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1.音、恋、空 3


「アンナさま、あの?」

「オリビエ、あの子には出て行ってもらうわ」

あの子…。

「それは」

「楽士オリビエは一人しかいないけれど、メイドの代わりなどいくらでもいる」

「!アンナさま、どうかそれは」

「では」

侯爵夫人の唇は弧を描くと横に伸び、パンドラの箱を思わせる。

「抱きしめて」


擦り付けられるふくよかな胸。

緋色のドレスの胸元ははしたないほど開かれていた。

オリビエは目のやり場に困り視線をそらすが、気付けば吐息が口元にかかる。

「あの子を辞めさせたくないのでしょう?」

妖艶なパンドラの箱はそう囁いてオリビエの口を塞いだ。




音楽堂の窓から庭に灯される外灯が見て取れる頃。オリビエは一心に鍵盤に向かっていた。心に思う音を一指一指つなげていく。はかなげで切ない弦の響きに、オリビエは磨り減ってしまった何かがまた心に戻ってくるような感覚を覚えていた。

この楽器の音はとても気に入っていた。

それは侯爵も同じで、今年の春の楽器の展覧会で二人同時にこれは、と目を合わせた。

オリビエの選択と自らの選択が同じであったことが嬉しかったのか、普段無口な侯爵が嬉しげに笑った。

「これに、お前の好きな絵を描かせよう」

そうして、美しい空を描かれた真っ白なチェンバロはこの音楽堂にやってきたのだ。

軽やかな音がこれほどまで伸びるのは、楽器のためなのか、建物の構造なのか。耳に沁みる淡い音を掬い取ってはまたこぼす。

夢中になって弾いている青年の手は見るものを魅了した。

先ほどまで、青年を欲のはけ口としていた侯爵夫人も、今は人形のように傍らにおり、その音の響き一つ邪魔しないように息を潜め聞き入っていた。


曲は激しさと切なさを増し、深い森に迷い込む。湿気を帯びた空気を振るわせる。雨粒のようなかすかな音が遠くから近づいてくる。

そして、遠ざかると、夜明けの涼やかな風が吹き、音は木の葉から垂れる一滴の水滴となって、曲は終わった。


ふう。


乱れた髪を気にもしないで、オリビエが眼を閉じたとき、背後から拍手が響いた。

音で誰か分かる。


オリビエは立ち上がると、拍手の主、扉の前に立つ侯爵を見つめた。

夫人も拍手で気付いたらしく、慌てて立ち上がると侯爵に駆け寄る。

オリビエは黙って一礼した。

「今日はことさら激しいな」

「恐れ入ります」

侯爵は傍らの夫人に腕をとられながら、視線はオリビエに向けたまま満足そうに笑った。

「明日の茶会には、今の曲は弾けまい。新しいものを」

「はい。三曲ほど用意してございます」

「うむ。楽しみにしておるぞ」

再び頭を下げる青年を置き去りに、侯爵は夫人を伴って出て行った。

オリビエはいつの間にかびっしょり汗をかいていることに気付く。

激しい怒りに似た思いを音にして吐き出せば、安堵が訪れた。

思いのまま弾き殴る曲は、人を惹きつけるが二度と同じものは弾けない。譜面に起こすことも出来ない。

侯爵はそれをよく知っていた。

そして、そういう曲を奏でる時はオリビエの心が平穏でないことも。


自らをさらけ出す演奏は終わってしまえば熱から醒めたような空虚な満足感を残した。オリビエのそれを侯爵はもう、五年も聞いている。夫人とのことも見透かされているのではと空寒い思いもあるが、侯爵が態度に出さなければ耐えるしかない。

貴族たちの華燭なお遊びはさまざまな欲を満たし時間をつぶすためにある。その嗜みの一つである自分の立場を嘆く必要もなかった。



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