2.少女、歌、奏で 1
1
オリビエンヌ・ド・ファンテルが音楽に才能を持つのは生まれながらの環境といえた。
父はこの小さな二階建ての家で貴族やブルジョア階級の子供らに音楽を教えながら、侯爵家の楽士として勤めていた。王宮に招かれ音楽会の主役になったときもある。
少年だったオリビエはそれを誇らしく思っていた。
家では母親が父の演奏に合わせてよく歌を歌い、伸びやかなソプラノを真似しようとオリビエも子供ながらに声を張り上げた。母マリアは人前で歌うことははしたないと考えていた。だから彼女の歌声を知っているのは父とオリビエだけだった。
この教区の司祭である祖父の教育のせいか母マリアは誰にでも優しく、父が音楽を教える生徒たちにも慕われていた。幼いオリビエはそれに嫉妬し、そのどの生徒より優秀であろうとした。
誰よりも長く音に親しみ、歌い、奏でた。
学校は嫌いで、半日我慢するとすぐに近くの公園へと逃げ出していた。逃げ出した翌日には「ロバの席」に座ることになったが、それはあまり気にならなかった。怠け者の象徴として教室に設けられたその席は、丁度日当たりのいい一番前だった。
反対側に「栄誉の席」があったが、そこにいつも座る常連の男の子とは仲が良かった。先生が結婚式の手伝いに借り出された翌日などは、まだ酒臭い息をしてたまによろけたりするから互いに目を合わせてはくすくすと笑いあっていた。
基本的には個別授業。ラテン語もフランス語も得意だったオリビエは、祖父の影響で聖書もよく読めたし、怠け者だったが手のかかる生徒ではなかった。授業中も放っておかれることが多く、オリビエも出来るだけ質問しないようにと黙り込んでいた。
昼の十一時にいったん学校が閉じられる。寄宿している子どもたちは寄宿舎に食事に戻る。オリビエは母親にパンを持たされることが多かったが、大抵その時間に抜け出すと午後の授業に出席することはなかった。
ふらふらとどこかで時間をつぶし、こっそり家に戻る少年が一人でチェンバロに向かう姿を母親は黙って見守っていた。夕方からの家での音楽学校で、貴族たちに負けないようにとオリビエは懸命に楽器に向かっていたのだ。
ふと。
公園の風景を。あの時眺めていた道行く人々を音にしてみたくなる。
毎日、池の絵を描いていた老人。覗き込むと春なのに秋の風景だった。理由を問うと、納得がいかずに同じ絵を何度も修正し描き続けるうちに季節が変わってしまったのだと老人は応えた。
面白い気がした。彼にとってはまだ、秋なのだ。
彼の絵の中に描かれていた子犬は、その時には立派な成犬で毎日ご主人の派手な貴婦人に引かれて散歩していた。
少年にとって不可思議で面白い世の中の人々。彼らを曲にする。
そうして、オリビエはペンを執り、五線譜に音の印を並べていく。
窓の外はすでに夏の盛りを過ぎ、夕刻の風は涼しさを増した。今年もまた秋が近づく。
秋は苦手だ。
両親を失った季節だから。
ふと、公園の景色から余計な想いへと思考が飛んだことに気付いて、青年は頭を軽く振る。あれからもう、五年が過ぎようとしている。時は容赦ない。
そう、アネリアを失って半年になろうとする。
容赦ない。
2
ペンをインク壷に戻すと。オリビエは楽器に向かう。
譜を残しタイトルをつけなくては曲として残せない。けれど今は。この想いを音にしておきたい。
いくつか弾き、やはり書こうと手を止める。
調子の出ない日とは、こういうものだ。
と、開かれた窓の外から誰かの歌う声がした。
聞いたことのある曲だ。
歌詞もなくただ、ららら、と歌う少女。
オリビエは窓辺から外を眺めた。
わんわん!と激しくほえられた。
「あ、ごめんなさい!」
街の少女だ。アネリアと同じくらいか。白い犬を抱きしめ、こちらを見上げる。
真っ青というのか。空を映す瞳にオリビエは何もいえなくなった。
少女は立ち上がり、青年に微笑んだ。
「素敵な曲ですね、つい、口ずさんじゃった」
「あ、ああ」
あれは自分がついさっき思うがまま奏でた短いフレーズだったのだ。それすら記憶に遠いオリビエは少し呆けた様子で少女に見入っていた。
「侯爵様の楽士様でしょ?わたしキシュといいます。美しい音楽が大好きなの。この、ランドンもね」
ランドン、といわれ犬がワフンと嬉しげにほえた。
「あ、ゴメンナサイ。お邪魔してしまいましたね」
「いや、もう一度。歌ってくれないか」
少女は不意に頬を染めた。
いや、ついさっき通りに面した窓から音を拾って口ずさんだ、その上「つい」と悪びれずに笑って見せた。
なのに歌えといわれると躊躇する?
「あの、でも」
「いいから、もう一度」
オリビエは無性に、人が奏でる自分の曲を聞いてみたくなっていた。
「君、オルガンは弾けるの?」
「無理です、そんなの」
今度はぷんと口を尖らせる。ワフンと犬も同調する。
「じゃあ、歌ってみて」
とがった口が青年に見つめられて徐々に緩む。
「しょうがないな!笑わないでね」
不意に口調まで変わり、キシュと名乗った少女は後ろに手を回し、合唱の練習の時のようにふと腹に力を込めると歌いだした。
それは犬も聞き入る。
少女は才能があるのだ、一度聞いただけの曲を最初から、口ずさんで見せた。その上、オリビエが思うまま弾いた不安定なそれは、歌いやすく省略されるのか譜面に落としやすい。
オリビエは、窓から身を乗り出して、少女を誘った。
「ね、君、ちょっと手伝ってくれないか」
きょとんとしたキシュはすぐに仕方ないな、と大げさに肩をすくめ、テラスを回って犬と共に入ってきた。
「犬は外に」
扉を開けたオリビエが眉をひそめると、キシュはあら、と笑った。
「だめよ、ランドンは私の護衛だもの、私に何かあったらただじゃすまないんだから」
気付いて、オリビエは自分の突然の思いつきを恥じた。
見知らぬ少女を家に呼び込むなど、見ているものがいればなんと噂されるかわからない。これが侯爵の耳に入れば、何か良くない結果を生むかもしれない。
オリビエは戸口に立ったまま、チェンバロを珍しそうに眺め回すキシュを見つめていた。
どうしようか。
このまま帰すのもおかしいか。
3
キシュは少し日に焼け、顔にはまだそばかすが残る。十代前半だろうか。赤いうねりのある髪が華奢な肩にふわりと乗っている。ドレープを取った綿のブラウスの上からでも細身のしなやかな体型がわかる。クリーム色のスカートに臙脂色の細いリボンが結ばれている。
少女はチェンバロの風景画に見とれ、オリビエはその少女を見つめていた。
美しく整然と並ぶ弦に綺麗、と囁き、そのまま少女は歌いだした。
先ほどと同じ。
いや少し、また所々端折られているが。
聞き苦しくはない。
オリビエは我に返って、ペンを手に取った。
机に向かって譜面を書き付ける。
ふと歌が止む。
顔を上げると少女がオリビエの手元をのぞき込んでいた。
「それ、楽譜?」
「え、ああ」
「何の曲?」
「今、君が歌った曲だよ」
キシュは目を丸くした。
「聞いただけで譜面になるの!?」
「待って、聞いただけで口ずさむほうがすごいと思うけど」
「そんなことないよ、だって、曲を作ったのはあんたでしょ?作るのもすごいし譜面がかけるのもすごい」
「だから、それを一回聞いただけで歌える君もすごいよ。僕なんか弾いた先に全部忘れるから」
ぷ、と。
キシュは噴出した。
「え?」
そのうち、苦しそうに塞いでいた手も取り払い、少女は大声で笑い出した。
あはははは。
軽やかなアルトの笑い声は心地よく、最初は笑われることに納得のいかなかったオリビエも少女が痛そうに腹をさすって、こちらを見つめ、また笑い出したのには頬を緩めた。
「だって、だってだって!!忘れちゃうの?せっかくこんなに素敵なのに?自分が弾いた曲なのに?おかしい〜」
「…弾くのに夢中だから」
青年のいいわけじみた口調にキシュは笑いすぎた瞳をこすって、青年が座る脇に立った。
「子供みたい。でも。素敵」
頬にキスを受け、オリビエはつい立ち上がる。
「な、なんだよ」
自分よりかなり年下だ。そんな少女に子ども扱いされた。
「あら、素敵な曲のお礼。私気に入ったな。ね、何て題名?」
また嫌なことを聞かれた気分で、オリビエは黙り込む。
想いを吐き出した曲に題名なんかない。
説明すればそれは、会えなくなったアネリアを思い出しての曲であったと自分自身も認めてしまう。秋が近づく淋しさにアネリアも加わった。そんなもの、見知らぬ少女に話せない。
「ねえ、何てタイトル?」
「いや、教えない。いいから、もう一度歌ってくれないか」
「いや。教えてくれないなら歌わない」
ワフンとタイミングよく犬も頷く。
白い毛むくじゃらを睨みつける。
「可愛いでしょ。なでさせてあげようか」
「結構」動物には近づかない。間違って手を咬まれてはいけないから。
気まずい沈黙。
「もう帰るわ。曲は素敵なのに、性格は変」
う、と返事に詰まって、オリビエは呼び止め損ねた。
少女は行こう、ランドン、と護衛を従えて出て行った。
硝子のはまった扉の向こう、揺れる赤毛。
庭の風景と馴染んで消えた。
一人のその夜。
一階のリビングを兼ねる仕事部屋でオリビエは再び机に向かっていた。
ランプの明かりの下、ペンを走らせる。
不思議なことに少女が歌った曲は鮮明に耳に残り、ちょうど侯爵に命じられていた秋の曲の一つとなった。
自分が奏でるのと、人に奏でてもらうのとでは何かが違う。
冷静に聞けるのだろうか。
これまで湧き出した音を譜面に残そうと努力し、挫折したことを思うと、この発見は空を飛ぶ機械を発明したかのように心を軽くした。
キシュといった。あの少女に曲を聴いてもらい、歌ってもらえば譜面に出来る。これは、とてもいい思い付きだ。
今日は怒らせてしまったが、相手は子供だ。甘い菓子など用意してやれば、手伝ってもらえるのではないか。
ふと思いつき。
オリビエはその曲にタイトルを書き込んだ。
『秋風のタルト』
書いてから、子供じみているか、と迷ったがそのままにしてみた。
侯爵はなんと言うだろう。そのタイトルを告げる自分を想像し、気恥ずかしい気分にもなる。だが、甘く切ない秋の曲に、ほろ苦い焼き栗の入ったお菓子を思い出していた。
ふと、空腹を覚え、温かい茶でも入れて、今日は休むことにした。
昼間、オリビエが出かけているうちに通いのメイドが用意してくれる夕食。今日はデザートに手をつけていなかったことを思い出し、自分で入れた紅茶と一緒にトレーに並べた。
二階の寝室に持ち込むと、悪いことと知りながらもベッドに座って膝の上にトレーを乗せる。
冷めた夕食を一人で食べるのは嫌いだったし、侯爵家で出された時も餌をもらう犬のような気分だった。
だから、この時の夜食は普段感じたことのない、奇妙な満足感があった。
温かい飲み物と甘いものが心に沁みるなど、初めて知った。
美味しいと、心から思った。
いや。
思い出したのだ。
子どもの頃、風邪を引くとベッドの上で甘いものを食べられた。躾に厳しい母親も、そのときだけは許してくれた。額の熱を測る母親の手。
火照った体に冷たくした甘い果物が喉を潤し、とても美味しかった。
記憶をたどる青年の膝の上で、退屈そうに紅茶のカップに湯気がたゆたう。
僕は、何かを忘れているのかもしれない。