3.春を待つ鳥 1
1
この地方の秋は短い。
リビングの暖炉に薪をくべるようになると、キシュは温かいオリビエの家にもっと長くいたがるようになった。
相変わらず住んでいる場所や本名ははぐらかされていたが、少女の服装が季節に関わらず変化しないことに気付いてオリビエはクリスマスまでに温かいコートをあげようと決めた。
小さい手はアネリアのようにかさかさとしていて、不器用にナイフとフォークを操るそれをつい、見つめている。
「これ、何?」
見慣れない食べ物があったのか少女はフォークの先でつついて転がす。皿の中のそれは赤い色をしたスープ。イファレアのミネストローネとも違い、大ぶりのジャガイモと牛の肉、人参や赤カブが入っていた。ビーツと呼ばれるその赤カブはこの地方では珍しいものなのかもしれない。シューレンさんの母国では良く食べられていると聞いていた。
「トマトのスープで肉と野菜を煮込んでいるんだ」
「だから、これ。この真っ赤な変な奴」
眉を寄せる顔が面白くて、つい笑う。
「何、ばかにして。いいよ、食べてやるから。これで死んだらあんたがあたしの親父を養ってね」
「分かった、ランドンもね」
「いい心がけ」
そういいながら、小さくきったビーツを口に含む。
じっと見つめる青年にキシュは上目遣いを返す。
「…なに?」
「美味しい?」
「嬉しそうに笑ってるの、なんか、腹立つんだよね。オリビエってさ、ときどきすごくバカにした目であたしのこと見てる」
「かわいいから」
なかなか慣れない野良猫が美味しそうに餌を食べてくれたら、普通は嬉しいと思う。
「なに。そのくせ、一度もキスしないの」
少女は口を尖らせる。後ろに縛った赤い髪が尻尾のように不機嫌に揺れる。
「してほしいの?」
「そうじゃないよ、でも、失礼な気がする」
「よく分からないな。僕は子供を相手にする趣味ないから」
「だからー。あたし、あんたと一個しか違わないって言ってる」
子ども扱いするといつも言葉はきつくなるけれど、けっして嫌そうでないとオリビエは理解していた。その証拠に顔は赤く高潮しているが赤い尻尾は大人しく肩にかかって動かない。
そのくるりとした毛の先が白い胸元に落ちているのを見ても、あまり心を揺さぶられることはなかった。わざとだろう、いくつかボタンを緩めてあるがその手には乗ってやらない。その方がキシュとの関係は上手く行くような気がしていた。
猫は媚びても捕まりたくないのだ。自由が好きだ。少女の我侭に「はいはい」と答えながら気が向いて甘えてくるのを待つ。そんな飼い主の気分だった。
確かに見下していると言えば、そうなのだろう。
痩せた小柄な少女。無邪気なきつい言葉を投げつけるのは幼いからだ。きっとすぐに意地を張って、かわいく頬を膨らます。それが想像できるからこそ、恋愛の対象とは思えなかった。
以前、ボーイフレンドがいるようなこともちらちらと話していたが、どこまで本当なのか怪しいとオリビエは思っている。男の子の友達はいるだろう。けれど、この子を女性として扱う勇気のある男はそういないと思えた。
何しろ、幼い。
今もオリビエの皿の肉を横取りしようとそっとフォークを突き立てている。
「欲しいならクダサイって、普通は言うんじゃないか?」
「奪うのがいいの。美味しいから」
「変な趣味だね」
「そう。なんでも無理矢理奪うのが美味しいの。クダサイなんて頭下げるくらいならいらないもん」
その変なプライドが幼稚。
運ぶ途中でフォークをするりと抜けた肉が派手にクロスを汚す寸前で、差し出した左手で受け止める仕草も、「あつっ」と慌てる様子も。
「ばかだな!火傷するよ、もう」
痛がる手を取って、水道のところまで連れてくる。
「ほら、冷やさないと」
小さな手に水をかけてやる。井戸水はこの時期は氷のように冷たい。
「ひゃっ!冷たいくて痛いよ!ばか」
慌てて引きかける手首を押さえて、しっかり冷やす。
「放してって!」
「だめだよ。ほら、じっとして」
背中ごと押さえつけると、押し黙ってじっと手を見ている。
「もう、平気だから。ねえ、このままじゃしもやけになるよ」
やけにしおらしい声を出すから、水を止めて乾いたタオルで拭いてやる。
「ほら、冷え切っちゃったじゃないか。オリビエのせいなんだから。だいたい、最初が大げさなんだから」
「大げさじゃないよ、女の子なんだから。綺麗でいないと」
「何、母親みたいなこと言ってるんだよ」
「君のお母さんもそうだろう?」
「いないから知らない。あ、なに?オリビエもそうしてもらったの?男の子なんだから綺麗でいなくちゃって?」
ふと、オリビエは水道の脇に置かれた白い花に目をやった。その日、両親の墓に手向けたのと同じ花だ。葬儀のときに、棺に投げられたのも同じ。
母は美しく眠っているようだった。
「……僕の場合は、演奏のためだよ。絶対にね、傷つけない」
「変なの」キシュは青年が曇った小窓の外の暗がりをじっと見ていることに口を尖らす。
「大切なんだよ。それは仕方ない。母さんが、寒い時期には必ず毛皮の一番高い手袋を買ってくれた。足はしもやけだらけになったけど、手だけはいつも綺麗だった」
「変」
「いいだろ?君より綺麗」
オリビエは手のひらをかざして自慢して見せた。人より少し長い指、程よく筋肉のついた手のひら。アネリアはかつて、とても綺麗だと褒めてくれた。
「ヘンタイ」
「ひどいな」
オリビエは笑った。
キシュが「親父」の話題を出しても、母親の話をしない理由がこのとき分かった。
いないのだ。それはオリビエも同じだった。生まれた子どもが成人できるのは七割に満たなかったし、大人が五十を超えて元気でいられるのも同じ程度だった。
だから、そういう話は珍しくはない。
「さ、デザートがまだだよ」
「あ、そうだ、今日はなんだろ!」
慌ててオリビエより先にテーブルに駆け戻ろうとするキシュの考えは予想できる。
オリビエの分まで口に突っ込むつもりなのだ。
「待てよ!」
「やだよー」
チョコレートで手と口をべたべたにした野良猫に、オリビエはあきれて笑い出した。
「また、手を洗わなきゃいけないだろ?」
こんな楽しい夜が、ここ最近は日常なのだ。
クリスマスは侯爵家での夜会やミサで会えない。だから、その前に少女に似合うコートを用意してあげたい。
2
オリビエが誰かにクリスマスプレゼントを贈るのは初めてだった。
どうしたらいいのか分からず、とりあえず頼りになりそうなシューレン夫人に話してみた。
夫人は目を真ん丸くしていたが、エスファンテの街で手に入るだろうと教えてくれた。
オリビエはそう言われて黙る。
「あの。シューレンさん。僕、現金を持ってないんだ」
それはプレゼントの話以上に彼女を驚かせた。
必要なものはすべて、侯爵家で準備される。食事も衣服も日用品も、すべてシューレンさんを介して手に入った。本が読みたいと思えば、侯爵家の侍従長ビクトールに話せば、二、三日のうちに届けてもらえた。
自分で何かを買いに行く必要も、自由もなかった。
公爵夫人の買い物につき合わされ、一緒に山ほど服を買ってもらうことはあっても、自分で支払いをしたことはない。
それは、十三の時にすべての遺産を侯爵に預けた時からずっとそうなのだ。
不便でもなかった。
「それは、困りましたね。そのお嬢さんの服を買うのに、侯爵様のお許しが出るかどうかは…」
アネリアとの結婚を許してもらおうとした、あの時の侯爵を思い出す。
「ビクトールに言えば…」
ふと、アネリアのときのことを思う。
またか、と呆れられるだろうか。
別にアネリアとの間柄とは違う、ただの友達だ。
「僕にも、何か。そうだな、お金になる仕事があれば」
「オリビエ様、それは堅く禁じられておりますよ」
朝食後のコーヒーをもらいながら青年はため息をついた。
マイセンのカップに描かれた鮮やかな蘭の花が褐色の揺れる水面に現れては消える。
ここ数年、公爵夫人が夢中になって集めている品だ。フロイセンで作られる白磁の食器は銀食器より人気があった。
シューレンさんもその器にはことさら気を使うらしく、いつも食器棚の決まった場所に贅沢なほど場所をとって置かれていた。
「ね、シューレンさん」
「はい?」
「これ、売っちゃう?町に質屋があるよね。絶対にいいお金になると思うんだ」
欲しいといったわけでもないのにアンナ夫人が買ってくれたものだ。
「お、オリビエ様!!そんなことをなさるなんて、罰が当たりますよ!」
顔を真っ赤にして、シューレンさんが怒鳴るので、オリビエは冗談だとなだめる。
「オリビエ様。その、キシュという娘さんは学校に通っていないのでしょう?教会の教えを受けているとは到底思えませんし、貴方様に良くない影響を与えるのではないかと心配ですよ。その子のためにそんな恐ろしいことをおっしゃるなんて」
「分かったから。しないから、そんなこと。ゴメン。そう怒らないで」
そう、どうせできやしない。
「二度とそんな恐ろしいこと、おっしゃらないでくださいませ」
「約束するよ。だから、そんな風に怒らないで欲しいな」
丸い頬を赤らめて怒るシューレン夫人が哀れに思えてオリビエは背後から軽く抱きしめた。
少しだけバターの香りがした。
いつのまにか自分の身長が夫人を軽く追い越していることに気付いて、あれ、と声を上げる。「シューレンさんって、こんなに小さくて可愛らしかったかな」とつぶやくと「オリビエ様はもうご立派な紳士でいらっしゃいますよ。私はとっくに気付いていました」と笑う。
「お会いした時にはまだ、小さなお坊ちゃまでしたのにねぇ。夕方私が帰ってしまうのを淋しいとおっしゃってくださいましたね」
そうやって見上げる表情は、昔から変わらない。今も、悪戯な子供を見るように目を細める。淋しいなんて言った覚えはないぞと記憶を探る青年に夫人もいたずらな笑みを返した。
「冗談ですよ」
それでもその日以来、マイセンの食器の棚には鍵がかかった。
シューレン夫人がオリビエのことを思ってしたのだろう。あるいはキシュのことを心配しているのかもしれない。別段そのことを問いただす必要もないので、マイセンの美しいカップはもっぱら観賞用になった。