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6.エスファンテの青年衛兵4


熱にうなされるような重苦しい曲を吐き出し、オリビエはやっと息をついた。

チェンバロの冷たい鍵盤が心地よく、ぺたりと手のひらを乗せる。

夫人は満足すると服を調え、音楽堂を出て行った。


「お前が、何者なのか。調べて見せるわ」


結局、夫人は思いついた疑惑に夢中なのだ。そこに何か謎があると思い込んでいる。オリビエの何を調べるつもりなのかは分からないが、侯爵に夫人との情事を突きつけられるよりはましだった。好きにしてくれと、思うしかない。


深い泥に足をとられている。

身動きが出来ない。

動けば、音楽を失う。


オリビエが奏でたそれは重く切ない。

楽器に描かれた偽物の空が差し込む夕日に赤く皮肉に光って見せた。



まだ陽の残るうちにオリビエが屋敷に戻ると、家の前に少女が立っていた。

護衛のズレンは眉をしかめ、キシュを追い払おうとサーベルに手を置きかけた。

「待って、知っている子だから」

「オリビエ様、私も知っていますよ。酒屋のパーシーの娘です」

ズレンの顔を見てキシュは「じゃあ帰るわよ」と拗ねた口調で言うと、背を向ける。

傍らにいつもの犬。主人の代わりにオリビエのほうを振り向いていた。


「待って、キシュ。ズレン、あの、何も怪しいことはないんだ、ただ、彼女に作曲を手伝ってもらいたいんだ。なんなら、君が見張っていてくれていい」

オリビエの言葉にズレンはしばしキシュとにらみ合う。

「そうさせていただきます」

「なに、えらそう」

キシュの言葉に騎士はますます肩を怒らせる。

ズレンは御者に何事か説明し、馬車だけ侯爵家にと戻っていく。


オリビエがキシュを家に招きいれ、その後ろからズレンもついてきた。と、ズレンは戸口でキシュの護衛と目があったのか立ち止まってにらみ合う。ワンと一声吼えられた。



オリビエはシューレンさんの用意してくれた夕食をキシュとズレンに振る舞い、温かい茶を入れた。

「オリビエ様、これはあなた様のご夕食でしょう、どうぞ、私にはお構いなく」

とズレンが遠慮すれば、

「じゃ、あたしこれもらうわ」とキシュがデザートの二つ目に手を伸ばした。

また二人はにらみ合う。

「あの、君たちがどういう知り合いか僕は分からないんだけど。でも、ここは一応僕の家だし、もう少し普通に出来ないかな」

ワフン。

困り果てたオリビエに同情したのか犬が声を揃えた。

「あ、オリビエ、ランドンにもお肉」

「お前!」

ズレンが立ち上がる。

「何よ、あんたは関係ないでしょ、裏切り者」

「裏切り者とはなんだよ!」

今にもつかみ合いを始めそうな二人。オリビエは閉口した。

「ああ、もう。なんだよ、君たちどういう関係なんだよ!」

オリビエが耐えられずに怒鳴る。

が、背中が痛んで慣れない怒鳴り声に迫力はない。

今日は朝から疲れた。

シューレンさん、アンナ夫人。だから早めに帰宅したのに。今はこの二人か。

ぐったりと疲れを感じ、オリビエは大きく息を吐くと、そのままゆらりとソファーに向かい、座り込んだ。


「ごめん、もう。いいから。疲れたよ」

「オリビエ様?」

「ひ弱なんだから」

少女の侮蔑にも、反論する気分になれない。

オリビエはけだるい気分でそのまま寝転んだ。

「オリビエ様?大丈夫ですか」

「なに、変なものでも食べたの?拾い食いはだめだって、ご主人にしつけられなかった?」

がばっと。

オリビエは起き上がる。

二人を無視して、一人楽器に向かう。


痛みもけだるさも、どうしようもない泥沼も。

音にしなければ涙になってしまいそうだ。

いつもなら調律してからの演奏が、今日は違う。とにかくこぼれて頬を伝う前に音に変えた。歪む音はそのままオリビエの不安定な心を映す。


マルソー、あなたの言った僕の生き方は、確かに一つの思想かもしれない。

でもそれを貫くのはとてもつらい。

つらいけれどそれしか。

僕にはない。

侯爵が僕を子どものように心配したという。その姿を見ていないが、少しばかり心がくすぐったかったのも本当だ。

それは十三の時、侯爵の胸で泣いたあの時以来の気分かもしれない。

父さんの残した音楽の才能。母さんが教えてくれた愛情。それがあるから僕は侯爵に認められ今がある。感謝しているけれど、苦しい。

何をどうすれば、僕はただ、音楽を楽しめるのだろう。

純粋にこの一つきりの音が美しいと思えるのに。

張り詰めた弦のつぶやくようなそれがとても愛おしいのに。


「もう、止めなよ」


少女が叫んだ。


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