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2.少女、歌、奏で 3


少女の言葉がずっと耳に残る。

自覚しているところをつつかれる。分かっている、と自虐的に反芻している自分がいる。それは自分自身に弁解しているのと同様だ。自分にすら言い訳しなくては収まらないくらい、胸の奥では現状に苦しんでいる。

認めたくはないが。

息が詰まる。


キシュはあの後「でも、こんな素敵なペットなら、飼いたいって思うよね」

と。それは青年の表情を読んだ慰めかもしれないが。

先日と同様、今日はお茶とお菓子の礼だと言って、軽いキスをくれた。

それも慰めかもしれない。


情けない。十八にもなって、年下の少女に憐れみをもらうなど。

風の強いその夜。オリビエは生まれて初めて侯爵の命令で曲を作ったことを思い出した。

あれは、十三歳の秋。両親が亡くなって、一人途方にくれていたときだ。

遠い街の親戚たちが引き取り先をめぐってヒソヒソとキッチンで話し合っていた。僕は一人、チェンバロを弾き続けていた。

他に何も出来なかった。

父の葬儀に来ていた侯爵が音を聞いて訪ねてきた。

彼が僕を引き取ると言い出し、親戚は喜んで僕を差し出した。


リッツァルト侯爵は、僕に命じた。

明日、迎えをよこす。それまでに、両親へのレクイエムを作りなさいと。

僕は頷くしかできなかったけれど。

ずっと、奏で続けていたのは両親への想いだった。そのどの一小節でも二人への想いで一杯だった。

音楽を教えてくれたのは両親だ。僕は音で父さんと話しをしたし、楽器で小鳥の声を真似して見せれば母さんは鳥の名を当てて見せた。

この家で、僕が奏でる音全てが両親の思い出なんだ。

このチェンバロも、この指も、手も。すべて、両親が残してくれた。

翌日。侯爵が自ら迎えに来た。

僕はここで。両親の残してくれたチェンバロで弾きたいと言い、彼は頷いた。

あれも、雨の日だった。

湿り気は音を曇らせた。

それでも、僕は弾きつづけた。湿気に弱いチェンバロの弦は、弾いているうちに乱れ、音も鈍る。それでも。

父さんが僕に語るのは音楽の話だった。

母さんが僕に教えてくれたのは優しい気持ちだった。

僕はその両方を音に変えた。


拍手を。

侯爵の拍手をもらって、初めて涙がこぼれた。


張り詰めた弦が、雨で緩むように。僕の心を溶かしたのは自分自身の曲と、侯爵の笑顔だった。抱きしめられ、子供のように泣いた。


侯爵は僕を侯爵家に住まわせるつもりだった。

でも、この家の、両親の残したチェンバロを放っておくことができないと訴えたら、ここに住むことを許してくれた。手入れを怠れば楽器は使えなくなる。

それを侯爵は良く知っていた。

感謝すべきなんだろう。



僕は、音を奏でることで生きていける。

そんな幸せは、他にないじゃないか。

どんなに自由でも、楽器がなくては僕は奏でられない。楽器を維持して、奏で続けるためには、侯爵の力が必要なんだ。

キシュは歌えるから自由なんだな。


強い意志を感じる子だ。赤い髪がまるで太陽みたいに暖かい印象を与える。

どんな生活をしているんだろう。何処に住んで、どんな両親がいるのか。

どんな環境でなら、あんなふうに強く、伸びやかに。そして歌えるように育つんだろう。

明るい太陽の下、犬と戯れる少女を想像した。

紅葉の始まる楡の木の下、白い犬と赤い髪の少女。

それを、明日、曲にしてみよう。




オリビエの奏でた明るい日差しを思わせる曲は少女をひどく感動させた。

もちろん、シューレンさんのお菓子も一役買っていた。香ばしい焼き菓子をしっかり三つほど胃に納めると、オリビエのそばに立って曲を歌った。

歌い終わる頃にはオリビエの前には譜面が出来上がる。

「助かるよ、すごく聞きやすいんだ、君の歌。音程がしっかりして素直だし」

「そうでしょ?あたしが男の子だったらなぁ、聖歌隊に入るのに。あたしの町の教会は小さいけど、立派なオルガンがあるんだ。オリビエはオルガンも弾けるでしょ」

「あ、まあね。でも、教会には教会の専属のオルガニストがいるだろう?」

「いるわけないでしょ。あたしの住んでいる町は司祭さまが学校の先生だし、オルガンだって弾くんだから。聖歌隊だって子どもばかりじゃないんだから。うちの親父も歌うんだよ」

「すごいね。見たことがないなそういうのは」

特に最近は侯爵家でミサを受けるために街の教会の様子はまったく分からなかった。学校もオリビエが通ったのは市役所や裁判所に程近い街中の学校だった。男性教師と女性教師がいてそれぞれが男の子と女の子を教えていた。学校はそういうところだと思っていた。

「本当よ、同じ真っ白なローブを着るんだから。うちの親父のソプラノ、聞かせてやりたいわ」

「え、ソプラノ?君のお父さんって、カストラート*なの?」

そこでキシュが持ってきた麻の袋に残りの菓子を全部詰め込むのに気付いた。

「ばかね、冗談に決まってるじゃん。あれって子種がなくなるんでしょ?そしたらあたしいないでしょ」

澄ました顔で袋を抱えると私帰るね、と立ち上がる。

「何か、用事かい?」

「飽きたの。また気が向いたら来るわ。あ、そうそう、お菓子よりね、パンのほうが助かる」


*カストラート:ボーイソプラノを保つために去勢した男性歌手のこと(現在はもちろんない)



翌日からキシュはパンのために通うようになった。

始めのうちはオリビエの夕食用にと用意されたパンを渡していたが、それではさすがにオリビエも困った。

少し足りないとシューレンさんに頼んで、パンを増やしてもらった。


キシュは毎日ではないが、オリビエが帰ってくる頃に見計らったようにふらりと家の前に立ち、何も言わなくてもリビングに上がるようになっていた。

オリビエが曲を奏でれば、必ずそれを歌ってくれた。

「あーあ、お腹すいた」

少女は譜面を再確認しているオリビエの目を盗んで、こそこそとキッチンへと入り込む。アーチになったリビングとの境で一瞬立ち止まるから、さすがに躊躇するのかと振り返るのを期待したが、赤毛の後姿はおもむろに向こうに消える。


「キシュ、だめだよ」

遅れて追いかければ、用意されている夕食の硝子のふたを持ち上げてしっかりとハムを口にくわえていた。

「まるで野良猫だね」

呆れながらテーブルのランプに火を灯し少女の顔をのぞく。悪びれない様子でにんまり笑う。

レンガを積んだ炉の種火に薪を足し、火を起こすと鍋を上に置いた。

鍋のふたを開け、一度かき混ぜてからオリビエは少女と向かい合わせに腰掛ける。

キシュは膝を抱えたままイスに座って夢中で食べていた。そばで座って見上げていたランドンが、なぜかオリビエの脇に移動し同じように尻尾を振った。

相変わらずなでたりはしないが、オリビエはハムを一切れランドンの足元に落とした。


「どうしたんだい、お昼食べられなかったのかい」

犬の護衛を連れた野良猫を眺めながら、オリビエはお茶を飲む。

「今日は親父と喧嘩しちゃったの。だから、朝から帰ってないんだ」

「僕も良く叱られたよ、学校を半日で抜け出したりしたからね」

キシュはスープをすする手を止めて、上目遣いで見上げる。小さく肩をすくめるとスプーンをおき、黙って器ごと持ち上げて飲み干した。

目を丸くしてみている青年に、満足げなため息を吐き出すと伸びをする。

「本当に野良猫みたいだ」

「飼ってみる?」

キシュが立ち上がってオリビエの前にかがみこんだ。目の前に少女の白い胸元が見えたが、あまり色っぽいとはいえなかった。

「多分、手に負えないし、ひっかかれそうだ」

「ちぇ。泊めてもらおうと思ったのに」

「それはまずいよ」

「同じだよ、昨日外泊したから親父と喧嘩したんだ」

「外泊」

この歳の女の子にはあってはならないことだ。

細く清らかで真っ直ぐに見つめる太陽のような少女は、一方では濃い影を身にまとうのかもしれない。オリビエは幼い頃に良く通った街の教会を思い出した。ミサの日には聖母の像がランプに照らされ、なぜか恐怖心を感じた。

安らかな慈愛の笑みも、暗がりにあれば違うものに見えた。


「そ。男の子の家に泊めてもらったんだ。あんたは友達じゃないから、一応代金払ってあげようか」そういって自分の体を指差してみせる。

「お母さんが悲しむだろう。それに教会の教えに……」

「説教臭いな。あのね、オリビエちゃん。あたしももう十七なんだからね。恋人の一人や二人いてもおかしくないんだ」

「二人はおかしい」

「じゃ、三人。あんたも入れてあげようか」

「結構。それに、十七じゃないだろ」

「体が小さいのは痩せてるから。痩せてるのは貧しいから。貧しいのは」

そこで止まると、オリビエをじっと上目遣いで見上げた。青い空の瞳はランプの明かりでしっとりと潤んで見える。

「なんだよ」

「あんたたちがこんな贅沢しているから」

そう口を尖らせて、テーブルに残る料理を指差した。

「だいたい一人分でこれは多すぎるでしょ。いつも残してるんでしょ」

図星だった。食べきれないとシューレンさんに言ったことはあるのだが、成長期なんだとか、もっと食べないといけないとかで、どうしても減らしてくれない。

それが普通の分量なのかオリビエには分からないが、とにかく毎日あまってしまう。

それ以上に贅沢な内容と分量の侯爵家の夕食については以前アネリアがこぼしていた。

「いい?世の中には決まった量のお金と食べ物しかないの。それをね、あんたたち貴族がたっくさん持っているから、皆に回らないんだよ。わかる?怠惰と贅沢、それこそ教会の教えに反しているわよ」

「じゃあ、働き者のよき信者のキシュに、夕食半分食べてもらうってのはいい判断かな」

「さらに一晩の寝床を提供してくれるならね」

「それは断る。帰る家があるんだから帰りなさい」

「かわいくないの、年上ぶって」

つんとしてリビングへと歩き出しながら、少女は赤い髪を煩そうに束ねなおす。

その白いうなじは痩せて、確かに僕は贅沢なのかもしれないとオリビエに思わせた。

「おいで、ランドン」

振り向きもせず、ランドンのわんという挨拶を残してキシュは帰っていった。テラスの引き戸を開け放したまま小さくなっていく影は夕日になぶられオレンジに染まる。




そんな風にたわいない会話を楽しむ日もあれば、一曲だけ歌ってパンを持って帰る日もあった。

それでも、一人きりの家に帰るよりはキシュがいてくれたほうが楽しかった。

野良猫に餌をやる気分なのだと、オリビエもわかっていた。けっして懐かない野良猫ということも。


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