1.音、恋、空 10
10
テーブルではグラスの水が静かに波を収めたところだった。
「だめだ」
「あの、一人前でないことは分かっています、ですが、その」
「料理が冷める。食べなさい」
「侯爵様、私には愛する女性がいます!」
いつの間にか胸の前で両手を固く握り締めていた。
そこに包む想いを強く強く固め、それは凍りついた雪球のように侯爵の額に革命的な一撃を。
「……どうか、アネリアとの結婚をお許しください」
「小娘に入れあげるのも一時。お前は家庭を築くためにここにいるわけではない。私のために曲を奏でるのだ。それ以外のことは許さん」
息すら、許されない気がした。
投じてもなお、拳に冷たさを握り締めたままオリビエはうつむく。額に当てた拳の下、溶けた雫が瞳を潤ませ睫を飾るが。侯爵は言った。
「言っておくが。このスープは冷めると不味いぞ」
オリビエは綺麗に飾られたトマトをひっくり返し、銀のフォークで突き刺すと口に運んだ。
飼い犬のような。愛玩動物なのだ。
オリビエは胃が要求しないにもかかわらずとにかくこの時間を早く終わらせたくて、もくもくと食べ続けた。
スープには冷めるまで手をつけない。そんな小さな反抗すら、目の前の侯爵は面白そうに眺めていた。
お遊びの、道具なのだ。
アネリア。
ごめん。
自分のナイフを持つ手にふと目が止まる。白い手。傷一つ、つけることを許されない手。音楽を奏でるためにある、手だ。
今もむせながらこぼれそうになる涙を音に変えたくて、生き物のようにうずうずしている。
鍵盤があればまた踊りだすのだろう。曲という形になれば、オリビエは何を叫んでも怒鳴っても許された。食後に披露した即興の曲に侯爵は黙って聞き入っていた。
オリビエは奏でるしかない。
切ない思いを。
自由な恋。
空を羽ばたく。
音だけは誰にも捕まらず空を翔る。