1.音、恋、空 5
5
「しかし、あの、アネリアは」
「あの子は、明日北へ向かいます」
「ヘスさん、僕は彼女と話がしたい」
強引にでも、扉を押し開こうとする。
どん、と。開きかけた扉がまたも途中で止まった。
扉には、無骨な大きな手がかかっていた。
「会わせてください!」
「楽士様、あんたとあっしらは身分が違うんだ。構わんで下さい」
扉を頑として押さえつける男、下男のモスだ。昔から庭師の助手をして花壇の手入れをする姿を音楽堂から見ていた。たまに声をかけたり、話したりした。
無骨な物言いの男だが気の優しい男だ。
「モス、開けてくれ!」
ふと扉が開き、駆け込もうとするオリビエの肩をモスが押し出した。
「モス!」
そのまま階段の手前まで押され、モスの大きな背中の向こうで扉がガチャリと閉じられた。
「楽士様、落ち着いてくだせえ。わかってるだよ、あっしらは、あんたを恨んだりしません。仕方のねえことだ。あんたが悪いんじゃない。けど、あの子はここにいたら、これからもつらい目に会う」
「だから、僕が」
「無理だ、分かってるだ。無理してそんなことすりゃ、あんただって追い出される。あっしらと同じ、あんただって結婚するのも侯爵の許可がいるはずだ。無茶しちゃなんねえです」
モスを突き放そうとしたオリビエの拳が止まった。
「分かっていますよ、アネリアだって。しちゃなんねえことしたんだ、あんたは侯爵様のものだ。奥さんのものだ。アネリアは他人のもんに手を出したんだ。そりゃ罰せられる。あんたは若い年頃の娘には毒だ。そばにいればきっとまた、同じことになる。だから、もう、こんなところに来ちゃなんねえ」
いつの間にか、オリビエはその場に膝をついていた。
胸の前で組んだ手に力が入り、小さく震える。
「僕は…」
アネリアの声が思い出される。
ほんの、つい数時間前まで幸せだった。
幸せなひと時をすごしていた。
それは昨日も、その前もだ。
これまで続けてこられたのに、突然ここでなかったことになるのか。こんな最悪の形で。
ついた膝の下のレンガ。二人で寝転んだ中庭を思い出す。
昼下がりの日差しを吸い込んだ太陽のぬくもりが二人を温めた。
なのに今膝の下にあるそれは冷たく彼を拒絶した。そこに小さく、拳を打ちつけようとする。寸前で手首をモスにつかまれた。
「さ、立ってくだせえ。楽士様。あんたのこの手は、大切な手だ。怪我なんかされたらあっしら何人が鞭で打たれるか。あんたが無事で、よくお勤めしてくれることがあっしらを助けるんでさ」
モスの腕には昔の鞭の後が褐色の肌に桃色の傷を残していた。伝え聞く奴隷とは違うが、扱いは同じようなものだった。迷惑をかける。
自分の気持ちを押し通せば、彼らにも影響が及ぶのだ。
「…すまない。アネリアに、…いいや、何も。何も伝えないで欲しい。僕がここに来たことも言わないで。…そうだ、僕は、彼女を裏切った。だから、憎んでくれていいから、僕のことは忘れて…」
不意に髪をなでられた。
見上げると、モスがしゃがんで泣きそうな顔で笑っていた。日に焼けた顔がランプの明かりで照らされて鼻の頭がてらてらと光っている。
「それも、夫人から言われただ。あの人はあんたのことをペットかなんかみたいに話した。それで、アネリアは我慢できなくて口答えしたんだ。皆分かってる。だから、自分から悪者になることはない。あんたはいい人だ。ただ、そういう運命に生まれちまったんだ」
オリビエは黙って頷いた。
立ち上がると夜風が頬に冷たく触れた。
その夜。
オリビエは自宅でチェンバロに向かっていた。
何度も何度も、思いのままに弾きつづけた。
弾いても弾いても。
その夜だけはいつもの空虚な満足感を得ることはできなかった。
しまいには荒っぽく鍵盤をたたき、突っ伏し。
そのまま、寝室へと向かった。