5.切り取られた空3
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数時間横になるうちに、オリビエの思惑とは裏腹に、熱は下がり気分も良くなっていた。昼前には目が冴えて寝ているのが苦痛になる。何度もベッドで寝返りを打ち、うとうとしては演奏会の夢を見る。
昨夜の晩餐会で遅くなったのか、アンナ夫人が起きてきた。足音で分かるのだ。今、扉の外に立つ。そしていつもノックもせずに開くくせに、一つ二つ息を整える。まるで走ってきたことを悟られまいとするように。
それもすべて耳のいいオリビエには聞こえているのに。
いつもの通り澄ました顔つきで入ってくる。まあ、私の忠告を無視した報いだわ、と冷たく言いながら。
オリビエが身を起こしたところにしがみつく。まだ少し、酒の匂いをさせていた。
しどけなく開いた胸元に誰がつけたのか小さな赤いしみを見つけ、オリビエは目をそらした。この人は、寂しさを紛らわすためなら何でもするのか。
「オリビエ、昨日はひどいことを言ったわ、ごめんなさい」
珍しいことだった。
夫人が、自分の態度について謝るなど。
「私、あれからずっとお前を待っていたのよ。ねぇ、お前の曲を聞かせて欲しいわ。侯爵様もロスレアン公も、皆様パレードにお出かけなのよ。私一人置いていかれてしまったわ」
「パレード?」
「そうよ。なんでも、明日から開かれる議会のために、サン・ノルト寺院からファリの大通りを通って議場のあるモリノ公会堂まで議員たちが行進するんですって。全部で千人以上もいるそうよ。ファリではそれはもう盛り上がっているんですもの。私も観たいと思っていたのだけれど、男性の方々は皆ご公務があるでしょ?ね、オリビエ、あなたも観たいと思わない?」
甘えるようにオリビエの胸に額を擦り付ける。
ああ、目的があるから素直に謝るんだ。
まだ少し寒気がしたが、パレードに興味がないわけではない。
「アンナ夫人、ビクトールか衛兵を一人頼みましょう。私もファリは不案内ですし、大勢が集るのなら本当に危険かもしれません」
「一緒に行ってくれるのね!嬉しい」
もう一度ぎゅと抱きしめられ、香の余韻に視界がぐらぐらした。
ファリの街を真っ直ぐ横切る大通りはパレードの行われる少し手前で封鎖され、彼らの乗った馬車も止められてしまった。警備のスイス衛兵に様子を聞き、通りの脇の建物の二階にあるカフェを教えてもらった。考えることは皆同じらしく、混雑する狭い階段を昇る。踊り場でやり過ごせればいいが、そうしていてはいつまでたっても先に進めない。思い切って昇れば、すれ違う人々とまるでダンスを踊る時のように触れるか触れないかという状態だ。体の大きなビクトールは迷惑そうに睨まれても当然とばかり夫人を庇う。街の男と喧嘩になりかけ、オリビエが取り成して頭を下げなければならなかった。階段を昇りきると小さな店の古ぼけた扉があった。暗がりから扉を開くと、通りに面した窓が眩しい。すでに詰め掛けた大勢の人の姿が陰だけになって見える。皆窓辺に近寄り、パレードの到着を待っているのだ。
大柄なビクトールに夫人の背後を任せ、オリビエは時折額に手を当てながら、三人が入り込める隙間を探す。窓辺に張り付くようにしている三人の親子がいる。大人が数人張り付いている場所よりは、眺めがいいように思えた。子どもの背の向こうに、通りが見えた。
うなり声のような、どよめきのようなものが聞こえ始める。
「どうやら、来たようですよ」
オリビエが体をそらし、少し後ろにいる夫人が見えるようにと手を引いてやる。
圧倒的な人混みに借りてきた猫のような夫人は目を真ん丸くして首をかしげて外をのぞく。その仕草がやけに子どもじみて見えた。ふと、ビクトールと目が会うと、彼も穏やかな視線を夫人に投げかけていた。
「奥様、肩が冷えますよ」
ビクトールがそっと夫人の乱れたショールをかけなおす。その毛むくじゃらの大きな手にアンナがふと手を添える。白い夫人の手は何気なくビクトールの手の甲をなでるとショールの白に消える。
オリビエは目をそらし、再び窓の外へと視線を戻した。
ビクトールは時折、アンナのことをお嬢様と呼んだ。
侍従長のビクトールはアンナ夫人が嫁いでくる前から侯爵家に勤めている。アンナ夫人がまだ十代のあどけない少女の頃から知っているのだろう。身一つで侯爵家に嫁ぐということがどれほど少女に重荷だったのか、彼は知っている。オリビエが知らないアンナ夫人を知っている。
昨夜、ビクトールが言った言葉が思い出された。
子どもが母を慕うように、夫が妻を支えるように、優しく接して欲しい、と。
本当は、夫人にそうしてやりたいのはビクトールなのかもしれない。