1.音、恋、空
第一話:音、空、恋
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シスルーの森のざわめきが午後の木陰にも風として流れる時刻。
しばしの別れを思い、オリビエは腕の中のぬくもりを確かめるようにもう一度抱きしめた。
「ん、楽士さん」
少女の柔らかい頬をむき出しの肩に擦り付けられ、オリビエは吐息を落とす。
「そろそろ時間だ」
「あん」
「ほら、司祭が来る時間だ。アネリア、起きて」
寄り添っていた二人は静まり返った礼拝堂の中庭から、身を起こす。
綺麗に刈り込まれた低木にかけていたシャツを手に取ると、オリビエはその脇に転がる少女の靴を彼女の足元に揃えて置いた。
まだ十六の少女、アネリアは乱れた胸元のボタンをしっかりはめなおし、スカートについた木の葉を払う。
オリビエも靴を履き終えると、少女の髪に絡む白い萩の花びらをとってやる。
「ね、明日も同じ時間に」
アネリアのおねだりは何時も青年の胸元にしっかりと両手で捕まって上目遣い。
その眼差しにとく、と鼓動を感じるが、オリビエは小さく肩をすくめてごめんね、と謝る。
「明日、侯爵様に新曲の披露なんだ。昼から午後にかけての小さな茶会がある」
「また侯爵夫人の熱い視線に耐えなきゃいけないのね。あの人がオリビエを見る目つきって同じ女性として恥かしくなるほどあからさまよ」
「君こそ、侯爵に気をつけなよ。前から思っていたけど、この家のメイドの服ってここがやけに空きすぎだよ」
オリビエは少女の胸元を軽くつつく。
「平気よ。これで愛しの楽士さんを誘惑できるなら」
アネリアはその武器をしっかり青年の胸に押し付け、口付けを交わす。そうかと思えば次の瞬間にはくるりとスカートを翻し、数歩先を歩く。午後の日差しに眩しい一瞬の姿は、花の香りのように心をくすぐり淡く消える。覚えた花の名をいくつも心に並べながらオリビエは少女を例えようとその香りを追う。
「侯爵様はね、ちょっと違うのよ」
「違う?」
「そうよ。侯爵様は、元軍人でいらっしゃるからか、すごく堅実な方よ。オリビエみたいにこんなとこばかり見てないもの」
「ひどいな」
苦笑する青年にアネリアは笑みを咲かせる。
ブルネットの巻き毛を遠く響く鐘の音が風に乗って揺らした。
温かい午後のひと時をメイドのアネリアと過ごすのは、オリビエの唯一の楽しみであった。密かに二人で侯爵家の敷地内にある小さな礼拝堂に忍び込み、回廊に囲まれた中庭で寄り添う。
見つかればただでは済まされないが、それは蜜のように甘い誘惑で、二人はもう二月程続けていた。
アネリアが厨房のある母屋へと向かうと、オリビエは離れの一角にある音楽堂に向かう。小さな六角形の建物は四階建ての離れの南東に張り付くように作られている。丸い屋根と風見鶏を乗せたそこはまるで鳥かごのようだと遠めに見るたびにオリビエは思う。そして、うんざりする。
分かっている。
自分に出来るのは、音楽を奏でることだけ。
それで一応は生きていけるのだから、幸せだと思わなくては。