人生迷い道
佐久間は施津河への釣行から2週間後の休日前に約束通りけせもい市内の居酒屋で富美恵と博之を交えての食事会、実質的には飲み会を開いた。午後6時半からの開始予定であったが博之は仕事が片付かないというので間に合わないことが確実になった。それで佐久間は喉を潤すというもっともらしい理由をつけて先に富美恵と軽く飲みながら博之の到着を待つことにした。
「富美恵さんは施津河に来て3ヶ月になるけど慣れたかい。長いこと東京で暮らしていていきなりこんな田舎じゃ面喰らうことばかりだと思う。バスは1日数本しか運行しない、列車に至っては単線で駅で上りと下りがすれ違うための時間待ちとかあまりにものんびりした有り様だ。実は俺も東京で働いていたことがあるんだが肉体労働者だったから丸ノ内のオフィス街のような世界とは無縁さ、だから遊びに出るのも安酒場ばかりで一度でいいから銀座に繰り出したかったよ」
佐久間は富美恵と恭一の葬儀を含めて何度か会っていたため特に臆することなく当たり障りない話で時間稼ぎをしたがそれも限界に近づきつつある。
(笹山のヤツまだか。こんなところを誰かに見られたら要らぬ噂を立てられかねない)
佐久間は若い女性と差し向かいで飲んでいるのを知っている人間に見つかるのを恐れてとにかく一度手洗いに行こうと腰を浮かした時に博之が姿を見せた。
「すみません、お待たせしました。また製造予定が変更になって資材の注文やらなんやらで本当に面倒ですよね」
「そいつは俺のところでもよくあることだ。仕方ないさ、こっちこそすまん。まさかにらめっこしながら待ってるわけにもいかないから先に軽く飲んでいた。さて全員揃ったことだし乾杯するか」
乾杯後の佐久間はホッとしたようであるが博之は何から話してよいか分からない。まさかいきなり本題を持ち出すわけにもいかないのでとりあえず神社でのやり取りを笑いを交えながら振り返りその後は富美恵が主導権を握る展開となった。富美恵は東京で税理士事務所で働いていたのだが仕事柄たくさんのクライアントに接する毎日に加えて様々な知識が豊富で話のネタに事欠かない。佐久間も博之もほとんど聞き役に回る形になった。
(由里子とは全く対照的な女性だな。しかしこれではなかなか肝心な俺の話もどこで切り出せば良いのかタイミングが掴めない)
博之の焦りを佐久間も感じ取ったようでしきりに時計を見たりメニューをいじくったりと落ち着きがない。それに二人とも飲むピッチがいつもより相当にゆっくりだ。それゆえに酔いが回っている感覚がほとんどない。物足りなさを覚えたのか冨美恵がそこを突いて来た。
「あら、お二人とも普段からあまりお酒は飲まないんですか。ずいぶんとペースが遅いように思うんですけど」
佐久間はこの時だとばかりに声のトーンを上げた。
「いや、そうじゃないんです。むしろ酒を飲むことは俺も笹山君も大好きな方だと思う。しかし今日はなぜゆっくりと飲んでいるか、それは笹山君が富美恵さんにどうしても話さなければならないことがあるんです。だからいつものようにグイグイ飲んで酔っ払ってしまうわけには行かなかった。ここまでなかなか切り出せずにいたんだけど今の富美恵さんの一言がきっかけになりました。さあ笹山君、あのことを富美恵さんに打ち明けるんだ。二人がこうした形で再会したのも何かの縁のような気がする」
博之は水を一気飲みした。口がカラカラに渇いていたのと気持ちを整理するためだった。
「そうです。実はこの飲み会はそのために佐久間さんがセッティングしてくれました。僕は富美恵さんが施津河に滞在している理由を佐久間さんから聞いて知っています。それだけなら別に問題はないのですが僕だけが貴女の事情を知っていることはとても心苦しくイーブンな状態にならないといけないのです」
「承知しました。イーブンという言葉が気になります。笹山さんにも何か込み入った事情があるのですね。そう言えば神社でお会いした時にわけあってけせもい市に戻ったようなことを言ってましたね。そのことと関連があるのかどうか分かりませんが話してくださいませんか」
富美恵は普段から背筋が伸びていて姿勢が良い。しかしただならぬ緊張感で心なしかその背中はよけいにピンと張りつめているようだ。博之にしても新潟で山岡や西田、sun&sonのママに、そしてけせもい市に帰ってからは佐久間や自分のラインで働く女工さん達に話したことを再び口にするとは思ってもいなかったのだ。そして今日の相手は過程こそ違えど同じ立場の人間ゆえにゆっくりと言葉を選びながら由里子との出会いから永遠の別れまでの経緯を話した。時間にしてだいたい20分程度であったがいくらたくさんの思い出が詰まった話でも要点だけ集約してしてしまえばこんな短い時間に収まってしまうのだなとあらためて思った。富美恵はすべてを聞き終えると黙って俯いてしまったが再び顔を上げると鼻をすすりながら博之に言葉を掛けた。
「そうでしたか、イーブンと言われた時にはもしやと思ったのですがやはり笹山さんも大事な人を亡くされていたのですね。病気だったから覚悟をしていたとはいえ亡くなるまでお辛い日々を過ごされたと思います。私は一瞬にして事故で亡くなったものですから葬儀が終わっても、ああ、恭一さんはもう居ないんだなって実感がこみ上げて来るまで時間がかかりました。でも同じ境遇の人と一度は何も知らずに言葉を交わし違う場所で再会してお互いの真実を知ることになった。まさに奇遇ですよ。そうだ笹山さん一つだけ聞いていいですか。由里子さんが亡くなって3年が過ぎた今、どういった心境なんでしょうか。失礼を承知の上でのことと分かっていますが私は1年経過しても全然心の整理がついていません」
博之は言われたものの即答出来なかった。そうしたことは今まで意識したことがなく富美恵の一言によって初めて気づかされたからである。しかしシンプルに考えると仕事が分岐点になっているかも知れないと思えた。由里子が亡くなりS製菓を辞める意思を固めて退職そしてM食品に再就職が決まるまでの間が気持ちとしてどん底に落ちていた。では3年と半年が経った現在はどうだろうか。確かに毎日部屋に帰るたびに由里子の写真に話しかけることは欠かさないがその内容は以前よりも薄くなっているし時間も短くなった。その辺りを考慮して富美恵に話すことにした。
「僕は由里子が亡くなって、けせもい市に戻るまでの半年が精神的に一番辛い時期でした。M食品に入社後も最初の一年は特に休日ですね。パチンコでもやってないと落ち着いて過ごせなかったんですよ。それが二年目の秋頃から仕事の任される範囲が広くなると同時に密度も濃くなってああでもないこうでもないと考える時間がだんだんと多くなりました。そうなったら徐々にですけれど気持ちが揺れ動くことが少なくなって来たように思います。ですから富美恵さんが現段階で心の整理がつかないということは理解出来ます。ただ身の振り方が僕とは違うので今後どうなるかは分かりません。僕は共に暮らした土地を離れて故郷に戻り、富美恵さんは恭一さんの遺志を引き継ぐために知らない土地に移り住んだ。一年という期限を設けたようですけどその後から始まる生活次第で故人への思いがどう変化するかですが、これだけは言えます。亡くした悲しみは完全に癒えることはありません。時々フッと由里子のことで頭の中がいっぱいになります。まあそれが普通の感情なんでしょうけど。今の僕に言えるのはこのくらいです」
「ありがとうございます。お話をうかがって少しは気持ちが安らいだように思います。確かに施津河に勇んで来たものの知り合いは誰一人居ないし夜になると重い物がのしかかるような毎日なんです。さりとて東京で仕事を続けて行く情熱も失っていたし実家の兄からはだったら戻って来て家業を手伝わないかと言われたけどそれも嫌で断ったんです。とにかく1年でいいから踏ん切りをつける時間が欲しかった。でも私の取った行動は現実逃避なのかも知れない。兄の言う通り実家に戻るのが最良の選択なのは分かってるんですが・・・・・」
「いやそれは現実逃避とは違うと思います。僕は由里子が生きていれば一緒にけせもい市に戻る予定でした。仙台では営業の仕事をしていたんですが限界を感じていました。しかしそれは建て前で自分には向いていない、早く辞めてしまいたいと思いながらの仕事でしたからむしろ僕の方が現実逃避という言葉が相応しいと言えるでしょう。富美恵さんは一時的に仕事への情熱が無くなっただけです。それに知り合いが居ないと言いましたが民宿の人達や佐久間さんや僕が居るじゃないですか。富美恵さん次第ですが施津河滞在中にこうした集まりを時々やりませんか。僕はアパートでの独り暮らしだし電話で話すことも構いません。夜は仙台と違ってそうそう出掛けるところもないし仕事が終わったら部屋に真っ直ぐ帰ることがほとんどですから」
佐久間は二人のやり取りを見ていて動きの悪かった機械のベアリングに潤滑油を差した途端にスムーズに回りだしたような状況が頭に浮かんだ。
(二人が一度顔を会わせていた事実が結果的に良かったのかも知れない。どっちみち晋作伯父さんの民宿で会う運命だったんだろうがまるっきりの初対面だったならこうはいかなかったかもな)
佐久間はもう鈍行列車のようなペースで飲む必要もなかろうと急行レベルまで速度を上げた。博之も追随したが特急まで上げなかったのは特に理由はないのだが、とにかくこの日は皆がそんな気分だった。話の中身も他愛ない雑談が続いたが気がつけばすでにバスも列車も施津河までの最終便は出発してしまい富美恵が帰る手段はタクシーしか残っていない。料金はかなり嵩むからどこかに泊まるしかないのだがそこは心得たもので佐久間は晋作から時間を気にすることなく会食を楽しめるようにホテルを予約しておけと事前に指示を出されていた。時間は11時を過ぎたところだが今日はお開きにしようとなり、そこで佐久間は富美恵にホテルの部屋を取ってあることを告げた。
「すみません、私はタクシーで帰るつもりでいたのですが・・・・・それであの予約していたということは料金は既に支払い済みですよね。いくらですか」
富美恵がポーチから財布を取り出そうとしたのを見て佐久間は慌てて制止した。
「ああ、それは止めてください。ホテル代は晋作さん持ちなんです。俺が受け取るものではありません」
肩をすくめながら言う佐久間の姿に富美恵から笑いが漏れた。傍らの博之は思わずハッとした。
(神社で会った時も笑い顔は見たが今日のはちょっとどこかが違う)
そんな博之をよそに富美恵は佐久間に礼を言った。
「何から何まで申し訳ありません。晋作さんは私に少し息抜きして欲しかったんでしょうね。今回は甘えさせて貰おうと思います」
「だろうな。晋作伯父さんはああ見えてけっこう優しくて気配りもする人なんだよ。さて目的のホテルだがすぐそこに見えているあれだ。朝起きると眺めはいいはずだ」
「あら、あのホテルは去年初めてけせもい市を訪れた時に泊まりました。その翌朝に対岸の神社で笹山さんと会ったんです。今日と違って寒かったけど幻想的な景色を見れたんですよね」
「けあらしですね。あの日は凄いのが出ていたな。もちろん今の時期は出ることはありません。しかし夏場は海霧が立ち込めるとやはり海上は白一色になります。僕らはガスと呼んでますがけあらしと違ってすぐに消えることがないんで厄介な面があるんです。ありゃもうホテルに着いてしまったか」
けせもい市の市街地は狭いのでいい意味で飲み屋のハシゴ等の移動には苦労することもないが今日はそれが恨めしく思えた。しかし富美恵がまたやりましょうと言ってくれた言葉には社交辞令のようなものは感じられず次の期待があったからこそ博之は会釈してホテルの中へ入って行った富美恵の姿を余裕混じりに見送ることが出来た。佐久間はそんな博之の心中など知る由もなく飲み足りないからスナックへでも行こうかと誘った。
「すみません、飲み足りないのは確かなんですが今日は帰ります。実は明日の朝、富美恵さんを施津河まで送る約束をしたんです」
「なんだと。お前かなり積極的じゃないか。いつそんな話をしたんだ。全然分からなかったぞ」
「佐久間さんが手洗いに行った時ですよ。ダメ元で明日、車で送りましょうかと言ったらOKしてくれたんです」
「おいおい、まさかまさかってことはないだろうな」
「それはないと思いますよ。俺はともかく富美恵さんの方はそんな意識など欠片もないと思いますよ。だけど彼女は何か実家のことを話したいような感じ受けなかったですか。俺で良ければ聞いてやってもいいかとも考えたんです」
「言われてみればそうかもな。兄貴に実家戻って来ないかと言われた話の時にはうんざりしたような表情をしていた。とにかく明日は気をつけて行ってこい」
「本音言えばまだ飲みたいんですけどね。間違いなく二日酔いになる。そんなだらしない姿を彼女には晒したくない。それではお休みなさい。今日はありがとうございました」
博之はアパートまでの道すがらある地点で足を止めて上目遣いに一点を見つめた。例の神社であるが夜ということもあって生い茂った樹木の葉が微かな風に揺られているのがボンヤリ目に入るだけである。それでも去年初めて富美恵に会ったことを振り返り、しばし立ち尽くした。明日はまたここで待ち合わせすることに決めていたのだが佐久間に言わなかったのは舞い上がり気味になっている気持ちを悟られたくなかったからだ。博之は少しでもその気持ちを鎮めようとけあらしに覆われた海を頭の中に描きながら再び歩き出した。






