シルヴィア襲撃
5月13日 夜
西条市東部 多武峰家邸宅
「よし、できた!」
多武峰咲夜は、数学の問題を解き終えて、軽く伸びをした。今年中学3年生の彼女は、来年には高校受験を控えていた。そして、努力家の彼女は、早くも受験勉強を始めていた。目指しているのは、当然、義兄である如月飛鳥の通う西条市立国分寺高校であった。
時刻はすでに夜の11時を回っており、咲夜もそろそろ眠気に抗えなくなってきた。そんなとき、咲夜は、必ず一枚の写真を眺めるようにしている。
「お父様、私、頑張っているからね」
そこに写っているのは、当時、5歳の彼女と、7歳の飛鳥、そして、その2人に挟まれるように立って笑顔を浮かべている一人の男性だ。写真が撮影されたのは、この屋敷の広い中庭だった。もっとも今、この屋敷に住んでいるのは、咲夜だけになってしまったが。
咲夜の父は、この写真を撮ってすぐに、交通事故で他界したそうだ。まだ幼かった咲夜は、多武峰家の人間にそう教えられた。そして、彼女の義兄飛鳥もまた、7年前に多武峰家と対立して、屋敷から追放されたのであった。以来、飛鳥は、市内のマンションで一人暮らしをしている。
いうなれば、この写真は、咲夜にとって幸せだったときを切り取った宝物であった。
「聞いてよ、お父様、今日ね……」
咲夜は今朝の出来事を、写真の中の父に向かって語りかけた。それは習慣であった。咲夜は話す。飛鳥が今朝も悪夢にうなされていたこと、可愛がっていた男の子と決別したこと、そして、また、自分を傷つけたこと……。話しながら、咲夜は涙をこらえていることができなくなった。
「でも、嬉しいこともあったのよ、お父様。『魔術は正しいことのために使いなさい』って。……これは、お父様の教えだったよね」
咲夜の父は、わずかな期間ではあったが、飛鳥の魔術の師匠であった。飛鳥が、亡き師父のその教えを未だに覚えていてくれたこと、そして、それを彼にとって大切な人に伝えていたこと、その二つだけが、咲夜にとってのせめてもの救いであった。
「さあ、もうひと頑張りよ!」
努力家の咲夜は、寝る前にもう一問、と参考書を開く。そのときだった。使用人の一人が血相を変えて、彼女の部屋に駆け込んできたのは。
「咲夜お嬢様!こちらにおいででしたか……夜分に失礼しますが、すぐに支度をなさってください」
すぐに咲夜の思考は、受験勉強に勤しむ中学3年生のそれから、魔術の名門多武峰家次期当主のものへと切り替わる。
「どういうことですか?まさか、協会が攻めてきたとでも……」
多武峰家は、日本魔術師協会と敵対している。最近は、『紅蓮の死神』の存在もあって、屋敷にまで接近を許すことはなくなったが、依然協会の刺客が襲撃してくる可能性はゼロではない。
咲夜が問い返そうとした瞬間、至近距離に雷が落ちたかのような地響きと轟音が響きわたった。
「説明している時間はございません。さあ、すぐに!」
使用人は、半ば強引に咲夜を連れていこうとする。
「さきほどの音は正門の方角から聞こえました。敵だとすればすぐそばまで来ているってことですよね?それならば、私には、次期当主として、見届ける義務があると思います」
咲夜は、使用人の手を振り払って、正門に向かって走った。このとき、彼女の脳裏にあったのは、義兄飛鳥のことだった。いつだって、咲夜は、飛鳥に守られてばかりだった。飛鳥が一人で敵を倒し、そして、一人で全てを抱え込んでいた。それじゃいけないと咲夜は思う。彼の隣で戦うことができなくても、せめて、彼が身を置いている場所がどんなところなのか、それを知る義務がある。咲夜はそう思う。
「漆原、状況はどうなっているのですか?」
咲夜は、見かけた顔見知りの者に尋ねた。正門付近はひどい砂埃が立ち込めており、視界が閉ざされている。多武峰家の者たちも深夜の異変に混乱を隠しきれないようだった。
「さ、咲夜様!ここは危険です。早くおさがりください!」
漆原と呼ばれた男は、咲夜がこんな場所にいることにひどく驚いたようだ。
「いいえ、私は下がりません。多武峰家次期当主として、私には状況を確認する責務があります!」
「咲夜様、今はそのようなことを言っている場合では……」
「あれ、もしかして、飛鳥の義妹の咲夜ちゃんかしら?随分大きくなったわね。久しぶりだわ!」
砂埃の向こう側から、咲夜と同年代ぐらいの少女の声がした。
「まさか、正門の守りを打ち破ってきたとでも言うのか!?何者だ!ここを多武峰家の屋敷と知っての狼藉か!?」
漆原は咲夜を庇うように、一歩前に出た。
砂埃の向こう側から、月明かりに照らされて、純白のワンピースを着た銀髪の少女が姿を現した。殺気立った多武峰家の人間たちも思わず息を呑むほどに、その姿はあまりに幻想的で魅惑的であった。彼女は、吸血鬼種特有の血のように紅い目を輝かせていた。
「まさか、シルヴィアなの?……」
咲夜はその少女に見覚えがあった。7年前、多武峰の邸宅に連れてこられた少女。土倉の中に閉じ込められていた少女。飛鳥に連れられて咲夜も会って話したことがある少女。そして、飛鳥が多武峰家の邸宅を追われる原因となった少女。当時は飛鳥と同じ10歳だったが、今は、成長して高校生ぐらいになっている。それでも、咲夜は、直感的に彼女だと分かった。
「そうだよ。本当に久しぶりだわ、咲夜ちゃん……それで、何かしら、あなたは?」
うっすらと笑みさえ浮かべていたシルヴィアは、咲夜を庇うように前に出た漆原を見て、眉をしかめる。
「吸血鬼シルヴィア……貴様のような化物を、咲夜様に近づけるわけにはいかない!凍てついた弾丸よ!」
漆原の手から、氷でできた銃弾が放たれた。狙いはシルヴィアの心臓であった。吸血鬼は不死身に近いほどの再生能力を誇る。とはいえ、心臓に穴を開けられたら、致命傷とまではならなくとも、しばらくは動けなくなる。もっとも、それは、届いたらの話であった。
「私を舐めているのかしら」
シルヴィアの影が彼女の身体を守る盾となる。氷の弾丸は影の盾に弾かれ、彼女の身体にかすり傷一つ付けることはできなかった。
「もういいわ、死になさい」
シルヴィアの影は、盾から形を変え、数十本もの槍となる。そして、シルヴィアの影の槍は、漆原の全身を貫いた。
「……さ、咲夜様。……に……げ」
「いやあああ、嘘、そんな、漆原さん……」
咲夜は、今目の前で起こった出来事をすぐには信じることができなかった。ほんの数秒前まで生きていた人が、自分の知っている人が、まるで埃でも払うようにあまりに簡単に命を奪われたのだ。
「どうして、シルヴィア……。なんで、こんなことを?」
咲夜は全身の震えを押し殺しながら、目の前の化物を睨んだ。
「どうしてって?何かしら?何のことかしら?……ああ、その男を殺したことかしら?……別にたいした理由なんてないわ。強いて言うなら、私の前に立ちはだかったのが、邪魔だったからかしら」
「……この!」
咲夜は、バスケットボールほどの水の塊を無数に生み出す。水属性魔術第2位階『水球』である。殺傷能力が低く、魔術師の戦闘では滅多に使われることのない魔術ではある。咲夜は、大量に生成した水球を、シルヴィア目掛けて一斉に投げつける。
「随分と可愛い魔術を使うじゃない、咲夜ちゃん」
音速に近い氷の弾丸さえ簡単に弾いてしまうシルヴィアの影の盾であった。当然、咲夜の水球はシャボン玉を割るように全て破壊されてしまう。シルヴィアは嘲るように告げる。
「まったくこんなものでどうするつもりだったのかしら?服が濡れてしまったわ。もしかして、私に風邪でもひかせるのが目的だったのかしら?もし、そうなら……うん、服、水……まさか」
「ええ、そのまさかよ、くらいなさい!雷属性第3位階魔術『電撃の弩』」
雷でできた矢を以てしても、やはり、先ほどの水球や氷の弾丸のように、影に阻まれ、何らダメージを与えられない……はずだった。しかし、今、シルヴィアの身体も彼女を守る影も、水球が弾けた際に等しく水に濡れていた。電撃の矢は、シルヴィアの影に触れると、その表面に付着している水を伝って、数十万ボルトもの衝撃を、彼女に食らわせた。
シルヴィアは、苦悶の表情を浮かばせては膝を屈した。
「……やるわね、咲夜ちゃん、二属性の魔術を使いこなすなんて……」
ほとんど全ての魔術師は、自身と相性のいい属性魔術を極める道を選ぶ。例えば、多武峰の神童とまで呼ばれた飛鳥は、炎属性魔術との相性が抜群によく、第7位階魔術すら行使可能だ。しかし、他の属性に至っては、第3位階魔術がやっと使えるぐらいのレベルに過ぎない。一方、咲夜は、彼女の義兄とは異なり、あらゆる属性の魔術との相性がよかった。そのため、全属性の魔術を習得の対象と日夜修行を行っている。
単体の魔術同士で比較した際、第2位階や第3位階の魔術では、第6位階魔術の破壊力には到底歯が立たない。けれども、低位階の魔術でも、組み合わせ次第では、高位階の魔術にすら成し得ないことをなし得る、咲夜はそう信じていた。
「シルヴィア……、私は、多武峰家次期当主として、あなたを見逃すことはできません。ですが、ここで降参して無意味な争いを辞めるというならば、命までは取ろうとは思いません。ですから……」
咲夜は、誰よりも近くから飛鳥を見ていたから分かることが一つある。7年前からずっと、シルヴィアは義兄にとって、他の誰よりも、おそらくは咲夜よりも大切な存在だということだ。そして、咲夜は、義兄が悲しむような結末は望まない。
しかし、咲夜の提案は、嘲笑するようなシルヴィアの笑い声によって遮られた。
「面白い冗談だわ、咲夜ちゃん。もう勝ったつもりなのかしら?」
シルヴィアは、立ち上がりながら咲夜に尋ねる。その様子のどこにもダメージを負った気配はなかった。
「うそよ、電撃の弩が直撃しているのよ。どうして立ち上がれるの?」
数十万ボルトの電撃を受ければ、普通の人間ならば、しばらくは身体が痺れて動けなくなるはずだ。あるいはそのまま死んでしまうことだってありうる。咲夜は重要な前提条件を見落としていた。そう、普通の人間ならばということだ。
「ねえ、咲夜ちゃん……吸血鬼の最大の武器はなんだと思うかしら?私の影のような『固有能力』は確かに強力な武器になるわ。でもね、一番の武器はね、人間を圧倒的に凌駕する、この身体能力の高さだわ!」
刹那、咲夜の目には、シルヴィアの身体が一瞬にして消失したように映った。
「え、……どこ?」
「ここだわ」
後ろからの声に咲夜が振り向いた途端、彼女の身体は、シルヴィアの影によって完全に拘束された。手と足は縛られ動かすことができない。口こそ自由なものの、喉元に影でできた刃を突きつけられている。もし、魔術の呪文を唱えようとするならば、容赦しない、と告げられていた。
「放してよ!いったい何が目的なの、シルヴィア?私たち多武峰家への復讐がしたいの?それだったら……」
「違うわ、そんなことは心底どうでもいいわ。私は、飛鳥が欲しい、それだけだわ。他の全てはどうだっていいわ。そのためだったら、私の邪魔をするものは全て排除するわ!」
伊達や酔狂で言っているのではないと、シルヴィアの狂気じみた笑みを見て、咲夜は確信した。多武峰家も日本魔術師協会も、何であろうと関係ない。シルヴィアは文字通り、邪魔するもの全てを滅ぼすのだろう。
「シルヴィア、あなたのやろうとしていることは間違っているわ!今のあなたが壊そうとしているものは、多武峰家は、飛鳥が、ずっと命懸けで戦って守ってきたものなのよ。飛鳥がどんな想いで戦ってきたか、あなたは何も知らないだけよ!」
「……違うわ、咲夜ちゃん。私が壊したいのは、飛鳥が命懸けで守らされているものだわ。私は、そんなものがこの世界に存在していることが許せないわ。彼を道具のように弄ぶ連中が許せないわ。私は、この世界に飛鳥よりも価値のあるものを認めないわ。……私は、今のあなたのことも嫌いだわ、咲夜ちゃん。……あなたもそう、飛鳥に守られることを当たり前だと思っている。飛鳥がどれだけ傷ついても気づかない振りをして……優しいあの人がどんなに苦しんでいるか、想像すらしないで!」
「そんなことないわ!私だって、ずっとずっと飛鳥義兄さんを見ていたのよ!……私は、7年間、兄さんが苦しむ姿を見続けてきたのよ。その私がなんとも思わなかったなんて言わせない!」
咲夜の脳裏には、今朝の悠斗との一件、そして、それ以前に起きた飛鳥を苦悩させた無数の出来事が蘇っていた。咲夜は一度として、飛鳥が苦しむのを見て見ぬ振りをしたことはなかった。彼女の義兄は、あまりに強くて、そして優しかったので、絶対に彼女に弱音を吐いたりはしなかった。ゆえに、せめて少しでも傍にいて、ほんのわずかの間でも支えようとしてきたのだ。それを否定されるのだけは許せなかった。
「私は、あなたが心底羨ましくて憎いわ、咲夜ちゃん!いくら自己弁護しても、あなたが7年間、飛鳥のすぐ傍にいながら、何もしなかったことに変わりはないわ。私だったら、7年間もあったら、多武峰家を100回は滅ぼせているわ。私は、あなたが許せないわ!もし、あなたじゃなくて、私が飛鳥の傍にいることができたなら、飛鳥は……あんなにも傷つかなくて済んだはずだわ!」
シルヴィアの激情に対し、咲夜もまた感情を爆発させる。
「人の気も知らないで!あなたみたいな自由気ままな吸血鬼と違って、私は……私は……多武峰家の次期当主なのよ」
多武峰咲夜は、西条市を支配する魔術の名門多武峰の本家に生まれた。多くの使用人にかしずかれ、名家の令嬢としての何不自由ない生活を保障された、現代社会における生まれながらの貴族である。その地位と特権は、多武峰家の本家の人間としての責務と引換に与えられたものだと咲夜は理解している・それは、亡き父の教えでもあった。ゆえに、7年前、飛鳥が大罪を犯して多武峰の邸宅から追放されたときも、それ以来『紅蓮の死神』としての魔術師殺しを強いられて彼が磨り減っていくのを目の当たりにしても、傍にいること以上のことはできなかった。決して、現当主道元の決定には逆らわない。それが、本家の人間としての責務であったからだ。
「だから何かしら?それも全部、咲夜ちゃんが何もしなかったことの言い訳じゃないのかしら?」
咲夜の葛藤は決してシルヴィアには理解できない。気に入らないものは力でねじ伏せ、欲しいものは力で手に入れる。それが、吸血鬼の生き方であり美徳であったからだ。
これ以上話すことはないとばかりに、シルヴィアは、手刀で咲夜の意識を刈り取った。そして、自分自身に言い聞かせるようにシルヴィアは告げる。
「私は、多武峰家を滅ぼして、飛鳥を手に入れるわ。それまで、あなたは眠っていなさい、咲夜ちゃん」
「ほほう、それは困りますな」




