互い今日あった事を交互におもしろおかしく報告し合った。勿論テーブルマナーは相手の事を思って完璧な上で。
そして私はお待ちかね。食後のデザート、トライフルを目の前に歓喜に震えていた。
気ままなおしゃべりという古代語が語源のトライフル。固めのカスタードに季節のフルーツ。それにスポンジケーキに生クリーム。大好物の盛り合わせがパフェグラスに層になり、華やかな見た目で飾り立てられている。カロリー的には罪悪感満載だけれど、幸福度的にはマックスを振り切っている。
「母様、幸せそう」
「うん。だってスィーツが嫌いな人なんていないでしょ?」
「僕は苦手。父様も苦手だって」
「えっ?だって私のクッキー食べてるって」
「それは焦げて苦いからじゃない?」
「…………」
相手の意を汲む気がサラサラない子供の純粋さは時に人を傷つける。
私は生クリーム付きのいちごを頬張り、半目になってマルセル君をジッと見つめた。
すると、マルセル君の口が「あ」の形で固まり。
「父様が浮気してる」
衝撃的な言葉を口にしたのであった。