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6.エスファンテの青年衛兵


オリビエが自分の家に戻れたのはそれから三日後のことだった。

シューレンさんの淹れてくれた朝のコーヒーを飲み、オリビエはぐんと伸びをした。

「やっぱり、ここが一番だね」

青年が好きな蕎麦粉の入ったクレープにバターをたっぷり使ったオムレツを添える。炒めたベーコンとクレソンで彩が加わる。ダイニングの窓からは屋敷を囲むオリーブの木々を透かして小さな菜園の向こうに隣家の影が見えた。

オリビエの家は侯爵家から程近いところにあったが、街の中心にあるような庭のない細長い商家とは違い、一軒一軒庭と池と、街道からの小道を持っている地域だ。垣根や小路の形、家の配置はさまざまだが、ブルジョアと呼ばれる平民の中でも裕福な人々が住んでいる。隣家はルグラン市長の甥に当たる人物が住んでいる。

その向こうは広く牧場を経営している豪農で、最近ある貴族からその家を買ったらしい。

オリビエは庭にこだわりもないので生えるがまま、所々シューレンさんが好きなように花や野菜を植えていた。

今も、皿に乗るクレソンは庭から取れた新鮮なものだろう。生き生きとした新緑の季節にこの野菜は活躍を見せる。


シューレン夫人は太った体を揺らしながら、夕食の下ごしらえをしている。

羊の肉に、庭に生えるローズマリーをすり込んでいた。

夜にはローストされたラムが出されるのだと想像できた。


「オリビエ様がお怪我されたと聞いて心配しておりました。まだ、ご無理はいけませんよ。侯爵様からくれぐれもと命じられておりますしね。しばらくは侯爵家から馬車で送り迎えが来るそうですよ」

「もう平気なのに」

侯爵様のお気持ちですからね、感謝しなくては。そう、振り向いたシューレン夫人にたしなめられる。

「わかっているよ、でも、少しは体を動かさないと、本当に病人みたいだ」

「オリビエ様。大勢の方にご心配いただいたんですよ、少し萎らしくしてくださらないと、心配した甲斐がありませんよ」

夫人がこんな風に言うのは珍しかった。

「変な理屈だね」

オリビエは切り取ったクレープを器用に三つ折りにしてフォークで突き刺した。

「オリビエ様」

またも非難めいた口調。どうも、シューレン夫人の様子がおかしい。

オリビエは眉をひそめる。

まるで子どもをたしなめる母親のようじゃないか。そんな風に感じたのは初めてだ。

「僕に、何か言いたいことがあるのかい」

口からはみ出していたクレソンをつまんで、もう一度口に突っ込んだ。

オレンジのジュースを喉に流し込む。

「キシュという女性には、二度とここに来ないようにとお話申し上げました」

「!」

立ち上がったオリビエに、覚悟を決めたような面持ちでシューレン夫人は向き合った。白い眉間にめったに見ないシワを見て、夫人がキシュのことで承服できないところがあるのだと分かる。けれど、始めに菓子を焼いてくれた時には嬉しそうだった。

何があったのか。キシュが夫人の機嫌を損ねたのだろうか。夫人には、きちんと理由も説明したはずだった。


「言っただろう、あの子の歌は役に立つんだよ。僕が曲を作るのに役立つんだ」

夫人は首を横に振った。

「シューレンさんだって、クリスマスには協力してくれたじゃないか!」

「せっかくの贈り物が寝室に戻されているのを見ました。乱暴に開けられた包みも。オリビエ様のなさり用ではありません、呆れましたよ。あの娘とは身分が違うのです。オリビエ様のお気持ちを理解できるようなものではありません。形見の品を譲ることがどれほど決心の要ることか」

「いや、それは……僕が自分で用意できないことがいけないんだ」

そこで、シューレン夫人は目をそらした。小さく肩で息をして、それから告げた。


「確かに、オリビエ様が年頃の女性に興味を示されるのは当然のことですし、私もご協力差し上げたいと考えました。オリビエ様がよろしいのでしたら私が口を出すことではないと。ですがあの娘は、街の酒屋の娘です。身分が違いますし、酒屋はあまりいいうわさを聞きません」

「キシュが、何か僕にとって悪いことをするとでも言うのか?」

シューレン夫人は首を横に振った。

「ですが、オリビエ様。ファリでは議会が膠着して不穏な情勢が続いております。その様子が新聞でもたらされるたび、この田舎町でも集会が開かれるのです。街の司祭や弁護士、医師、鍛冶屋や商人、さまざまな者たちが集って、一つの新聞を読み上げ、意見を交わすそうです。あの子の家の酒屋はそのための会場になっています。あなた様を利用しようとするかもしれませんし、侯爵様にご心配をおかけすることになります」

「それを、侯爵様に言ったのか?」

シューレン夫人は首を横に振った。

「今はまだ。オリビエ様がこのまま諦めてくだされば、私は黙っております。ですが、これからもあの子をここに呼ぶようでしたら、考えなくてはなりません。オリビエ様のことを大切にしてくださっている侯爵様にご心配をおかけすることは出来ません。私は、オリビエ様。侯爵様に雇われているのです」

シューレン夫人の雇い主は侯爵。

それを言われてしまったら、オリビエには反論も何もない。

けれどそれは最初からそのはずだった。今、それを盾にするのは卑怯ではないか。

「意味が分からないよ」

オリビエは、ゆっくりイスに座った。

少しだけ、背中の傷が痛んだ。

「侯爵様が心配するって、なんでそう思うんだ?そんなこと、これまでだって言ったことなかったのに」

「オリビエ様。あなた様がファリから戻られた時。あの時の侯爵様のご様子は、それはもう、胸が痛むほどでした」

「僕は、知らない」

「とても、あの毅然とした侯爵様とは思えないほど憔悴なされて。まるでわが子を失う父親のようでした。オリビエ様、あなたをとても大事になされていると感じました。それは、あの場にいた皆が思ったのではないでしょうか」

うなだれている青年を、夫人が抱きしめた。

「お許しください。オリビエ様。あなた様が自由を得たいと願っていることは、私も十分承知なのです。ですが、今回のような危ない目に遭われたのを知ると、どうにも心配で仕方ないのです。あなた様は、ご自分が感じられている以上に大勢の方に愛されているのですよ」


なにか、反論してやろうとオリビエが言葉を探るうちに、玄関のベルが鳴らされる。

「侯爵家からのお迎えです」

二頭立ての馬車には、丁寧にも御者のほかに侯爵の衛兵が一人ついていた。サーベルを携える彼にオリビエは少しだけ、演奏させて欲しいと伝えた。

まだ若い衛兵は黙って頷いた。



オリビエがリビングでチェンバロに命を吹き込み、数曲を演奏し終わるまで衛兵と御者は部屋の隅で待っていた。

シューレン夫人の入れたお茶に手も出さずにいるのは、使命に忠実なためか、オリビエの曲に聞き入っていたためか分からない。



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