7.疑惑、教会、オルガンの音色3
4
ワインが飲みたいというズレンが地下から三本抱えて戻ってきた時にはオリビエはソファーに深く沈みこんで、大きなあくびをしていた。とっくに日付は変わっていた。そんな時間まで起きていたことはなかった。
「おいおい、まだ寝るなよ。あの男爵がいつ起きてくるか分からないんだからな」
「そんな、人を化け物みたいに言うなよ」
「いいや、あいつは絶対怪しい。不気味だろ、何するか分からないからな。お前は知らないかも知れないけど、男爵は男色家だって噂もある」
「……雇われたのが男爵でなくて良かった」
同じ仕事なら、まだアンナ夫人の方がマシに思えた。
「で、戦争だが」
ズレンはワインのコルクを何度も気持ちよさそうに鼻に近づけて息を吸う。
「ああ、いい奴だ。お前にはもったいないな」
オリビエは黙って肩をすくめる。
正直、オリビエはワインの味はよく分からない。侯爵が置かせているのだから、悪いものはないだろう。多分、ズレンが想像する以上に高価なものだ。
キシュが喜んで持って帰るパンは侯爵家で焼かれたものだし、用意されるタオルやシーツ、全てが侯爵のものだ。それを喜ばれてもオリビエには感銘はない。
「早く、聞かせて欲しいな。何が起ころうとしているのか、どうして僕に護衛が必要になっているのか」
ワインを一口じっくり飲んでズレンはオリビエをグラス越しに眺めた。
「なんだよ」
「議会なんだ。何かを決めるために議員は集ってる。なんだと思う」
オリビエはファリでマルソーに聞いたことを話してみた。
「貴族や僧侶にも税金を納めさせるってことだろ」
「喜ぶはずないよな、貴族も僧侶も」
オリビエもわが身を思う。自分もその特権を与えられている。これで税金などといわれてもどうしていいのか分からない。貴族や僧侶の中には貧しいものもいるだろう。
「言い出したのは宮廷なんだけどな。今この国は借金だらけで、そのうち隣国のアウスタリアには国土を買い取られるんじゃないかって噂まであるくらいだ。だから、国王陛下は国のために貴族に我慢してもらおうと思っている。けど、納得いかない貴族と僧侶は、話し合いを放棄して議場を別にしたんだ」
「……三部会、じゃないのか」
「今は二部会と平民部会、って感じだな。平民の代表たちは皆に期待されている。早いところ決着をつけてほしいと皆願っているんだ。大体、主だった貴族や僧侶、平民代表の豪農やブルジョアたちがそれぞれの領地や仕事を放り出しているんだ。あちこちで困ったことになってる。領主が議会に出ている間に農民一揆が起こった街もあるんだ。それを聞いて慌てた地方貴族は領地に飛んで戻った」
「!あれ…それ」
「そうだ。表面上はお前のためになんて言っていたが、実際は侯爵様だって領地が心配だったと思う。例え侯爵様が平気でも、ここで残っている俺たちエスファンテ衛兵は気が気じゃなかったからな。だから、俺たち下っ端を安心させるためにも侯爵様は戻ってくださった」
「……でも、またファリに行かれたんだろう?」
二杯目を注ぎながらズレンはフンと息を吐き出す。
「議会の膠着に困った宮廷が、一度罷免された宰相レッフェルを呼び戻したんだ。スイスの元銀行家だからね、彼の政策には皆期待している。その彼が奔走したらしい。平民部会は自分たちで国民議会なんてものを打ちたてようとするし、放っておけなかったんだろう。それで議会が再開された。侯爵はロスレアン公に呼ばれたようだ。あの王弟は腹の読めない人だけど侯爵様を買っている。昔、侯爵様が軍隊にいた頃に同じ隊に所属したらしい。侯爵様も宮廷に継ぐ権力を持つロスレアン公の申し出は断れない」
オリビエは結局ロスレアン公とはまともに話せなかったと思い出した。
「今、議会は宮廷の軍隊に囲まれているそうだ。ファリ市民の傍聴も許されないらしい。議会の代表者たちは支える民衆から切り離されて孤立している。ファリの市民は街の中を軍隊が闊歩するのに閉口しているようだ」
「大丈夫かな、侯爵様」
物静かな侯爵が、議場の狭い席に座る姿を想像した。
あのときのパレードでそうだったように、隣にはロスレアン公がいるのだろう。
「だから、今度はエスファンテ衛兵を連れて行ったんだ。彼らが帰ってくるまでこっちだって何とか維持しておかなきゃならない」
「維持?」
「本当に疎いな。このエスファンテは国境の町だろう?すぐ隣には山しかないとはいえ、アウスタリア領だ。アウスタリアの人間が入り込んで、少し前から街の不穏分子を利用しようとしているって噂だ。キシュの住んでいる、あの界隈。そこを拠点にしているんだ」
「……彼らを扇動して、一揆でも起こさせるって言うのか」
「そこまでは分からん。けど、首都のファリがあんな状態で、その上この地には領主がいない。アウスタリアだって首輪でつながれているわけじゃないんだ。当然狙っているだろう。現に、南部では一揆を起こした農民をスフェン王国が支援しているという」
「……それで、どうして僕に護衛なんだ」
ズレンは砕いたチーズを口に運ぶとワインで流す。
「さあ。そこだけは分からないね。市の東部には山賊も出ているらしいし、流浪民が夜の間に作物を荒らすという話もある。それに対抗しようと農民は自警団を作っているらしい。その自警団も矛先を我らに向ければ反乱軍だ。このエスファンテだって治安がいいわけじゃない。ま、とにかく侯爵様はお前のことを気にしていた。お前の何が特別なのか、それは侯爵様にしか分からないだろ」
沈黙に耐えかねたようにズレンは三杯目をグラスに満たした。
赤く揺れるそれを見ながらオリビエは目を擦った。
「眠いなら寝ろよ、俺はここにいるから」
「……ズレンは」
「ジーでいい。友達にはそう呼ばれている」
「ジーは、もし何か起こったら、人を殺したりできるのか」
「何のための衛兵だよ」
「だけど、さ」
「お前みたいに温室の中で綺麗なものばかり見ているのとは違うさ。一つ、忠告しておいてやる。優しくて、親しくしてくれる人間ほど裏切りやすい。人など、表面上は何でも繕える。気をつけるんだな」
「…僕のことを裏切って得する奴、いるのか?」
「ぷ、そりゃ、……いないかもな」
その発想が気に入ったのか面白そうにワインを飲み干す。
何も持っていないのだ。音楽しか能がない、こんな奴を大事にしてくれる侯爵。仕事とはいえ護ろうとしてくれるジー。
オリビエは音楽を残してくれた両親と神に感謝していた。