6.エスファンテの青年衛兵6
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翌日、朝の迎えに来たズレンは初対面のとき以上に堅く、口を開かないと決め付けているかのように黙り込んでいる。
通りの並木が流れるのをオリビエが見送り、その向こうの麦畑を見つめる。
小さな林の向こうには、この街の中心街が屋根だけ連ねて見えた。褐色の瓦に朝日が輝き、オリビエは目を細めた。
あのどこかに、キシュやズレンが暮らした場所がある。オリビエが通った学校も今は時計台の尖がった屋根だけを見せていた。
幾人か、仲の良かった同年代の子らを思い浮かべたけれど、両親がなくなってからは遠ざかったままだった。
オリビエ自身、教会と広場を中心とした街に足を踏み入れる必要も、そして自由もなかった。会いたいと願うほどの友人もない。
「幼馴染、か。いいね」
そうつぶやいた青年に、ズレンはますます顔を堅くした。
「僕が育ったあの家は、貴族の子どもたちが音楽を学びに来ていた。僕は彼らを敵とみなしていたんだ。負けたくなかった。傲慢な態度の彼らに、音楽だけは負けないといつも威張って見せた」
「……オリビエ様も、貴族の称号を得ていらっしゃるのでは?」
「侯爵に引き取られたときに、形だけもらったんだ。僕を引き取ってもらう代わりに両親の残したものを侯爵家に引き渡した、その時のおつりのようなものかな。免税の特権だけだからね、どこからも収入なんかない。一人で生きていくためには、侯爵様に頼るしかないんだ」
ズレンの返事がない。オリビエは窓から傍らの青年にと視線を移した。
「キシュに、聞いたんだろう?あの子は僕のことを侯爵の飼い犬だと言うから」
「あの、それは。昨夜は本当に失礼しました。キシュにも言って聞かせます」
「君が謝る必要はないだろ。それに、本当のことだ」
また、沈黙がその場を支配した。
うん、と伸びをして、オリビエは息を吐く。
「もう、痛みもない。昨夜ぐっすり眠ったから、もう大丈夫。だから。ズレン、迎えはもう結構だ」
「オリビエ様」
「早く、楽器に触れたい」
それから数日の間、オリビエはとにかく楽器のそばにいた。
アンナ夫人がオリビエのそばにいるように、オリビエは楽器に寄り添っていた。そうしなければ何かが崩れてしまう気がしていた。
侯爵に命じられたズレンは送迎を止めないし、怒ってオリビエが歩いて帰ろうとすれば、その隣を歩き離れようとしなかった。
キシュも誰に会いたいのか毎晩家に来るようになり、オリビエの吐き出す音を見事に歌って見せた。それにはズレンも驚き感心していたが、キシュ本人はその対価として受け取るパンに一番の笑みを向けていた。
シューレン夫人はパンが毎日随分減るので、何か言いたげにオリビエを見つめるが、オリビエはズレンを夕食に招待しているし、夜中にお腹がすくのだと言い張った。
「ね、私も楽器に触っていい?」
オリビエがまだ夕食を食べ終わらないうちに、キシュは席を立ってチェンバロの脇に立つ。
「え、でも」
オリビエが慌ててサラダを飲み込もうとし、むせると、ズレンが笑ってワインと差し出した。
「オリビエ、大丈夫だよ。キシュはね、教会でオルガンを弾くんだよ」
ますますむせる青年の背をなでて、ズレンが言った。いつからだろう、エスファンテの青年衛兵はオリビエを呼び捨てで呼ぶようになっていた。
「そうなのか?オルガンは弾けないって言っていたのに」
少女はすでに、遠慮がちにイスに座り、鍵盤に恐る恐る手を置いた。
そのぎこちない仕草がいつもの少女らしくなく、オリビエは目を細める。隣でズレンも噴出していた。
「おい、キシュ、がちがちじゃないか」
「う、煩いわね!ズレンには楽器の価値がわかんないんだから!」
真っ赤になって反論する少女。
「ばかだな、キシュ。楽器そのものじゃないんだ、楽器を弾きこなすオリビエに価値があるんだよ」
ズレンが笑い、オリビエは少し恥かしくなりまた、ワインを口に運ぶ。
「そんなの分かってるわよ!もう、意地悪なんだから。オリビエみたいに音楽に全てを捧げるなんてそうそうできるもんじゃないんだから」
言いながら、キシュはぽろぽろと鍵盤を押さえる。
「へったくそ」
ズレンがからかえば、少女は口を尖らせた。わふんとランドンも笑う。
「もう、オリビエ、何か弾いてよ」
聖歌を弾きかけて、すぐに諦めたのかキシュは立ち上がり、チェンバロの脇に立った。そこが、歌を歌う彼女の定位置になっていた。
互いになぜか喧嘩腰の癖に、キシュとズレンは仲が良かった。彼らの存在はオリビエの夕食を楽しいものに変えていた。オリビエは始めのうちこそ喧嘩をするなら帰って欲しいと何度も二人に言い聞かせていたが、今はその必要もなくなっていた。
もともと幼馴染。離れていた時間を取り戻せばその距離は目に見えて縮んでいく。
オリビエはそんな二人を音に変えた。
お互いに顔を見ればからかったり、拗ねて見せたり、反発しているように見えるが。ふと見せるキシュの切ない表情、ズレンが端々ににじませる優しさ。それが、オリビエの気持ちを温かくさせた。
相変わらず犬呼ばわりだが。オリビエの奏でる曲にはキシュも敬意を表していた。
明るく楽しい曲を、キシュが声にし、二人に聞かせる。
伸びやかなソプラノにランドンも満足そうに床に寝転ぶ。
「ああ、いいね」
オリビエが満足げに笑う。
「ほんと、素敵」
キシュはまだ歌い足りないのか、つま先でリズムを取る。
「譜面にする間、テラスでダンスでもしてきたらどうだい。ズレン、今夜は月が明るいからね」
オリビエの提案に、キシュが頬を染め「ダンスなんて、貴族趣味よ」と顔を背けた。
「まあまあ、オリビエの邪魔にならないように、ほら、じゃあ散歩だ」
ランドン、と犬を呼び、ズレンとキシュは部屋を出て行く。
室内からの明かりを背に、二人と一匹が月夜に歩き出すのが見える。
キシュが歌った歌はすでに譜面に書き込まれていた。
二人を見送りながら、オリビエは一人楽器に向かう。
孤独でなければ奏でられない曲があった。二人に聞かせられない音だ。