5.切り取られた空6
7
目が覚めると、そこは見たことのある寝室だった。
クリーム色を基調にした壁、青緑のカーテンに金の房飾り。天使が踊る暖炉。ここは、侯爵の屋敷の、一室だったような。
「オリビエ様!」
白いエプロンのメイドが覗き込む。
「早く、侯爵様にお知らせして!」
もう一人いたのだろう、軽やかに扉を開いて出て行く音がした。
オリビエはうつぶせになっている姿勢を苦しく感じ、身を起こそうとする。
「っつ」
痛みと同時に、自分がベッドに縛り付けられていることに気付いた。
「なんだ、これ」
「動いてはいけませんよ、オリビエ様。背中をお怪我されていましたので、寝返りを打たないようにと、お医者様がこうされたのです」
メイドが手首にからんでいたロープを解いてくれた。
「ま、縛られている姿をもう少し見ていたかったのに」
残念そうな口ぶりとは裏腹に、アンナ夫人が嬉しそうにベッドに駆け寄った。オリビエの手についたヒモの痕をそっとなでる。
「ご夫人もなかなかのご趣味ですな」
そう、夫人をからかったのはロントーニ男爵だ。何故ここにいるのだろう。
「あら、これは侯爵様がお決めになったことです。ねえ、あなた」
侯爵はニコリともせずオリビエが起き上がるのを助ける。
腰に枕を当ててもらい、こわばった体からホッと息を吐き出すとオリビエは改めて侯爵を見上げた。
「あの、何も覚えていないのですが。ここは、侯爵のお屋敷ですか」
夫人と男爵は視線をそらし、侯爵だけが真っ直ぐオリビエを見ていた。
「あの、教えてください。あれから、一体どうなったのです」
「お前はファリの路地で背中を刺され、ロスレアン公の城に運び込まれた。治療を受け、落ち着いたところで私も議会が膠着したのでな。こちらに運んだ。その間、お前は眠り続けていた」
「アネリアは」
侯爵の太い眉がピクリと動いた。
「あれから七日だ。風邪で体力が落ちていたこともあって感染症に罹って一時は危なかったのだぞ。心配してロントーニ男爵もここ数日滞在されている」
「あの」
「当分は、ここにいるのだ。よいか、外出も許さん」
「アネリアは、どうしたのです!」
逃げたのだろうか、それとも。
侯爵の分厚い手がつかむようにオリビエの口を塞いだ。
「う……」
「その名を私の前で口にするな。二度とは言わん。いいな。守れないのなら、一生ここに縛り付けるぞ」
ロントーニ男爵も神妙な顔をしていた。
結局、食事をもらい、再び横になった頃。食器を片付けに来たビクトールと話すことができた。
こわばった表情、視線はテーブルの食器に置いたまま、ビクトールはゆっくり話し出した。
「私達が駆けつけたとき、アネリアはあなたにしがみついて泣いていました。奥様は悲鳴を上げ、私が止めるまもなくアネリアにつかみかかり。突き飛ばされたあの子は足元に転がっていた硝子の破片を奥様に向けました。私が奥様を庇い、あの子を殴り飛ばして。あなたを抱き上げた時には、あの子はもう、逃げ出していました」
「じゃあ、無事なんだね」
「オリビエ様。もう、お止めください。あなたは、あの子を愛しているわけではありません。ただ、ご自分があの子より音楽を選んだ、そのことに呵責を覚えているだけです。同情しているだけですよ。それは、あの子を不幸にします」
あの時の、アネリアの言葉がよみがえった。
僕の音楽が、彼女を不幸にした。
「分かってるよ、ビクトール。僕は、結局卑怯者なんだ。あの時、アネリアは僕の手を狙ったんだ。でも僕は、それを差し出すことが出来なかった。僕の音楽が彼女を不幸にしたと分かっていたのに、自分から音楽を取り上げることが出来なかった。だから、思わず彼女に抱きついたんだ。ケガも、自業自得なんだ。僕が全部悪いんだ」
じっと手のひらを見つめていたオリビエに、ビクトールは笑いかけた。
「あなたのようになりたいとは思いませんが、羨ましいとも思います」
「意味がよく分からないよ。ね、ビクトール。少し、弾きたいな」
「侯爵様がお許しになるまでは我慢してください」
8
その日の午後には、部屋にチェンバロが運び込まれた。ビクトールが侯爵に許可を取ってくれたのだろう。
下男が五人がかりでそっと運び入れたそれは、相変わらず真っ青な空を抱いていた。
オリビエは慈しむように時間をかけて調律して行った。
音に納得し、アネリアへの気持ちを音に昇華させる頃には、メイドが手をつけられることのなかった冷めた茶を温かい夕食に取り替えた。
「少し、聞いていていいかな」
夕食と一緒に運び込まれた客人は、食事用のテーブルにしっかり席を取り、椅子にもたれかかるとくつろいだ。
ロントーニ男爵の存在も、オリビエはただ、小さく一度頷いただけだ。
賑わう街、ファリ。今夜もそこでは自由が歌われ、叫ばれるのだろう。
人々のぎらぎらした粘りつくような情熱が、この国を変えるのかもしれない。あのパレードの高揚した空気。喧騒が力の渦のように集っていた。
オリビエがあれほどの熱意を持って、あのかわいそうな少女に愛情を注ぐことが出来たならきっと何かが違っていただろう。
そんな情熱を、音を奏でること以上に何かに向けられたのなら、オリビエの人生も変わったのかもしれない。
だが、オリビエには音が、楽器が、それを奏でる指が必要だった。
お前の生き方は一つの思想だ。
マルソーの言葉は音をにじませた。そこに存在していい、といわれたのと同じだ。
このままオリビエという音楽家として、生きていいのだといわれた気がした。
静かに緩やかに。音は伸び、空を翔る。そのために描かれた楽器の空は、いつもの蒼を讃えてオリビエの思いを受け止める。
そこでこそ息が出来るのだといわんばかりに、オリビエの指先は鍵盤を走る。踊るように走るように。疾走し続ける。その先が何であろうと音に限りはない。
ふと、オリビエの手を誰かが包んだ。演奏は強引に中断される。
いつの間にか眼を閉じ演奏していたオリビエは気分がついていかず、それと知るまでぼんやりとしていた。
見上げると、侯爵が大きな手でオリビエの手を包み込んでいた。
「もう、休みなさい」
立ち上がると、いつの間にか室内にはメイドや医師、ロントーニ男爵、そしてアンナ夫人の姿もあった。皆、静かにそこにいて、何一つ音を立てなかった。
オリビエはまったく意識していなかった。
侯爵に支えられ、ランプの明かりの中、ベッドに横になると急に疲れを感じた。医師に痛み止めをもらうとすぐに眼を閉じた。
ああ、そういえば、いつの間にか夜になっていたんだ。
オリビエは深く眠る。