飛鳥の苦悩
気がつくと、飛鳥は色のない荒野に立っていた。空も大地もセピア色で、あらゆる生命が死に絶えたようだった。そこは、時間の概念さえ存在しえなくなった、核戦争の後に残されたような世界であった。少し前に、第三次世界大戦が起こったと告げられても、疑うことなく信じてしまうような、そんな風景がどこまでも続いていた。この世界に生きているのは飛鳥だけのようだった。彼は、あてもなく歩き始めた。空には死んだ太陽が浮かび、方角さえままならなかった。
不意に、飛鳥は、何かに足を取られてつまずいた。石ころにでもひかかったのかと背後を振り返った。すると、そこにあったのは人間の死体であった。そして、その死体の手が、彼の足を確かに掴んで離さなかった。
「い、嫌あああああ!!離せ!」
全身の毛が逆立つような恐怖を感じた。生理的な恐怖を感じた飛鳥は、反射的に魔術を発動した。炎の槍を作り出すと、彼は、自身を掴んでいる腕真っ二つに切り落とした。しかし、腕を切り落とされたてもその人間、いや、死体は、何事もなかったかのように立ち上がった。
「……え、まさか……東城さん?」
その死体は胸から血を流しながら立ち上がった。飛鳥はその死体の顔に確かに見覚えがあった。
「う、嘘だ、嘘だ、嘘だ!貴方は、死んだはずだ。俺が殺した、殺したんだ!心臓を打ち抜いて殺したんだ!!」
その死体の胸部の傷は、紛れもなく、飛鳥がその手で貫いたものだった。
東城の姿をした死体は、しかし、ただこう繰り返すのみであった。
「どうして、どうして、どうして……」
「うああああああああああああ」
飛鳥は逃げ出した。叫びながら走った。走って、走って走り続けた。そして、また、何かにぶつかった。それは、首から血を吹き出しながらも立っている死体であった。そして、その顔も、やはり飛鳥の知っている人間のものであった。その死体も、東城の死体と同じことを繰り返した。
「どうして、どうして、どうして……」
「ち、ちがう、お、俺は……」
飛鳥は、自身に迫り来る死体から逃げるように、別の方向へと走り出した。走って、走って走り続けて、そして、少ししてある事実に気づいた。飛鳥の足が一歩も前に進んでいないことに。いつの間にか、彼の足は、荒涼の荒野ではなく、血のように赤い色をした沼地に囚われていた。沼地の中からも亡者たちの手が伸びてくる。彼らもやはり、同じことを繰り返している。
「どうして、どうして、どうして……」
いくら振り払っても、魔術で焼き払っても、亡者たちの手は飛鳥を掴んで決して離そうとしなかった。飛鳥は使える限りの魔術で亡者たちをはねのけようとする。しかし、いくら焼かれても吹き飛ばされても無限に湧いてくる死体の圧力に、飛鳥も力尽きた。ついに、彼らは、飛鳥の身体を赤い沼の奥底へと引きずり込んだ。呼吸を奪われ、意識を失う寸前、飛鳥は、彼らの問いかけの続きを不意に悟った。
「どうして、どうして、どうして……私たちを殺したの?」
5月13日 朝
如月飛鳥の借りているワンルームマンションの一室
「はあはあはあ、……夢だったのか!?」
飛鳥が目を覚ますと、その目に映ったのは、見慣れた自室の天井だった。血の色をした沼や荒涼の大地、飛鳥に対する憎しみを募らせた亡者たちは当然そこにはいなかった。全ては彼の夢の中の出来事だったのだ。
「義兄さん、大丈夫!?だいぶうなされていたみたいだけど……」
義妹の咲夜が心配そうな顔をして駆け寄ってきた。彼女の名前は、多武峰咲夜。多武峰家の養子であった飛鳥にとっては、2つほど年の離れた血の繋がらない妹にあたる。
「ごめん、咲夜。心配をかけて。大丈夫だよ、心配しないで。ちょっと、嫌な夢を見たせいだから」
飛鳥はそう言って、安心させるように、咲夜の頭を撫でようと手を伸ばす。しかし、すぐに手を引っ込め、バツが悪そうに、頬をかいた。
「ごめんなさい、義兄さん……。昨日の、……東城さんのことだよね?ごめんなさい、私、兄さんが苦しんでいるのに、何もできなくて……。私……」
「そんなことはないよ、咲夜。咲夜には、十分助けられているよ。今朝もこうして、朝ごはんを作りに来てくれているじゃないか。咲夜ちがいなきゃ、俺は、とっくの昔に栄養失調で倒れているよ」
「また、そんなこと言って。……いけない、お味噌汁の火を消してこないと!」
中学の制服の上にエプロンを着た義妹は慌てて、台所の方へ走っていく。その姿を微笑ましそうに眺めつつ、飛鳥は思う。
7年前のあの日以来、飛鳥を支え続けているのは、もちろん、あの約束だった。そして、それと並んで、明るく天真爛漫な笑みを浮かべる義妹の存在に飛鳥は救われていた。多武峰家が滅びれば、次期当主の座にある彼女がどんな目に遭うか想像に難くなかった。だから、せめて、『紅蓮の死神』が、彼女の幸せを守るためのものだと、飛鳥は思いたかった。誰かを不幸にした分、誰かの幸福を守っているのだと。たとえ、それが歪んだ自己正当化であったとしても。そうしなければ、飛鳥は今日まで正気を保ってはいられなかっただろう。
「さあ、召し上がれ!」
一人用の小さなダイニングテーブルに、二人分の朝ごはんが所狭しと並んでいる。炊きたての白米にしじみの味噌汁、焼き魚に野菜のおひたし、と今朝の献立は和食であった。もちろん、すべて義妹咲夜のお手製であった。
「いただきます……うん、今日も美味しいよ」
お世辞ではなく、咲夜の料理の腕は相当のものだ。飛鳥が一人暮らしを始めた頃から、咲夜の腕前は急速に上達し、今では、プロ顔負けと言っても過言ではない域に達していた。
「兄さんにそう言ってもらえて嬉しいわ。……ごはんのお代わりどうかしら?」
「それじゃ、もらおうかな。……いつも悪いな。多武峰の家から、ここまで結構あるだろ?」
楕円形の形をしている西条市は、西条駅を中心とする商業地区、駅からみて東側の旧市街地区、西側の新興住宅地区の3つに分けられる。多武峰家の屋敷があるのは東側で、飛鳥のアパートがあるのは、西側になる。直線距離でも4キロほど離れていることになる。
「ううん、私陸上部だし、ちょうど朝練代わりになってちょうどいいのよ」
多武峰家は、表向きは西条市有数の資産家の一族として知られている。本来であれば、咲夜は、運転手付きの車を自在に乗り回せる令嬢であった。しかし、多武峰家内で、飛鳥が置かれている微妙な立場を考えると、昨夜にその選択肢はなかった。飛鳥のことを快く思わない族の者も多く、咲夜が飛鳥とあからさまに懇意にすることはできないのだ。彼らが直接咲夜に不満を漏らすことはなくとも、その矛先が飛鳥に向かない保証はどこにもないのである。
「ねえ、兄さん、その……昨日のことなのだけど、東城さんが、多武峰家を裏切っていって話……、本当なのかな?信じられないよ、あの東城さんが……」
「少なくとも、多武峰家当主、多武峰道元はそう判断した。それだけだよ。それだけで充分なんだよ。多武峰家の人間にとっては、当主道元の命令は絶対だ。誰も、命令に逆らうことなんでできないんだよ……」
咲夜は話しながら、飛鳥の手が細かく震えていることに気づいた。
「義兄さん、私から当主様にお願いしようか。もう、義兄さんは限界だよ。今日だってあんなにうなされて……いつまでもこんなことを続けていたら、兄さんの心が壊れちゃうよ」
飛鳥は、しばらく何も言わず、いつもと同じ寂しげな笑みを浮かべていた。そして、朝食を食べ終わると言う。
「ごはん、美味しかったよ。さあ、そろそろ行かないと遅刻するよ。この時間に出れば、……途中まで送っていってあげるよ」
「飛鳥にいちゃん、咲夜ねえちゃん?」
飛鳥と咲夜はマンションの階段を降り終わったところで、10歳ぐらいの少年に出くわした。偶然ではない。少年は、二人が出てくるのをずっと待っていたようだ。無論、飛鳥も咲夜も、この少年のことをよく知っていた。
「悠斗くん……」
咲夜は戸惑ったような声でつぶやいた。その少年の名前は、東城悠斗と言った。多武峰家に連なる東城家の少年で、飛鳥も昨夜もよく遊び相手になっていた。そして、昨日まで多武峰家筆頭家令であった東城毅の一人息子でもあった。
「ねえ、にいちゃんが父さんを殺したって嘘だよね?変なんだ。母さん変なことばっかり言うんだ。父さんがにいちゃんに殺されって、ずっとそればかり言っていているんだ。そんなわけないにさ、ねえ、にいちゃんもそう思うだろ……」
悠斗は、飛鳥のシャツの裾を掴んで、そこに顔を埋めた。
「……」
飛鳥は何も答えない。瞬き一つせず、身動き一つせず、己に課せられた罰をただ静かに受け入れることを決めたようだった。そんな彼を庇うように、咲夜が諭すような口調で言う。
「違うの、違うのよ、悠斗くん!お願いだから、落ち着いて聞いてね。仕方なかったのよ。仕方ないことだったのよ。いい、飛鳥義兄さんはね、多武峰家の皆のことを守るために……」
飛鳥に口を塞がれ、咲夜は最期まで言い終わることができなかった。
「いいんだ、咲夜。ごめん、これは全部俺の責任だ。俺だけの責任だ。悠斗くん……そのとおりなんだ。全部、君のお母さんの言うとおりなんだ。君のお父さんを、東城毅を殺したのは、この俺だ。君のお父さんは、日本魔術師協会に多武峰家の情報を流していた裏切り者だった。だから、死ななくてはならなかった。そして、俺が……殺したんだ」
「嘘だ、嘘だ、嘘だ!飛鳥にいちゃんは、僕にいっぱい魔術を教えてくれたよね。コップに入った水を凍らせる魔術とか、つむじ風を起こす魔術とか、地面に大きな穴を開ける魔術とか、いっぱいいっぱい教えてくれたよね!……ねえ、にいちゃん覚えている?蝋燭の炎を灯す魔術で遊んでいて、飼い犬のベッグを怪我させたとき、兄ちゃん、すごく怒ったよね?『魔術は正しいことのために使いなさい』って。にいちゃん言ったよね?ねえ、教えてよ。父さんはちょっと怒りっぽいところあったし、服を脱ぎ散らかして母さんを困らせていたけど、とても優しかったよ?休みの日には、いつも釣りに連れて行ってくれたよ。ねえ、僕の父さんを殺すことが、にいちゃんの言う正しいことだって言うの?ねえ、にいちゃん、なんで……どうしてだよ……」
悠斗はどこか縋るような目で飛鳥を見つめていた。幼いながらも賢い悠斗は理性の部分では飛鳥が父の仇であることをよく分かっていた。けれども、感情が、その事実を受け入れることを拒絶していた。悠斗は否定を欲していた。自分の言葉を否定してほしかったのだ。飛鳥にただ一言『違う』と嘘でもいいから言ってほしかったのだ。10歳の少年にとって、たとえ父の仇であったとしても、仲が良く兄同然に慕っていた人間を憎むことが簡単にできるわけもなかった。
ゆえに、飛鳥は決心した。呪文を詠唱して、槍の形をした巨大な炎の槍を出現させた。黒みを帯びた炎は、まるで生き物のように、変幻自在に揺らめいていた。
「炎属性第4位階魔術、獄炎の尖槍。……これが君のお父さんの命を奪った魔術だ。俺が、この炎槍で心臓を貫いて、君のお父さんを殺したんだ。……君のお父さん、東城毅さんのことは、俺も嫌いじゃなかったよ。今だっていい人だったと思っているよ……」
「それなら、なんで……?」
飛鳥は、唇を強く噛み、握りこぶしを固くした。そして、その問いに答えた。
「君のお父さんが死ななくちゃならなかったのは、裏切ったからなんかじゃない。それは、君のお父さんが弱かったからなんだよ。弱かったから、君のお父さんは、この炎槍で貫かれて死んだ。もしも、君のお父さんが、俺よりも強かったら、死ななくて済んだ。死ぬ必要なんてなかった。もし、強かったなら、俺よりも強かったなら、誰も悲しませずに済んだんだ……」
飛鳥は、なおも、自分に縋りついている悠斗の手を冷たく振り払う。そして、まるで捨てられた子犬のような表情を浮かべた彼に向かって炎槍を突きつけた。
「……にいちゃん?」
その目はまだ僅かな期待を浮かべていた。だから、飛鳥は魔王のように冷酷にならなくてはならなかった。
「もういい加減分かれよ!俺が君のお父さんを殺したんだ!……まだこれ以上何か言うなら、今すぐ、東城さんと同じところに送ってやる!」
「え、ひ、は、うわああああああああああああああああああああああああ」
泣き叫びながら走り去る悠斗の中から、飛鳥への親しみも尊敬も全て消え去ったことを飛鳥は祈っていた。唇を強く噛み、握りこぶしを震わせながら、祈っていた。
そして、飛鳥は努めて明るい声色で、義妹に告げる。
「……それじゃ、行こうか。……早くしないと、遅刻しちゃうよ、咲夜……」
バチーン。と鋭い音が響いた。
「え?……咲夜?」
少し遅れて飛鳥の頬に痛みと衝撃が走った。
「……なんで、なんでよ!どうして、悠斗くんにあんなことを言ったのよ!あの子は、まだ10歳なのに……お父さんを失ってすごく傷ついて悲しんでいたのよ。それに、あの子は、すごく飛鳥義兄さんのこととても尊敬していたのよ。この間だって『今度、にいちゃんの誕生日に何か買ってあげるんだ、ナイショだよ』って私に話してくれたのよ。それなのに……どうして、あんな突き放すようなことを言うのよ!どうして……悠斗くんを慰めてあげないのよ!」
「もしかして、咲夜ちゃん、……怒っている?」
戸惑いながら尋ねる飛鳥と、嗚咽をこぼしながら叫ぶ咲夜。二人の兄妹は、対称的で、そして、隔たっていた。
「当たり前でしょ!……兄さんは、もっと自分のことを大切にしてよ。なんでそんなに自分を追い詰めるようなことばかり言うのよ!?何で一人で抱え込むのよ!?『命令されたから』『仕方なかったから』『本当は嫌だった』とか、どうして言い訳しないのよ!?兄さんだって、本当は、東城さんを殺したくなんてなかったんでしょ?だから、今朝もうなされていたんでしょ?……ねえ、何とか言ってよ。ちゃんと言い訳してよ。ちゃんと自分のことを守ってよ。飛鳥義兄さんは、私にとって、……一人しかいないお兄ちゃんなんだよ。……義兄さんがいなくなったって、悲しむ人がいるぐらいちゃんと分かってよ……。ごめんなさい、私は、先に行きます……」
飛鳥は、泣きはらした義妹が、そのまま走り去っていくのをただ眺めていた。そして、その背中に向かって、絶対に聞こえない答えを返す。
「悠斗くんは、かけがいのない大切な人を、亡くした。いや、奪われたんだ。奪ったのは、俺だ。全ては俺のせいだ。だから、悠斗くんには必要なんだ。明確で形があって、心の底から……憎むことができる相手が。絶対に許せない相手が。……俺にはもう悠斗くんに優しくする権利も慰めてやる権利はないんだ。俺には、もう悠斗くんの憎しみを引き受けてやることしかできないんだよ……」
憎しみは何も生まないという使い古されたフレーズがある。それは確かに一つの真理かもしれない。けれども、自分の大事な人を奪われたとき、その相手を笑顔で許せるだろうか。憎しみを忘れて手を取り合うことができるだろうか。飛鳥は思う。憎悪も憎しみも悲しみも人が人として生きるうえで、当然に生じる感情なのだ。それを押し殺して笑顔を浮かべて生きることが果たして健全と言えるだろうか。
だから、飛鳥は、殺めた全ての人間の怨念を、残された全ての人間の憎しみを背負って生きていくと決めた。それがせめてもの罪滅ぼしであると信じて。
「いや、少し違うか」
飛鳥は加えて独白する。
たとえ、悠斗くんに、あるいは俺を憎む誰かに許されたとしても、俺は自分で自分を許すことができるだろうか。全部自分の意志じゃなかった、命令されたから、仕方なかった、と自分を納得させることができるだろうか。今までのことをすべて忘れて生きていけるだろうか。明るい世界で生きていけるだろうか。答えはきっとわかりきっている。
「俺は絶対に自分を許せない」
悠斗も咲夜も、二人とも飛鳥のことを想って余計に傷ついた。
ゆえに、飛鳥はこう思わずにはいられない。
「俺なんかにそんな価値はない」と。




