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3.春を待つ鳥 3


クリスマスから新年にかけて、オリビエは侯爵家で過ごす。シューレン夫人に休暇を与える意味もある。その間侯爵家で行われる様々な催しにオリビエの曲は欠かせないものになっていた。クリスマスのミサではオリビエの奏でる聖歌は人々を泣かせた。

新年を祝う夜会でも、大広間でダンスが繰り広げられるその一方で、オリビエが演奏をする音楽堂にも客の足が途絶えなかった。皆、踊り疲れては飲み物を手にオリビエの曲を聴きに集った。

一年でこのときほど、これまで作った曲を総動員する日はない。楽譜が尽きれば即興の曲を奏でる。侯爵の姪ソフィリアの子どもリリカが、無邪気に窓からの雪を眺めるのを横目に見ながら、可愛らしい曲を奏でる。深々と積もる雪は窓の外を青く白く染めていく。夜の闇に音楽堂の明かりが漏れ、雪原に反射して煌く。

その子には今朝、雪だるまを作ってとねだられたばかりだった。オリビエが困っているとビクトールが代わりに小さな雪だるまを窓辺においてくれた。

今も小さなレディは窓の外の白い彼に新年の挨拶を告げているのだろう。



敷地内の礼拝堂で鐘が打たれ、新しい年の始まりを知る。


それを合図に、オリビエのこの年の仕事は終わる。

ふとため息と共に立ち上がり、まだ残っていた客に一礼する。

若い男女、先ほどの子どもが眠ってしまっているのを静かに見守る侯爵の姪。老夫婦。温かい拍手が鳴り止むとオリビエは焚き続けたストーブのために乾燥した喉を潤す。

空腹など感じている暇はなかった。

少しずつ人の気配が減る室内で、イスに座ったまま鍵盤をそっとなでる。


侯爵にもらったブルゴーニュの白ワインを庭の雪で冷やしていたことを思い出し、テラスに出る扉を開く。差し込む冷気に頬が引き締まる。いっそ心地よさを感じてオリビエは一人テラスに立った。

かすかに届く大広間の人々のざわめきも、庭の木々が積もった雪を落とす音も。全てを心地よく変えてしまう。雪に埋め尽くされた庭は好きだった。音すら美しく変える。


「風邪を引くぞ」


振り向けば、見覚えのある栗色の髪。ランプを背にした影だけでも、分かる。

ロントーニ男爵。ふと眉をひそめたがその背後に侯爵の姿を見つけオリビエはホッとする。いつだったか、ロントーニ男爵がオリビエを譲って欲しいと言い出したときには、あまり近づくなと侯爵に言われた。

二人は仲が良いのか悪いのか、オリビエには測りかねたが、侯爵家の夜会や茶会には必ずと言っていいほどホスタリア・ロントーニ男爵は顔を見せた。




オリビエがワインを取り出し、音楽堂に戻ると男爵は肩についた雪を払ってくれた。

「オリビエ、それを飲むつもりか」

侯爵が眉を寄せ、それを見た男爵は笑い出す。

「え、……あ!」


甘い白いワインは凍っていた。


「もうしわけありません、せっかくいただいたのに」

「これはこれで、おつかも知れませんよ」面白がって男爵が無理矢理コルクを引くと、凍りついたそれはぼろぼろと崩れた。

「あ」

「男爵、何をしている。そのようになったもの、飲めたものではない。新しいものを持ってこさせる」

侯爵に命じられたビクトールが三つのグラスと新しいワインを持ってきたときには、男爵は意地でも空けると宣言し、丁度残ったコルク栓を無理矢理ビンに押し込んだところだった。半分凍りついたワインはとろりとし、香りだけを楽しんだ男爵がオリビエに差し出す。

「え、……」飲めと?

侯爵に助けを求めるがいつもの無表情で自分のワインを口に運んでいる。知らん顔だ。せっかくのワインを、という多少の苛立ちも見て取れる。

仕方なくオリビエは男爵の冗談と知りつつもグラスに注がれた凍りかかったワインを口に含んだ。

それは当たり前だがひどく冷たく、そして濃厚な甘みを持っていた。時折触れる氷の塊がさくさくと舌を刺激し、そう、美味しかった。

「あ」

「どうした?感想は」

面白がっている男爵に、オリビエはしてやったりと笑って見せた。

「美味しいです。濃厚で甘みが増しています」

そして一気に飲み干してみせる。

「侯爵様にいただいたものですから、私が責任を持っていただきます」と二杯目をなみなみとグラスに注ぐ、というより落とすオリビエを目を丸くして男爵は見つめる。

男爵はからかうあてがはずれ、嘘をつくなとグラスを取り上げた。

「美味しいですよ、男爵」

口にすると同時に表情を変えるロントーニが面白く、オリビエは笑い出した。

「ほら、ね。まるで噂に聞くフロイセンの貴腐ワインのようではないですか。蜜を落としたようだ。本当に美味しいです」

「ふん、子供向けの味だな」

そういいつつも飲み干す男爵に悪戯な気分になる。

「では男爵もお好きなのですね」

「私を子ども扱いするか、お前は」

「美味しいものは美味しいです。あ、だめですよ、後は私がいただくんです」

ビンを取り合うようにじゃれる二人を、静かに侯爵が見つめていた。

珍しくオリビエの笑い声が響き、同等と化している男爵も楽しげに青年の肩を叩く。


オリビエは空腹と渇いた喉に染み入るそれが気に入って、酔いが回っていることにも気づかない。男爵が目を離した隙に最後の一口を自分のグラスに奪う。

「リツァルト侯爵、貴方も睨んでいないでご一緒にどうです。食事も宴会も、共に飲んで食べるから楽しいのですよ、そうだろう?オリビエ」

「え?あ?」

不意に同意を求められ、最後の一口を取り上げられないうちに飲み干そうとしていた青年は侯爵の視線に気付いた。

「あの……」

オリビエの表情が強張る。

それを見て取って、ロントーニは背中を二回ほど叩いた。

「ほら、それ。侯爵にも」

「え…」

オリビエが自分のグラスを改めて見つめた時には侯爵の大きな手が掴み取った。

「!」

ガシャン!

床に投げつけられたそれは見事なほど細かく砕け、足元に広がった。


「あ……」

立ち上がりかけたオリビエは侯爵の表情から目がそらせない。

「男爵、そろそろお休みになってはいかがかな」

静かな侯爵の言葉はランプの炎すら凍りつかせるように思えた。

オリビエはつい、調子に乗った自分をのろった。


「仕方ありませんね、では、休むとします。侯爵閣下、オリビエ、楽しいひと時だった」


そう残して、ホスタリア・ロントーニ男爵は音楽堂を出て行った。


残されたのは静寂。

立ったまま二人は黙っている。オリビエはうつむき、侯爵は見下ろす。

それはそのまま、二人の関係を物語っていた。




「お前は、十六の時から私の前で笑わなくなったな」


オリビエが侯爵の前で笑わなくなったのがいつからだったか、それは本人も気付いてはいなかった。声を上げて笑う、それまでは嬉しいことがあればそうしていた。あの頃は自由かどうかなど気にする必要もなかった。


「は、あの、そうでしたか。すみません」

謝るようなことでないのに、謝ってしまう自分をおかしいと思いつつ、記憶をたどる。

「お前が誕生日を迎えた頃からだ」

それは、あの晩。

「アンナは上機嫌でお前に新しい上着をプレゼントした」

そうあの晩。

初めて、アンナ夫人と関係を持った。


オリビエは痛いほど肩をつかまれ、乱暴に引っ張られる。侯爵はオリビエを連れて音楽堂を後にした。

向かう先はどうやら母屋。オリビエに与えられた部屋も、そこにある。


あの時、けっして自分から求めたわけではなかった。侯爵が恐ろしかったし、自分の立場を考えればしてはいけないことだと十分分かっていた。

それでも、夫人の誘惑に負けたのは、初めて酔うほどワインを飲んだからだ。


足元で不快な音をさせるガラス片と、記憶が重なる。


あの日以来、僕は侯爵の前で心から笑えないでいた。

それを侯爵も気付いている。その理由も、気付いているのだろうか。


黙り込んでついてくる青年を、部屋に押し込むと、侯爵は「明日は休暇だ、ゆっくり寝なさい」と声をかけた。

結局夕食を口にせず、ワインだけを飲んだオリビエは異様な空腹感と気持ち悪さに寝苦しい夜をすごした。二度とワインで酔うような真似はしません、この年初めにオリビエは自戒の念と共に神に誓う。


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