7.疑惑、教会、オルガンの音色5
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朝も夜も。ズレンはエスファンテ衛兵としての態度を崩さなくなった。
シューレン夫人はやけにご機嫌な様子だ。
二人はキシュのことで何かしら共謀しているように思えた。オリビエの知らないところでさまざまに物事が動いている。
新聞を頼んだのに、ビクトールは一向に届けてくれないし、アンナ夫人も最近は顔を見せない。一人、音楽堂でチェンバロに向かいながらガラス窓の外を眺める。かごの鳥、まさに。
音楽のために何もかもを犠牲に出来る。マルソーはそれをオリビエだけの思想だといった。胸を張って誇りを持てといった。
頼まれている曲作りは空しさが積もり一向に進まず。それなのに晴れない気分を音にする指はこれまで以上に鍵盤を軽やかに走った。
誰も聞くもののない曲。ただ空しい気持ちをこの鳥かごの空気に織り交ぜ、小さな気流が風を起こすがいずれまた、雨粒のように自分に戻る。
考えてみれば、キシュと出会う前と何も変わらない。なのに何がそれほど、空しいのか。
友人になれたと思ったズレンが、実のところ自分をどう思っていたのかを知ったからか。
キシュに対するほのかな想いは、認めないわけにはいかないほど最近は心を蝕むが。それをどうする手段もない。
口の悪い野良猫は。気まぐれに擦り寄っては可愛らしい声で鳴いた。色にするなら白地に茶のぶち、それも愛くるしく目の周りを縁取るそれか。
青い空色の大きな瞳。餌をもらうときには従順に、嬉しそうに喉を鳴らす。
ふと少女の唇や頬。食事を頬張るその姿を思い描き、小さく頭を振った。
今奏でた曲にどんな欲望が表れていたのかと思うと観客のいない静まり返ったこの場所に安堵すら覚えた。
そういえば、男爵の姿も見ていない。
あれから、どうしているのだろう。
思えば、関わる人の日常など何も知らずに生きている。
何もかもが希薄だ。人にも世の中にも関わるもの全てに対して僕は、いつもガラスの向こうから眺めている。眺めるだけでその痛みも温かさも想像逞しくしているに過ぎない。
温室の中の薔薇。ズレンの言葉がよみがえる。
夕刻。いつものように侯爵家の通用門で、門番に呼び止められる。黙ってそっと抜け出せたら、もしかしてズレンに見つからず、キシュが家の前で待っていてくれるかのような都合のよい期待を込めて、そっとメイドたちに紛れて通り抜けようとするのだが。
門番の男はしっかりとオリビエを覚えていて、毎回必ず呼び止め、一人がズレンを呼びにいき、一人がずっとそばについている。
「オリビエ様、あの、少々お待ちを」
その日は違った。
なぜか門番も一人しかいない。その男もズレンを呼びに行くわけでもなく、何かを待っている様子だ。
「何かあったんですか」
「いや、ここは大丈夫だと思うのですがね。市役所に数十名の市民が押し寄せたらしくて、衛兵の皆様は出払っていらっしゃるんですよ」
「市民が?何のために?」
「このところ、滞り気味だった税金を納めるようにと、市長がね、通達を出したんですよ。それで、もめているんです。侯爵様の定めた期限はまだ先だとか、まあ、よく分かりませんがとにかく市民が怒って詰め掛けて抗議していると。最近は物騒なんで、市民も自衛手段を講じようとしていましてね、自警団を作り始めたみたいですよ」
以前、ズレンが話していた。農民が自警団を作るように、市街の人々も自衛のために徒党を組むようになったのだろう。大勢が押しかければ、多少の無理難題は通ってしまうのかもしれない。ルグラン市長は大丈夫だろうか。
「ふうん。じゃあ、ズレンもそちらに?」
「はい、今この町は一個中隊だけですから、人手がね」
「じゃあ、僕はひとりで帰るよ。大丈夫だよ、これまでだって一人で帰っていただろう?」
「しかし、オリビエ様!馬車を呼びますよ、オリビエ様!」
大丈夫、と声をかけながら、オリビエは久しぶりに一人きりの帰途についた。
初夏の夕暮れ。まだ陽は高いが、空の青には淡い黄が混じる。流れる雲がそろそろ夕焼けに染まろうとじっと待ち受けているかのようだ。
道端の雑草に夏の青い花を見つけ、そっと手に取る。
ふと目の前をツバメが横切り。
春先に音楽堂のストーブの煙突に戻った鳥が、小さな雛を抱えた。それを告げると、巣を戻してくれたモスが嬉しそうに笑った。結局、大変な作業をさせてしまったが、彼も楽しそうだった。
その話をキシュにすると、あきれたように暇な貴族様呼ばわりだ。それでも雛が可愛いんだと曲にすると、嬉しそうに歌ってくれた。
そう、風に乗るこんな声で。
「オリビエ!」
家の前に。
赤毛の少女が、白いブラウスに草色のドレス姿で立っていた。
名を呼んだ声とは裏腹に、そこに立ったまま、じっと立ったまま動こうとしない。
駆け寄るほど懐いているわけでもない。少女の性格を思い出し、オリビエも走り出しかけた自分を抑える。
ただ、その顔に浮かぶ笑みだけは隠しようもない。
「久しぶりだね!よく来てくれたね」
「オリビエに来るなって言われたわけじゃないから。パンも欲しいし」
「あ、そうだね、ちょっと待っていて。パンを取ってくるよ」
「何?入れてくれないの?歌はいいの?」
不満そうな少女はオリビエの袖をつかむ。
そんな小さなことにすら胸躍るのは、会えなかった時間が何かを育てたのだ。春を待つ雛のように。
「今、ズレンもここに住んでいるんだよ。だから、彼が帰ってくるとまずいから。君の言っていた教会に行こう。パンは必要だろ?持ってくるから」
ズレンの名を出すと少女に何を巻き起こすのか心のどこかに不安はある。だからこそキシュの笑みがこれほどまでに美しいと予想できていなかった。
パンのせいか、オリビエが教会に行こうと提案したからか。
「うん、会いたかった」
その一言に。可愛らしい笑顔に。
思わず抱き寄せてしまう。
少女が少しばかり涙目になっても。抱きしめたい。
「オリビ、エ…」
「僕も、会いたかった」
手に触れる少女の服のさわとした感触、その下の柔らかな肌。それがどれほど柔らかく、弾力を持ちみずみずしいのか。確かめたくて力がこもる。
さらにその息遣いを耳元に感じたい。
唇を離したとたん。
ぱちん、と目の前に何かが弾けてオリビエは我に返る。
「もう!何するの!ばか!」
「あ、ごめん」
慌てて抱き寄せる腕を緩めても。少女は消えてしまわなかった。
「ごめん、いきなりだった」
「謝るくらいならしないの!もう、つまんない」
「え?」
「奪うのが好きって言ったでしょ?奪われるのは嫌い。自由もここも」そう唇を指差して睨みつける。その上目遣いがまたどうしようもない。
ん、そうだねといいつつも抱きしめてしまうのは神も許してくれるだろう。
少女がズレンをどう思っているのかとか、オリビエに対して何を抱いているのかとか。そんなことを気にしている必要もないくらい、パンを抱えた少女の笑みがオリビエの胸を躍らせた。
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「うん、いい香り」パンのことだ。
「お腹すいているのかい?」オリビエが目を細めると、キシュは頬を赤くしてぷんと横を向く。不機嫌な野良猫の赤毛の尻尾はふらりと揺れた。
「分かってるくせに。お腹いっぱい美味しいものを食べられるのは、金持ちだけだよ」
「あ、そうか、ごめん」
「そうやって謝る、意味がわかんない」
「そういえば、ランドンは?今日は護衛がいないんだね」
「オリビエだってズレンがいないじゃない。護衛がいたら二人きりにはなれないんだから。あれでいて、ランドンは嫉妬深いの。あたしが誰かと抱き合ってると吼えるんだよ」
オリビエがふと足を止める。
二歩先に行く少女は振り向きながら、「何してんの?」と笑い、そのままくるりと一回転して前を向く。
「あの。二人きりになりたいの?」
「なりたくないの?」
う、と言葉につまる。
「教会はこの時間、人がいないよ。ちょうどいいでしょ?ズレンがいると腹が立つし」
「キシュは、ズレンのこと、……怒っているのかい?」
好きなのかと聞き損ね、先ほどしっかり抱きしめてキスした勇敢なオリビエは影を潜める。
「……もういいんだ。セイリア姉さんは優しい人だったから。きっとズレンの言う通りだってわかってる。分かってるけど。ただ、ズレンを待っている姉さんが淋しそうで。恋愛がそういうもんならあたしにはなくていい、とまで思った」
「そうか」それでどこか斜に構えている?
「セイリア姉さんが亡くなる時だって、あいつ顔も見せなかった。それでも愛してたって言うの、ずるいよ。あたしには二人のことはわかんないけど、姉さんが最後までズレンのこと心配してたのは知ってるんだから」
キシュが珍しくうつむいた。
「パンがぬれるよ」
オリビエは少女が抱える袋を受け取る。そのまま小さな背を抱いてやる。
キシュは首をかしげて柔らかな赤毛を青年に預けた。
「目の前で見送るのも、見送ることが出来なかったのも。きっと両方つらいんだよ。僕も見送れなかったから。彼の気持ち、少し分かるな」
「あんたが?」
「後悔してる。してもしかたないのに。そばにいれば、死ななかったかもしれないなんて傲慢なことさえ考える。運命に逆らえるはずもないのに」
「……オリビエは優しいんだね。ときどき、腹が立つよ」
言葉とは裏腹に、キシュの小さな手はオリビエの服にしっかりしがみついていた。少しぬれた睫が、伏せた瞳を彩る。
「…キスしていいかな」
「だめ」
町の教会。それは先日キシュを送っていったときに途中にあった小さなものだった。エスファンテ市は三つほどの教区に分かれている。真ん中が市の中心でオリビエが通った学校に隣接していた。その東に位置するのがこの小さな教会。歴史は古く、薔薇窓のステンドグラスは精緻な模様を描かれ静かな礼拝堂内を照らす。
ロマネスクの時代のものだろう。弧を描くシンプルなアーチが天井を支え、同じ形の縦に長い窓が二つずつ並び壁を彩る。
補強のために渡された木の柱組みもまた美しく、同色のベンチとともに正面の聖像を護っている。
五十人ほど入れる小さな礼拝堂の左隅に、オルガンが備え付けられていた。小型だが立派なパイプオルガンだ。
「いいね」
「素敵でしょ?あたし、お祈りとか神父様のお説教とか、好きじゃないんだけど。ここの場所は好きなんだ。オリビエの曲がここに響いたら、ね、きっと神様もビックリするよ」
「ん、そうだね。そしたら、お許しくださるかな」
人気のないそこでオリビエは再び少女を抱きしめる。
「見かけによらず、大胆ね、オリビエちゃんは。どうしちゃったの?飼い犬でも盛りの季節?」
「飼い犬でも。野良猫を見たら追いかけたくなるんだろ」
「追いかけて捕まえて。それで。どうするの」
最後まで言わせない。
冗談めかした生意気な口も、その華奢な肩も。わざと挑発する胸元も。全てに触れたくてオリビエは捕らえた猫を裸にする。
野良猫でなくす為に首に印を。乳房にも。
飼い犬の首輪を外すようにキシュもオリビエの服を剥がしていった。
これほど。
何を尽くしても言い表せない。
これまでの幸せ全てを比較してしまいそうになるほどその時間は愛しい。
余韻はオリビエの音になり。曲になる。
歓喜を叫ぶ雄雄しい曲に。
キシュはそれを歌い。
キシュの歌をまたオリビエが奏でる。
音は人を呼び寄せた。
若い二人の悪戯を教会の司祭が黙って聞き入る。
お祈りにと訪れた親子は響く音色に立ち尽くして。その後からのぞきに来た人々の行く先を塞ぐ。そして彼らもまた足を止めた。
凛々しく響くその曲は彼らの内なる何かを呼び覚ます。
演奏が途切れた瞬間、覚醒した何かを拍手にして人々は吐き出した。
気付いてまだ乱れている胸元をキシュが慌てて整えた。
オリビエは立ち上がり、まず司祭に頭を下げた。
「すみません、オルガンをお借りしてしまいましたし、その……」
キシュの方を振り返る。教会で女性が歌うのは禁忌とされている。その上別の理由でこの場所を借りたのだ、胸を強く打つ動揺でオリビエは何を言おうか言葉を探す。
司祭は黒い長い衣装を引きずるようにベンチの脇を抜け、オリビエの前に立ってその手を取った。
「あなたは…、侯爵様の楽士様」
「オリビエ・ファンテルです」
「いや。素晴らしい、感動しました。キシュは、この子は男の子のようなもの、神もお許しくださるでしょう」
司祭が目を向ける頃には、衆人は三人を囲い、口々に感想を漏らしていた。
「もっと聞きたい」小さい子どもが真っ直ぐオリビエに目を向けた。
「じゃあ、聖歌を。お祈りの時間だから」
穏やかに笑う青年に、小さなレディは両手を顔の前であわせ嬉しげに笑った。