013 イースト地区
イースト地区に無事降り立った私。
グリフォンを魔法省の中継地点にある厩舎に預け、私は街中に颯爽と飛び出す。
イースト地区は独特な雰囲気のある地区だ。
大通りから見える場所はそれなりに整備され、そこまで酷くは感じない。
けれど裏路地にひとたび足を踏み入れると、そこには想像を絶する世界が広がっている。やせ細り目がくぼみ、疲れ果てた人。それに薄汚れた服に身を包み物乞いをする人。そんな人達で溢れる街は不穏な、犯罪じみた雰囲気に満ちている。
何とも言えない据えた匂い。虚ろな目で壁に背を付ける物乞い。何か薬をやっているのだろうか、ケタケタと笑い転げる客引きの女。獲物を狙うように鋭い目で私の後をつけ、私が聞いたこともない汚い言葉を吐きかける薄汚れた子供。狭いスペースにゴミが散乱し、やせ細ったネズミがそれをかじっている。そしてネズミと競うようにゴミを漁る女性。
ここは豊かに見えるリリロア王国の、決して表には出せない裏の世界なのである。
「お嬢ちゃん、恵んでくれよぉ」
失業者と思われる男が無表情で私に物乞いをする。
けれど私は目を合わす事なく完全に無視し目的地へと急ぐ。何故なら感じる罪悪感を消すために、その場しのぎで物乞いにお金を渡した所で、そのお金はあぶく銭となり、酒や薬に消える事を私は知っているから。そしてまた明日ここに足を運べば、記憶を飛ばした男は再度私にお金をせびるのだ。
裏路地に住む人達は、皆疲れ切った顔をしており覇気もなく、不衛生でそして何よりも世の中に絶望している雰囲気を身にまとっている。夢や希望なんて抱く余裕もない。ただひたすら、息をするために、心臓の鼓動を停止させない為に毎日をがむしゃらに生きている。
私はその事を、何度もイースト地区に足を運んで学んだ。据えた匂いに苦しくなり吐き気を催し、何度も吐いて、泣いて、怖い思いをして、そして私は諦めた。
貴族階級に所属し、職もある私は恵まれた人生を歩んでいる。死と隣り合わせの生活を送っている人達の本当の気持ちなんて、私には多分わからない。だから本当にこの街に住む人間を救えることなんて、今の私には出来ない。
そしてそう冷たく割り切れたから、私は一人でイースト地区に出向く事をアントン様に許されている。
私は脇目も振らず、頭の中に叩き込んだ地図を思い出す。
そして口元をしっかりと結び、目的地へひたすら足を進めたのであった。
★★★
シーラ様の所有するレンガ造りの屋敷に到着した私は、通りの反対側からまずはじっくり屋敷の全貌を観察する。赤いレンガ造りのよくある作りの四角いアパートメントは通りに面し、長方形の窓が均等に配置されている。
「意外に綺麗で良かった」
私の想像するオンボロ具合より遥かにマシだったシーラ様のアパートメント。
「きちんと管理されている証拠よね」
感心しながら、私は目の前をレトロな馬車が通過した後通りを渡る。
そして今度はシーラ様のアパートメント側に立ち周囲の景色を観察する。
どれも皆レンガ造りの同じような四角い建物。けれどシーラ様が所有する建物は周辺の屋敷に比べると、ずっとマシだという事に直ぐに気付いた。
何故ならシーラ様のアパートメントには窓がきちんとあるべき場所にはめこまれていたし、階段を数段ほど上がってから入る中央の玄関にもドアがついていて、呼び鈴も奇跡的に作動していたからだ。
「さてと、お宅訪問と行きますか」
私は斜めにかけた茶色い革で作られた年季の入った鞄の中から、昨日シーラ様から預かっていたアパートメントの鍵束を取り出す。輪っかに通った鍵がぶつかり合い、ジャラジャラと音をたてた。
「確かこれが玄関の鍵だったような」
私は昨日教えてもらった玄関の鍵をドアの鍵穴に差し込んだ。
するとカチャリと小気味よい音を立て、鍵が開錠された音がした。そしてギギギと軋む音を立てながらゆっくりと私はドアを開け、私は屋敷の中に侵入した。
数回建てになった屋敷の中は入り口からすぐ階段があり、ロビーのようなものはない。無駄な空間を排除し、まるで蟻の巣といったように細かく住居が分かれ、一つの屋敷に何世帯も暮らしているタイプのもの。
現在私の住むアパートメントもこの屋敷ほど狭くはないが、共同住宅だ。初めて見た時は一体どうやってプライバシーを守るのだろうと不安になったけれど、案外慣れると他の部屋の音も慣れるし、むしろ手狭感が落ち着いたりもしてくるので、人間の適応能力は思っているよりずっと高いと思われる。
「さてと、先ずは一階から確認しますか……って一応住んでる人の部屋を確認した方がいいかな」
現在この屋敷に未だ住んでくれているという勇者。
その人の顔を拝めるならば拝んで話を是非とも聞きたい。
私は階段に足を踏み出し、確か三階の住人だったはずだと思いながら、そのまま登って行く。するとすぐ、上から足音がした事に気付き私の体に緊張が走る。
しかしそれは直ぐに杞憂に終わる事となる。
「もしかしてゾーイかい?一体何故君がここに?」
二階の踊り場で鉢合わせしたのは、馴染みある人物。
チョコレート色をした髪をおでこを見せるように綺麗にセットした父親世代の男性。シーラ様の一人息子であるバッケル伯爵だ。
「ごきげんよう、バッケル伯爵。私はシーラ様に依頼されてこちらへ」
咄嗟に膝を曲げ、淑女の礼を取りながら私は内心、まずいと慌てる。
何故なら、バッケル伯爵はお父様の魔法学校時代のご友人。つまり、お父様と通ずる仲というわけで、更に私は昨日シーラ様に外勤の強靭な男性捜査官が捜査するなどと嘘をついた上でここにいる。つまりダブルでまずい状況だ。
「といっても、たまたま通りかかったので、ちょっと様子を見てみようと思っただけでして、直ぐに帰るつもりでしたし、その……」
ついに私が口ごもると、バッケル伯爵はくすくすと笑い出した。
「そうか。今君は魔法管理局の職員だったね。安心なさい。ブレフトには言わないでおいてあげるから」
私はその言葉に命が救われたと、バッケル伯爵に対し両手を組んで拝みそうになる。
因みにブレフトとは私の父の名前である。
「ありがとうございます。あ、あとついでに出来ればシーラ様にも内緒でお願いします」
私は追加で大胆なお願いをダメ元で追加する。
「なるほど。母にも嘘をついたんだね?全く君は悪い子だ」
私を軽く睨み、いつまでも子供扱いするバッケル伯爵。
「シーラ様がご心配なさると思ったのです。それにシーラ様に知られたらお祖母様経由でお父様に知らされてしまうかも知れないし。大体みんな心配しすぎなんです。もう私は十七歳だし、子供じゃないのに」
それにここ数日は子育てだってしているしと、内心付け加えておく。
「君はブレフトの一番下の子だから、いつまで経っても小さな女の子。そんな気がしてしまうんだよ。そうか、君はもう十七歳になったのか」
「はい。もう成人済みです」
私はしっかりと言葉を重ね、大人アピールをしておく。
「では大人の取引をしよう」
「取引ですか?」
「そう。実は私も母に内緒で、この屋敷の見回りをしにきたんだ。というのもこの辺の土地はすでにコーレイン商会に定期借地権を売った者が多い地域でね」
「えっ、そうなんですか?」
既に周辺の土地がコーレイン商会の手に渡っているとすると、いくらシーラ様が嫌だと首を横に振っても、コーレイン商会は何としても手に入れようとしてくるだろう。何故なら区画整理をするのに、ぽつんと一軒だけ家が立っていたら、その家を避けて整備する必要がある。そんな屋敷は常識的に考えて邪魔でしかないからだ。
「この地域は当初慈善事業をするという名目でかつての陛下より細かく分割されたのち、貴族に分け与えられた土地だったらしいんだ。だから皆、定期借地権の制度を利用し土地を貸し出す事を長いこと躊躇っていたんだけど、政府が土地区画整理の法案を提出しただろう?」
「でも、なかなか上手くいかなかった」
「そう。だから皆、ここの土地をいっそ陛下にお返ししようかなんて、そんな感じだったんだけど」
「コーレイン商会が貸して欲しいと願い出た」
「そうなんだ。だから土地を持つご近所さんの貴族仲間は皆、コーレイン商会と定期借地契約を喜んで交わした。何故ならここは一銭にもならない、言い方は悪いけれどお荷物物件だからね。みんな困ったものだと頭を抱えていたくらいだから。で、残るのはこの屋敷のみというわけ」
「なるほど」
やはりコーレイン商会がこの土地を狙っているのは間違いなさそうだ。
だから盗聴器を付け、住民に嫌がらせをして強行手段に出たのは間違いない。私は内心、「全ての犯人はピム・コーレインである」などと名探偵の口調を真似し、それから得意げに腕組みをしてみたのであった。