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5.切り取られた空5


薄い紫の短いドレス。胸元はメイドの衣装よりずっと深く空いている。

派手な化粧。まだ十六のはずなのにそうは見せないほど、大人びた目をしていた。

ぼんやりと通りのほうを眺めている瞳が、やっとこちらを捉えてくれた。

「アネリア!」

「!お、オリビエさま!」

その小さな荒れた手を握り締める。

そのまま抱き寄せる。


「会いたかった!アネリア!」

あの日の午後、陽だまりの下で戯れた。柔らかな髪を手ですいて、何度もその首にキスを繰り返した。

柔らかな肌の感触。


「は、放して」


抱きしめる青年の胸元で、少女は拳をドンとぶつけた。

「!」

改めてアネリアの顔を覗き込む。

両手でその頬を包んで。

大きな瞳はそのままなのに。その瞳には嬉しそうな笑みはない。

「相変わらず、綺麗な手ね」

「アネリア…」

「放してってば。その服。奥様の見立てでしょ?ひどいセンスね。人形みたいに着飾られちゃって」


「アネリア」

「私ね、あれからいろいろな男を経験したわ。生きていくには必要だったから。ね、オリビエ、あなたが一番最低だった」


両手から、少女がすり抜ける。

一歩下がって、アネリアはオリビエをにらみつけた。

「追い出された私のことを探しもしないで、自分はのうのうと都見物なんでしょ?案内してあげましょうか?百フラン出すなら手をつないで歩いてあげてもいいわ」

「…」

「…なに」

「すまない。僕は、君のこと護れなかった」

「百フランもないのね。相変わらず、何も持ってない。音楽以外何もなくて、音楽以外何も大切じゃない。私は、奥様に追い出されたんじゃないわ。オリビエ、あなたの音楽に不幸にされたのよ」


なにを言われても、それが本当のことなのだ。

そうしたくないと思っていても結果としてアネリアを不幸にしたのだ。

それを、アネリアが恨むのはむしろ正しいことだ。

オリビエはどうしたらアネリアの気持ちが晴れ、少しでも幸せな気分にさせてあげられるのか、そればかりを考えていた。

荒れた小さな手を見るたびに、愛おしかった。護りたいと思っていた。

どうしたら喜んでくれるのだろう。

「アネリア…僕はどうしたら」

不意にアネリアがしがみついてきた。

「!」

「ねぇ、私やっぱり、あなたが好き。オリビエじゃなきゃいや。一緒に逃げて、ねえ、来て!」

少女の視線はオリビエの背後、青年を追ってきたビクトールとアンナ夫人を見つめていた。

「オリビエ、何をしているの!」

夫人の甲高い声に、オリビエも気付く。

「見ちゃだめ、ねえ、来て!私と一緒に逃げて」

両手を取って引っ張る少女につられて、オリビエも走り出した。




遠く背後にビクトールの声。

細い路地の暗がりに走りこみ、すえたゴミの匂いに胃が騒いだ。どこか現実味を感じないのはまた上がり始めた熱のせいだろうか。

強引に引っ張るアネリアの手はひどく冷たい。

五階建ての建物の隙間を縫う路地は、地の底を思わせた。日の光の差さない暗闇の世界。湿った空気が重くのしかかり、オリビエは何度もよろける。

いくつか角を曲がったところで、体勢を保てなくなって壁に寄りかかる。それでも少女は早く、早く、と強引に腕を引っ張った。

「アネリア、分かった、から、待って、ちょっと…」

少女の姿がゆがむ。

「待って…」

息を切らせ、オリビエはその場に崩れるように座り込んだ。

「なあに、どこか具合が悪いの?自業自得ね。これで、お金を持っていたらよかったのに」

アネリアの声が遠ざかる。

「さよならを言わなきゃいけないわ」

「え?」

「ほら、オリビエも、言わなきゃ。楽士オリビエに、さよならってね」


ぼんやりと開いた目に、少女の紫の服が映った。路地に膝をついて、何かを持って。

振り上げる。

少女の足元には割れたビン。


「会いたかった、アネリア」

鉄槌とは、こういうことを言うのだろうか。

アネリアは僕の手に怒りを落とそうとしていた。僕の運命を断ち切ろうというのかもしれない。この手がなければ、僕の人生は変わる。僕と音楽は切り離される。


少女の持つ硝子の破片は、下から眺めると透明で美しかった。


その向こう。建物の隙間で細長く切り取られていたけれど、それは確かに空だ。

あの時、アネリアと寝転んで眺めた昼下がりの空とつながっている。



僕は、涙を流していた。


アネリアを下から抱きとめる。

勢いで振り下ろされたそれが背中に突き立った痛みも、関係なかった。

アネリアはあの時以上に痩せていた。それでも、腕の中の少女はアネリアだった。時を経ても、場所が違っても。僕の中の彼女はあの時のまま、愛おしい。



悲鳴が、聞こえた。


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