4.思想の騎士、ファリの街
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1
結局あの晩、侯爵がなにを言いたかったのかわからないままだったが、オリビエはいつも通りの春を迎えていた。
音楽堂に昼の日差しが差し込まなくなり、庭の木々が春の盛りを過ぎ緑一色に落ち着きかける頃、オリビエはキシュのおかげで多くの曲を作り上げていた。
それらはどれも好評で、父親を知る貴族にも「父親にないものを持っている」といわせたほどだった。
五月には王立アカデミーのコンクールの噂も聞こえ始める。アカデミーは由緒ある国立学術団体で、学問、文学、歴史、芸術様々な分野の第一人者が会員となり、王国の智の源となる辞書編纂やメセナと呼ばれる学問芸術振興を担っている。年間いくつものコンクールを行い、優れた人物や作品、慈善団体に援助を与えた。
音楽のコンクールは年に数回行われたが、春の音楽栄誉賞がもっとも権威のあるものとされていた。
外国の作曲家や演奏家も参加するほどだった。その演奏会に行きたい、それはオリビエを高揚させる唯一の憧れだった。
三年前に一度だけ、侯爵夫妻の旅行のついでに連れて行ってもらったことがあった。会場はシャンファーネであったが、エスファンテよりずっと都会で国王の御前演奏会でもあった。
生まれて初めて見る華やかな演奏会、貴族たちに圧倒され、それでも演奏が始まるとオリビエは夢中になって奏者を見つめていた。
その手が膝の上で見えない鍵盤を打つのをアンナ夫人は笑っていた。
最優秀賞を受賞した作品を、滞在していたホテルで再現すると侯爵は気難しげに首を横に振った。
「お前の演奏ではない。真似をする必要はないだろう」
不興だったのだ。
以来、コンクールの話題は侯爵の不機嫌の元となり、コンクールに参加してみたいという小さな野望はオリビエの胸の中深くにしまいこまれた。
「オリビエならきっと優秀賞だよね、そうしたら援助金もらって、侯爵様の犬じゃなくなるじゃない。ねぇ、ランドン」
愛犬をなでながらキシュは言った。
「援助金だけで一生生活できるわけじゃないよ。侯爵様には感謝しているんだ。どうせ飼い犬なら美味しいものを食べさせてくれる飼い主がいいだろう?」
「現金で可愛くないなぁ」キシュは頬を膨らめる。
オリビエの家で夕食やパンを手に入れるようになったからか、それともそういう年齢なのかキシュは初めて出合った頃よりふっくらとし、頬のつやも眩しいほどになっていた。
無造作に束ねた赤毛も、きれいに結わえなおせば美しい女性に変わりそうな予感もあった。服の下に見て取れる痩せた体型も少しは丸みを帯びてきていた。
「なに?」
オリビエの視線に気付いて上目遣いの少女は、何をしたいのか胸元のボタンを一つ外す。
「そっちこそ、なんだよ、それ」
肩をすくめてオリビエが楽器に向かう。
その後姿に少女が顔をしかめて見せたのもオリビエには見えないが。わふとランドンの困ったような声に見かけほどは成長していない少女を思い、密やかに口元を緩める。
「あ。やっぱりいやらしい顔した」
気付けばすぐ脇に立つキシュ。やはり猫のようにオリビエについてきていた。
「いいや、面白いと思ってさ」
そう笑いながら笑みは音に流れる。指が奏で出せばオリビエの意識も視線も何もかもが、音楽に盗まれてしまうことをキシュは知っている。
最近は声をかけても無視されることもある。
奏でられたそれが、数日前に歌ったものだと気付き、キシュも声を合わせた。
二人と一匹のリビングに、少しだけ開けられた窓の隙間から春の夜風が流れ込む。
2
その日はなぜか、いつもと違う時間に侯爵が音楽堂を訪ねてきた。
もちろん彼の家だ、いつ何処に現れようと自由だが、午前のまだ朝の気配が残るうちからオリビエを尋ねるのは珍しいことだった。
濃紺のチョッキの金ボタンは丸く輝き、グレーのキュロットという姿だ。侯爵はキュロットはあまり好きでないようで、普段は身につけない。オリビエや侯爵家の母屋に出入りする雇い人は男なら皆、キュロットの着用を要求された。夫人が好きなのだ。
だから、オリビエも今日はドレープのたっぷり入ったシャツに同色のリボンタイ、チョッキは臙脂。キュロットはアイボリーにグレーの刺繍が入ったものだ。裾をリボンで結んでいる。タイツは好きではないからブーツを履いていた。
侯爵は入ってくるなり、オリビエを立たせた。
「これから、首都に向かう。お前も来るのだ」
「え、しかし」
「服は持ってこさせよう。急なことだが、先日の茶会、王弟のロスレアン公が同席されただろう。どうやらお前の曲を気に入り、国王に進言したらしい。今朝方、国王からのお召しがあった」
国王リアン十四世。
実直な、まだ若い王だが、その王妃が遊び好きで有名だ。
宮殿では夜な夜な派手な舞踏会が開かれ、内宮貴族が集まるという。内宮貴族とは、領地を持たない貴族のことだ。王族に連なる血筋のものが多い。また、司教会の上層をなすものも貴族と同様の扱いを受けている。先日ここに立ち寄ったロスレアン公はそう言った種類の貴族だ。
リッツァルト侯爵のように領地を持つ貴族は、必然的に首都から離れた土地に住む。戦争が起こったりすれば、国軍をもてなす義務が課せられるなど大変なこともあるが、領地からの税を徴収する権利があるため、首都に住む内宮貴族よりは実情は裕福なのだ。
首都に住む貴族は、地方貴族を田舎者と侮蔑する傾向があり、よほどのことがない限り、侯爵も好んで首都に赴くことはなかった。
年に数回。アンナ夫人にせがまれて、買い物に出るくらいだろう。
まだ、オリビエは首都ファリに行ったことがなかった。
「あの、演奏会が開かれるのですか?」
侯爵は渋い表情をする。
いつもの、出し惜しみ、というものだ。
「お前は、向こうに着いたら病気になれ」
「え、あの」それなら行かなくても。
「王のご命令には従って連れて行ったが、体調不良で演奏は出来ない。よいか、そうするのだ」
「はい」
それはそれでいい。貴族たちが大勢集まる宮殿など想像できない世界だし、その上国王にお目通りなど、緊張するばかりだ。
侯爵の指示を受け、形ばかりだが譜面を用意しているところに、メイドが衣装をいくつか持ってきた。
丈夫なトランクにそれらを詰め込みながら、オリビエはため息をつく。
衣装にしみこんだバラの香り。これは、アンナ夫人が用意したのだと分かる。
「素敵な衣装ですね、オリビエ様」
メイドの一人が羨ましそうに絹のシャツをたたむ。
「そうかな、ちょっと派手だよ」
「あら、アンナ様がものすごく張り切っていらっしゃって。これでは足りないから向こうで新調なさると聞きましたよ」
「え、そんなに長期間なのかな。参ったな、聞いてない」
「あら、何かご予定でも?」
キシュに何も言っていない。
「悪いんだけど、僕の家に来ているシューレンさんに、伝言を頼めないかな」
「いいですよ。午後に街に出る予定ですし。久しぶりに彼女にも会いたいわ」
オリビエはシューレンに当てた手紙に、キシュが尋ねてきたら、急な旅行のことを伝えてほしいとしたためた。
また、彼女が遊びに来たら、仕事の邪魔にならない程度に相手をしてやって欲しいと付け加える。
世話好きなシューレンさんなら、キシュも機嫌を損ねることはないだろう。
四頭立ての馬車を二つ。馬に乗った従者が十人。
オリビエは侯爵の腹心で、この街の市長をしている人物と同じ馬車に乗ることになった。時々茶会で顔を合わせ挨拶する程度で、あまり話したことはなかった。
でっぷりとした腹を金ボタンの朱色のチョッキの下に蓄えたルグラン市長は、薄くなった頭部をかきながら愛想の良い笑顔を浮かべた。彼が身じろぐたびに馬車の座席は小さく鳥のような鳴き声をあげた。
オリビエは形だけの貴族の称号をもらっている。ただ単に、「租税を払わなくて良い特権」を得るためだけの称号で、それは侯爵が両親を亡くしたオリビエのために用立ててくれたものだ。どうやって国王の許可を受けたのか経緯は分からなかった。正式には、オリビエンヌ・ド・ファンテルである。オリビエは街の人々からは「ファンテル卿」と呼ばれていた。
「ファリ紀行には良い天候ですな、ファンテル卿」
だからルグラン市長もオリビエをそう呼ぶ。
「はい。突然のことで、まだ実感がわかないのですが。ルグランさんは何度かファリには行かれたんでしょう」
そこで、市長は眉を上げ、自慢げに鼻の下の髭を伸ばした。
「ファンテル卿は首都は初めてですかな」
「え、ええ。旅行はあまり」
旅行と言っても常に侯爵のお供だ。
自分のために街を離れたことなどなかった。
「では、驚かれますよ。このエスファンテが東の果ての田舎町だという意味が分かりますよ。ファリでは市民はみな、五階建てのアパルトメントに住んでいるんですよ」
「ご、五階!?」
侯爵の城も、数えればそれくらいはあるのかもしれないが、平民の住む家がそんな高さだとは想像もつかない。エスファンテの市の中心部、市庁舎でも三階建て。レンガを積んだそれはオリビエが見たことのある立派な建物の中で五本の指に入る。
「この街じゃ届く新聞は一つですがね、かの首都では十を超える新聞が発行されているといいますよ。今回呼んで下さったロスレアン公は、平民のために建物を借り上げ解放していますよ。一階はカフェになっていましてね。そこで弁護士やら司祭やら、はたまた女まで政治や思想を語るそうですよ。今じゃ、新しい話を聞きたいのならそのカフェ【エスカル】へ行けと言われるほどです」
新聞や政治の話はオリビエには遠い世界だった。
メイドたちの噂や、茶会の席の客たちの会話からちらちらとうかがい知る程度で、あまり興味もなかった。
「そうですか」
オリビエの感想がそれだけと知るとルグラン市長はうっすら笑って被っていた帽子を取った。
「失礼、今朝早かったのでね」
帽子を顔にかぶせ、眠ってしまった。
政治や思想。
自分とはもっとも無縁なものに聞こえる。
オリビエもまた揺れる窓に肩を預け、眼を閉じた。
3
この国には二つの権力がある。
教会と貴族だ。
そしてその頂点に国王がいる。
数百年前に当時の国王が神に似た存在であると自分を位置づけてから、国王を頂点とした身分制度が確立された。大まかに身分制度を説明すれば、国王のすぐ下に司教会に属する司教たち、そして貴族。その下には平民と農民がある。
司教とは貴族の家系から聖職者になったもののことで、同じ聖職者でも司祭は平民と同じ扱いであった。扱いの違いの主なものは、「租税を納めなくて良い特権」があることや、「領地を持つ特権、その領地から租税を徴収する特権」などだ。細かいものになれば、帯剣の特権、家紋の特権、風見鶏の特権、狩猟の特権などもある。
人々は教会からの租税と、領主からの税、そして国税。三十の苦役を担っていた。
これらは小作農民や貧しい町民にとって重圧であった。
このところ発展してきた工業を経営する商人、弁護士や医師など、平民でありながら下級の貴族より資産を蓄えるようなものも現れていた。彼らはブルジョアと呼ばれ、下級貴族から特権を購入する裕福なものさえいた。
宮廷はここ数年、新大陸の独立戦争へ派兵したり隣国と競って新たな港を建造したりするなど浪費が続き、国庫は破綻しかけていた。その上、昨年は酷い干ばつで、農村では餓死者も多いという。
オリビエは噂と今目の前に見える農村の風景を比較していた。
昼下がりの黄色い日差しの下、麦畑は緑色の穂を揺らした。人気のない田舎道。道の脇で牛を引いた老人が一人、オリビエたちの一行が通り過ぎるのをじっと待っている。その小さな姿はすぐに流れ去っていく。
東にはアウスタリア国の高い山々が真っ白い峰をそびえ立たせている。
このエスファンテ市は平地が多く、穏やかな気候と綺麗な水がある。昨年の干ばつでも侯爵が広い領地から徴収した麦の一部を村々の教会に分け、農民に配給された。
各地で起こっているという農民一揆の噂も身近ではない。思想家が集会を開くような街でもない。遠い首都で始まろうとしている、議会のことなど知るはずもなかった。
「ああ、すごい!」
何度目かのオリビエのため息にルグラン市長は髭を揺らして苦笑いする。
「ファンテル卿、子どものようですな」
「あ、でも、見たことないですよ、こんな美しい建物があるなんて!やっぱりファリはすごいな」
オリビエは馬車が駆け抜ける町並みに感動していた。道が石畳になったときには驚きと共にその振動に閉口していた。それでもファリに近づくにつれ増えていくアパルトメントや豪華な飾りのついた聖堂、赤く塗られた酒場の扉にも感心する。
通りでは馬車が群を成してすれ違う。そんな光景は見たことがなかった。
そして今、招待されたロスレアン公の屋敷で馬車を降りてオリビエはもう一度。すごい、を口にしたのだ。
「オリビエ、疲れたわ、手を引いてちょうだい」
アンナ夫人の声が響くとルグラン市長は下卑た笑いを浮かべ、肩をすくめる。そそくさとオリビエのそばから離れて馬車から荷物を降ろしている下男に声をかけていた。
侯爵はとそちらを伺えば、婦人のよき夫である侯爵は丁度ロスレアン公の執事の挨拶を受けているところだった。すでにこちらに背を向け、侍従長のビクトールを従えて案内に従って母屋の正面へと歩き出している。通常ならその隣に夫人も寄り添わなくてはならないのでは。婦人もそれに気付いたらしく、立ち止まるとオレンジのドレスを翻す。
が、彼女の視線は高く。
壮麗な母屋の建物を見上げていた。
空にそびえるような尖塔を持つ華やかな様式の古い建物は、白い壁に新緑の蔦をまとい、風に揺れるそれらは建物が息をしているように見せた。昔のバジリカだというそこには、聖なる十字が高く掲げられているが、さび付いたそれに白い鳩が胸を膨らませてたたずんでいる。