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2.少女、歌、奏で 2


翌日。

昨日と同じ時刻にオリビエは少女の姿を探し窓辺に立っていた。

朝のうちにメイドに頼んだお菓子は甘い香りを部屋に漂わせていた。

「どなたにさしあげるのですか」と丸い手を持つメイドのシューレン夫人は面白そうに青年を見上げた。オリビエは十三の時から世話になっている。彼女にしてみればオリビエは子供のようなものなのかもしれない。

仕事を手伝って欲しい子がいて、その子をお茶に誘うために欲しいのだと告げると「じゃあ、今日は私が残りましょうか。」と興味津々だった。なだめて帰らせたのはつい先ほどのことだ。


ワフン。


聞いたことのある鳴き声。

オリビエは窓から庭の向こうの通りを眺めた。

走る犬の少し後を、あの少女が歩いてくる。まだ表情は見えないほど遠いが視線が合ったと感じた。

夕闇が近い。隣の家の三本の糸杉の一つ目に隠れて姿が見えなくなる。すぐに現れ蒼いスカートが見える。二本目に隠れ。


現れない。

と、引き返す姿。


「ちょっと、待って!」

思わず大きな声を出して、窓から身を乗り出す。


糸杉の向こう。斜めに延びた影が三本黒々と赤茶けた小路に横たわるだけだ。

嫌われたのだろうか。

せっかく焼いてもらった菓子も意味がない。キシュ、といった。どこの娘だろう。

こうなったら家を探し出して正式に雇うか。そんな余裕があるかどうか分からないが、どうしてもあの歌声を聴きたい。

ワフン。


ワフン?


気付くと腰高の窓の外に犬がきっちり前足を揃えて座っていた。

嬉しそうに尻尾を振っていた。

「お前、もしかして」

オリビエがお菓子を一つ、窓の下に投げてやる。

ランドンは夢中でがぶりと飲み込んだ。

「飲み込んだ」

思わずそのまま繰り返す。

すでにランドンは何事もなかったかのような顔をしている。


なんだ、もっと味わえよ、シューレンさんの料理は美味しいはずだ。手が込んだお菓子なんだ。

尻尾を振って二つ目を要求するランドンをちらりと睨み、オリビエは二つ目を落とす。

わふ、と礼もそこそこに犬はまた、一飲み。

「咬まないと喉に詰まるぞ」

犬は首をかしげた。

「だから」

窓辺に乗り出すと、犬は急に立ち上がって前足を持ち上げる。

「わ!」

驚いて、数歩下がる。

犬は窓枠に両の前足を乗せると、嬉しげに顔だけをのぞかせて舌を出す。

「ランドン」


少女の声。

慌ててオリビエは窓に近づいた。

「君」

「こんにちは、変な楽士さん」

睨む真っ直ぐな瞳に、また言葉に詰まる。

変。その攻撃的な言葉はどういう神経から生まれるのか。理解できないから反論も出来ない。容赦ない攻撃を少女は繰り返す。

「そんなところにこもってないで、出てくればいいのに。ねえ、ランドン」

犬は先ほどの菓子の恩も忘れたのかすっかり少女にじゃれついている。

「それとも楽士さんは犬が怖いの?」

「そんなことはないよ」

「じゃあ、きて」

「来て?」




「うん、ほら、家の中ばかりだからそんな真っ白な顔して痩せてるのよ。貴族の奥様にはもてるかもしれないけど、街の子には全然魅力的じゃないわ」

ずいぶんな言われようだ。

似たようなことを先日男爵にも言われたために、自覚がないわけではない。

「意気地なしなのね」

「違う、犬はだめだ。触れないから」

「意味が分からないわ。行こう、ランドン。ねえ、なにもらったの?お腹痛くない?」

そんなことを言いながら、少女は歩き出す。

「ちょっと、待って!」

窓から叫んでも、少女はちらりと振り返るだけだ。


オリビエはテラスへと周り、一瞬躊躇したが、外へと走り出した。

「待てって!」


オリビエの家のさほど広くない庭を横切るように少女は通りへと抜けようとしていた。豆ツゲの小さな垣根をぴょんと身軽に飛び越えた。犬も続く。

「待て」

同じようにまたいで、オリビエは通りの石ころに躓きそうになりながら、追いついた。

息を切らせた青年に、犬が嬉しそうに近寄ってきた。

「わ、待て。やめろって」

立ち上がると犬はオリビエの腰に抱きつく。

「おい、止めろって!」

あはははは。

面白そうにキシュが青年の顔を覗き込んだ。

「やっぱり犬が怖いんでしょ?」

「違う!咬まれたらいけないから、触れない」

「なにそれ」

「いいから、こいつ何とかしろって!」

ふーん、ふーん、と首をひねりながら、少女は犬を呼び寄せた。

「変な人。ねえ、ランドン。咬まれるのが怖いくせに怖くないって言うの。変なの」

「あの、犬はどうでもいいんだ。君、もう一度歌って欲しいんだ」

「ますます変な人」

「頼むから。曲作りを手伝って欲しいんだ」

少女は黙った。

「僕は、弾き出すと夢中になっちゃうから、だから、君にそれを聞いて欲しくて。聞いて、歌って欲しいんだ。僕も君の歌なら譜面にできるんだ」




キシュに茶を入れてやり、犬がキシュの足元に寝転んで、やっとオリビエは自分のチェンバロの前に座ることが出来た。

少女は美味しいと何度もため息をつき、それを作ったメイドを尊敬すると繰り返す。

「変人なのに、お金持ちはいいわね。こんな美味しいものを毎日食べられるんだから」

「変人、は余計だと思う」

「変人は変人。私、これを作った人にお料理を習いたいな。なんていう人?」

少女の敬意はすっかりシューレンさんのもので、オリビエは複雑な気分だが、機嫌を損ねてもいけない。

「シューレンさん、っていうんだ。毎日来てくれる」

「どこの人?名前からすると外国の人みたいだけど。この町の人じゃないの?」

「え、近くだと思うけど」

「思うって?知らないの?」

呆れたようにキシュは紅茶のカップを置いた。

食べる手を止めて、青年を見ていた。

そんなに悪いことじゃないはずだ、とオリビエは思うが。

「朝、顔を合わせるだけだからね。僕は侯爵家に出かけるから、その間に家の掃除や夕食を作っておいてくれるんだ。彼女を雇ってくれているのも侯爵家だ。だから、どこのどういう出身の人かは知らない」

言いながら、言い訳に思えてくるのが不思議だ。十三の時から毎日顔を見ている。何をしなくても毎日来てくれるから、あまり意識したことがなかった。

誕生日すら、知らないな。


「…変なの。今度紹介してね。あんたのいない昼間に来るわ。いろいろ教えてもらおうかな」

完全に馬鹿にされている。ここは、我慢。我慢だ。

「メイドになりたいの?」

「ううん。ちがうよ。でもこんなに美味しいお菓子、自分で造れたら幸せだもん」

「あ、それはそうだね」

少女のもっともな発言にいちいち頷いている。

「ね、変人さん」

「…オリビエって名前があるけど」

「じゃあ、オリビエ。この間の曲、弾けるの?あれ、気に入ったな」

早速呼び捨てなのかとため息を漏らしながら、オリビエは手を鍵盤に置く。

あの曲は何度も弾いた。

「秋風のタルト」

弾き込んだために最初のような切なさは薄れている。けれどその分、穏やかな優しさのある曲になる。

「淋しい曲だね」

途中でこんな言葉を挟まれると、演奏は中断。

「あれ、止めちゃうの?」

「え」止めてはまずかったかとオリビエは首をひねる。

少女は紅茶を一気に飲み終わると、オリビエの傍らに立った。

「ねえ、もっと弾いて」

「いや、君が淋しいって言うから。気に入らないのかと」

「なに、つっかかったの、私のせい?」

「え、違うけど」

失敗したわけじゃない。

ただ、曲の途中で口を挟まれるなど、両親を亡くして以来なかった。

「じゃあ、弾いてよ」

「途中で何か言われると弾きにくいよ」

「じゃあ、歌わない」




何か、とてつもなく弱みを握られたかのような感覚に陥る。そんなに僕はおかしなことを頼んでいるのか。

無理難題なのか。

こんな年下の少女、音楽の何が分かるわけでもない少女の機嫌を取りながら曲を聞かせて宥めなければいけないのか。

考えてみれば、思うまま弾く曲は内容を問われても困る。ただ、人形のように繰り返して歌ってくれればいいのだ。だが、この少女はきっと、「何を思ったのか、何を表現したのか」としつこいだろう。

想像するだけでぞっとしないか。

これは間違っているんじゃないか。

似合いもしない、菓子を焼いて呼び寄せようなんて。

侯爵に知られたらまずいだろうし、こんな風に誰かに僕の曲を聞かせるのはどうなんだろう。男爵の件があってから、侯爵はますます他所で奏でることを嫌っている。一時は侯爵家に住まわせると言い出して。さすがにそれでは息が詰まるから、何とか宥めたのだ。

これが知れて侯爵家に閉じ込められるようなことになったら。僕は本当にかごの鳥だ。

外に出られず、憧れる空ばかりを曲にする。

自由に、なりたい。



ふ、と。

ため息と共に演奏の手が止まった。

いつの間にか指は心を奏でていた。



ら。


振り向くと少女は真っ直ぐ、真剣にオリビエを見つめながら、小さく曲を口ずさんでいた。

「君」

「キシュって名前があるよ」

「キシュ、今の」

「歌えるよ。歌って欲しいんでしょ?」

「…いいや、今のはいいよ」

あれは、取り留めない、どうしようもない想いが音になった。聞けば苦しい気分になるだろう。聞いて幸せな気分になれる曲でなくては、客には受けない。

「歌いたいの」


「え?」

いつの間にか少女の手が据わるオリビエの肩に静かに乗っていた。

少女が口ずさむ旋律はオリビエが思ったほど不快なものではなかった。

それは静かで低く、流れているかどうか分からない川面のようだ。そして少しばかりの小石に波立つ、脆さが垣間見える。やはり自分らしすぎて気分が乗らない。

「ごめん、それは」

少女は歌い続ける。

「キシュ」


最後の一音まで、キシュは歌いきった。

ほう、と息を吐き出して。少女は悲しげに青年を見つめる。

「これ、譜面にはしないのね」

「ごめん」


「とっても素敵なのに。聞いたら皆感動するわ」

「キシュ、そうだ。言ってなかった。僕の曲ね、君はきっと覚えてしまうだろうけど、誰にも言わないで欲しいんだ。僕以外の誰にも聞かせないで欲しい」

侯爵に知れたら。それは、気をつけなくては。

「なんで?どこで何を歌おうと私の勝手だわ」

頬を膨らませる。

「侯爵様に言われている。僕が、奏でるすべての曲は彼のものだから。許可なく侯爵様以外の人間に聞かせるのは禁じられているんだ」

キシュは口を尖らせた。膨らんだり凹んだりする少女の頬がなぜか視線をひきつけた。赤みを帯びた唇が胡桃割り人形を思い出させるのは何故だろう。

「その、僕が頼んでおいて悪いんだけど、僕の曲を僕にだけ聞かせて欲しいんだ」

少女はさらに首を三十度くらい傾けて睨む。


「だから。毎日美味しいお菓子を用意するよ。シューレンさんにお料理を教えてもらえるように頼んでおくから。だから」

「毎日なんて、無理」

「あ、そうか。君の好きなときに来ればいいよ。僕がいなくてもシューレンさんがいてくれるしね。気が向いた時に、聞いて歌ってくれれば」

「貴族様って、よく分からないけど。贅沢だよね」

「そうだね」

「だって、それじゃ私のランドンと同じじゃない」

「え?」

「オリビエは貴族様の犬と同じってこと」


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