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6.エスファンテの青年衛兵3


「お前は、なんなの。私から、侯爵様を奪った」

「アンナ様、あの、意味が分かりません」

強引に体重をかけられ、オリビエは夫人を押しのけ立ち上がろうとする。

何を言っているのか全然分からない。

「お前が、私を不幸にしたのよ」

アネリアが浮かんだ。

あのファリの街角、細長い空。

痛みより痛い切なさが胸に落ちた。

僕の音楽が彼女を不幸にした。

「お前がいたから。私は不幸になったの」

それが公爵夫人の言葉だと理解した時には、床に押し倒されていた。ついた瞬間の背中の痛みで我に返る。

まるでアネリア。

彼女と同じ台詞をこの夫人が呪うように繰り返すのは、どうしてなんだ。アネリアを追い出した張本人ではないか。

「ねえ、オリビエ」

耳元を指先でくすぐられ、オリビエは目をつぶった。

くすくすと、夫人が笑う。

「あの、意味が分かりません、アンナ様。私があなたを不幸にしたとは、どういう」

襟元を解こうとする手を押さえて止める。

「ことですか」


「気付いたのよ。お前が怪我をしたときに。あんなふうに取り乱した侯爵様を、初めて見たの。おかしいでしょ?私が誰とどんな遊びをしようとも、二日も無断で屋敷を抜け出していようとも、あの人はいつも顔色一つ変えないのに。あの時、お前が運ばれてきた時にどれほど恐ろしい顔で私を睨み、ビクトールを怒鳴りつけたか」

オリビエは夫人に口を塞がれなくとも言葉が見つからなかった。

荒々しいほどの口付けは青年の理性を舐め取ろうとする。切れた唇が痛んだ。

夫人の細い肩、そのどこにこんな力があるのか。

背中の傷が痛んだ。


長いキスのあと、切なげに息をつく青年に夫人は続けた。

「ね、侯爵様が私の相手をなさらなくなって、丁度五年。分かるかしら。オリビエ、お前をこの家に迎えてからあの人は私に見向きもしなくなったの。きっとそうなのよ。お前がいるから。ねえ、オリビエ、正直に話しなさい。あの人と、侯爵様とお前は、どんな関係なの」

オリビエは首を横に振った。

なんと言えばいいのか。

あの十三歳の秋、オリビエの曲を気に入ってくれたのだろう、だから、引き取ってくれた。雇ってくれたのだ。

それをどんな関係だと問われてもオリビエには答えがない。

「なにも、あの、雇っていただいた、ということしか。アンナ様、それはきっと誤解です」


オリビエには、侯爵がアンナ夫人を大切にしているように見えた。夫人を愛おしいと思いじっと見守っているように感じた。いつか、アネリアが言っていた。侯爵様は普通の人と違う、堅実な人だと。色や欲にほだされるような人間ではないし、当然夫人を裏切るようなこともしていない。貴族にありながらそれは珍しいことだった。だからこそ、アンナ夫人にはそれが理解できないのだ。侯爵の静かな深い愛情が。

「あの、けっして、侯爵様は奥様を裏切るなどなさいません」

「それはあてつけなの?」

頬をぺちんと叩かれた。

「私は、そうね。あの人にも、お前にも、こんなことを言う資格などないわね。私はあの人を裏切って、こうしてお前と抱き合っているのだもの!」

強引に口付けを繰り返し、白い手をオリビエの体に這わせる。

「放してください。侯爵様はあなたを大切になさっているじゃないですか。あなたが侯爵様を疑うのは間違っています。あなたが何をしても変わらずに、ずっと」

婦人の手がオリビエの首を絞める。

それはやんわりと、それでも温かい手の圧迫感はオリビエをぞっとさせた。

「何をしても?いい度胸ね。お前がそんなことを言うの?あの人を庇ってどうするの?お前も、裏切っているのよ。侯爵様を。ねえ、そうでしょ?お前に女を教えてあげたのも私なのよ。今更自分だけ善人ぶるのははしたないというものよ」

ゆっくり、婦人の手に力が入る。

オリビエは奥歯をかみ締める。

同罪、それは分かっている。

初めてアンナ夫人を見たときには、その美しさに憧れた。見たことも、触れたこともない柔らかな肌に幼い欲望を抑えることができなかった。

それが罪だということも、当然分かっていた。


「侯爵様がお帰りになったら、お前とのことをすべて話すわ。そうすれば、侯爵様がお前をどうするのか、どう思っているのか分かるから」

その宣告はオリビエを凍りつかせた。

慌てて夫人の両手首を下から掴んで押しのけると、オリビエは痛む背中を庇いながら体を起こす。


「ふふ、面白そうじゃない。ねえ、オリビエ。あの人が、私とお前、どちらを大切に思っているのか分かるわよ」

当然、それは分かっている。オリビエが追い出され、アンナ夫人は侯爵の愛情を確かめることになる。


オリビエと婦人の関係は侯爵も感づいているだろう。見逃しているのだろう。それを本人から突きつけられれば、見て見ぬ振りはできない。オリビエをそのままにしておけるはずはない。


そして、僕は音楽を失う。


「あら、どうしたの、オリビエ」

オリビエはうつむいて、床に座り込んだままだ。

「泣いているの?」勝ち誇ったかのような夫人は、膝立ちになると楽しげに青年の頭部を抱きしめ髪をなでた。

「どうか、それだけは。侯爵様に言うのだけはお止めください。私から音楽を、取り上げないでください」

「そうよ、オリビエ、お前にはそういう姿が似合うわ。大人しくて従順。ファリでマルソーたちに何を吹き込まれたのか知らないけれど、私に逆らうのは許さない。そして、私から侯爵様を奪うことも、許さないわ」

夫人の赤い唇が、再びオリビエの体を舐め始めた。

全てが自分のものであるかのように、アンナ夫人はオリビエに印をつける。

そうして所有者としての快楽を貪る。



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