再会
5月12日 早朝
西条市立国分寺高校
その日の朝は、3年E組のクラス中が、お祭りの前のようなどこか浮ついた雰囲気に包まれていた。クラスメイトは誰も彼もがとある噂話でもちきりだった。その噂話というのは、このクラスに、海外からの女子の転校生が来るというものであった。
「なあ、お前はどんな子が来ると思う?」
「こんな田舎町に海外からの転校生だろ。そりゃきまっているって、何かワケありの儚げな深窓の令嬢だってきっと!それで、俺とその子は運命の恋に落ちて……」
「って、あんたキモすぎ。アニメの見過ぎじゃないの」
「でも、隣のクラスの飯島くんが、職員室でその子を見たらしいけど、ちょっと信じられないぐらいの美人さんだったそうよ」
早朝のクラス中のざわめきを尻目に、飛鳥は、英語の単語帳を鬼気迫る表情で眺めていた。今日は一限目から、英語の小テストがあるのだ。昨日の夜も、特殊な仕事をしていた飛鳥にとっては、朝のこの時間は勉強に充てるべき貴重な時間であったのだ。
「なあ、如月は、転校生はどんな子だと思う?」
前の席の岡林が話しかけてきた。飛鳥は、単語帳を眺めながら答える。
「さあな。今は、英単語以外のことを考えたくないよ」
事実、転校生に関しては、心底興味がなかった。
「相変わらず、そういうとこ冷めているよな、お前は」
呆れた顔の岡林に、飛鳥は、淡々と返す。
「うっせ。ほっとけ」
予鈴がなって、担任の岸田教諭がE組にやってきた。特徴といえば、40代にして頭髪の後退が著しいことと、説教を始めると長くなりがちという、どこにでもよくいるような教師だ。
「時間だぞ、お前ら、早く席につけ。……倉島、またギリギリか。明日もこの時間だったら、遅刻をつけるぞ。……さて、朝のHRを始める前に、重要な連絡事項がある。って、おい、これだけ静かだと逆に気持ち悪いな」
いつもならば、岸田教諭が何を話していても私語が絶えないE組だが、この日の朝のHRだけは、クラッシクのコンサート会場並の静粛さであった。緊張感のあまり息を呑む生徒までいるほどだ。岸田教諭は苦笑いを浮かべながら、続ける。
「ええ、耳の速いものは聞いているかもしれないが、本日、このクラスに転校生がやってくる。……よし、それじゃ、入ってきなさい」
E組の教室のドアが開き、件の転校生が姿を見せた。
「う、嘘、すげえ綺麗。本当に同じ人間か……?」
「妖精みたいだ。信じられねえ」
「芸能人みたい……ううん、その辺の女優なんかより全然綺麗だわ」
E組のクラスメイトたちが感嘆の声を漏らす。一流の絵画や彫刻を目撃したかのような、そんな驚きの坩堝の中に彼らはいた。
そして、飛鳥もまた、彼らとはまったく違う意味で、その転校生から目を離せずにいた。銀色の髪に紅の瞳、そして、病的なまでに白い肌に、悪魔的なまでに整った美貌。神に愛されたと言っても過言ではないその容姿はあまりに人間離れして、美しかった。しかし、彼女の美しさ以上に、飛鳥は驚きを禁じえなかった。彼女のその姿は、ある女の子が大きくなったらこうなるんじゃないかと彼が思っていた姿そのままであったからだ。
「お前ら落ち着け!転校生が驚いているだろ!静かにしなさい!よし、それじゃ、自己紹介を……」
「シ、シルヴィ……!?」
それは、本当にささいな声だった。ちょうどそう、心の声がふとした弾みにでてしまったような、そんなものだった。飛鳥のその呟きは、この騒乱状態の中では、誰にも聞きとがめられることがないはずだった。しかし、彼女だけは例外であった。たとえ、ここが砲弾の飛び交う戦場であって、飛鳥の発した声が針を落とした音よりも小さくとも、絶対に彼女には伝わったことだろう。
転校生の少女は、信じられないという驚きの表情を浮かべ、自分自身を疑うように頬を抓り、そして、涙とともに顔を歪ませ、飛鳥の元へと叫びながら駆け寄った。
「……!?飛鳥、飛鳥、飛鳥!!!」
そして、国分寺高校への転校生―シルヴィア―は、飛鳥に抱きつく。涙を流しながら、彼女は、彼の身体を強く抱きしめる。
「飛鳥、飛鳥!夢じゃないわよね?まだ、信じられないわ。……本当に、ずっと会いたかったわよ、ずっとずっと会いたかったわよ、飛鳥!」
信じられない気持ちでいるのは、飛鳥も同じであった。
「シルヴィ、シルヴィなのか……本当に、シルヴィなのか……?まるで夢でも見ているみたいだ。……って、おい、痛いな」
「嘘じゃないわよ。私はここにいるわよ」
悪戯げな笑みを浮かべながら、シルヴィアは飛鳥の頬を優しく抓っていた。飛鳥は苦笑しつつも尋ねる。
「シルヴィ、今だけでいいから、君の身体を抱きしめてもいいか?」
「ええ、もちろんよ!」
飛鳥は、シルヴィアの身体を優しく抱きしめ返した。とても大切で壊れそうな宝物を取り扱うように。そして、彼女の存在を自分の身体に刻みつけて二度と忘れないように。
「ずっと、こうしたかった」
「うん、私も。飛鳥の心臓の音が聞こえるわ。すごくドキドキしているのが分かるわ」
「シルヴィだって」
そのまま、二人は目を閉じてお互いの唇を近づける。それはすごく自然なことであった。場所と時間さえ選べば。
「ええ、コホン!」
大げさな咳払いが入る。岸田教諭は、苦虫を噛み潰したような表情をしていた。E組のクラスメイトたちの反応は、顔を赤くして目を逸らすか、反対に目を輝かせたりして飛鳥と二人を注視するかのどちらかであった。
ここにきて、飛鳥は我にかえって、シルヴィアに告げる。
「と、とりあえず、離れようか。ここ教室だし」
飛鳥は、シルヴィアを抱きしめていた腕をほどいた。しかし、シルヴィアは、飛鳥のシャツの裾を掴んだまま決して離そうとしなかった。そして、上目遣いで飛鳥の顔を覗き込んでいた。その目には、言うまでもなく「離れたくない」と書いてあった。強烈なその誘惑に抗って、飛鳥は言う。
「……シルヴィ?でも、ここは学校だし、ええっと、流石にこれ以上は」
「いやよ!もういいわ、飛鳥のわからず屋!」
「って、う……うん」
飛鳥の唇に柔らかい衝撃が走った。すぐ目の前にはシルヴィアの顔がある。肌の白さとか髪のいい匂いとか、整った睫毛とか……。そういったことを意識した途端、どうしようもなく恥ずかしくなってしまい、飛鳥も目を閉じる。岸田教諭の叱責する声と、クラスメイト(主に女子)の黄色い悲鳴などが聞こえるが、そんなものは、もうどうでもよくなった。今、この瞬間、この世界には、自分とシルヴィしかいない、飛鳥はそう思うことにした。そして、彼らは、お互いの存在を確かめ合った。
その日の終わりをむかえる頃には、飛鳥はかつてないほどの疲労感を感じていた。あまりにもいろんなことが今日一日に起こり過ぎたからだ。言うまでもなく、その原因は、ただ一人、この街にやってきた転校生にして幼馴染のシルヴィア・フォン・ヴァイサリアスであった。
飛鳥は今朝以降に起こった出来事を順に思い返してみる。
まず、シルヴィアの座る席を決める時点でひと悶着あった。シルヴィアは、「飛鳥の隣の席じゃないと嫌!」の一点張りであった。お人好しの英語教師は、海の向こうからの転校生をなだめるのに、授業時間の大半を費やした。おかげで、小テストは来週に延期にはなった。ちなみに、座席問題は、飛鳥の隣席の斉藤さんが見かねて、シルヴィアに席を譲って解決した。斉藤さんには申し訳ないことをしたな、と飛鳥は思った。
次に、飛鳥の精神を大きく削る出来事が起こったのは、昼休みだった。シルヴィアは、当然とばかりに、飛鳥の分の手作り弁当を用意していた。シルヴィアは、お昼前の授業2コマを途中で抜け出して、わざわざ用意してきたというのだ。弁当の中身は、子どもの頃に飛鳥が好きだったおかずでいっぱいだった。そこまでは感動的なエピソードと言えるだろう。問題は、おかずを一口ずつ、あーん、と食べさせられたことにあった。完全にバカップルのそれだったのだ。結局、クラス中が、まるで珍獣の餌やりを見るように注目するものだから、飛鳥はどうしようもなくいたたまれなくなった。
そして、極めつけの出来事が起こったのは、午後の体育のときだった。今日の体育は、体育大会の演目にもなっているフォークダンスの練習であった。言うまでもないことだが、フォークダンスは、男子と女子が順々にペアを組んで踊っていくものだ。「えっと、ヴァイサリアスさん。ペア交代なんですが……」体育の岡村教諭がいくら指摘しても、シルヴィアは聞く耳を持たなかった。他の男子の手なんか触れたくもないと言わんばかりに、飛鳥の手を握って離さなかった。結局、岡村教諭は諦めて、飛鳥とシルヴィアのペアを飛ばして、フォークダンスを続けるように指示したのだ。シルヴィアは、長年の夢が叶ったときのような至福の表情を浮かべていた。そして、彼女とは反対に、飛鳥は、周りの視線(女子からの羨望と男子からの嫉妬がそれぞれ込められた)を絶えず感じて胃痛にでもなるかと思った。
さて、今、飛鳥をどうしようもなく振り回している、正しくは、振り回し続けている少女は、彼の目の前にいた。
「飛鳥が私を屋上に連れ込むなんて、愛の告白かしら?それともプロポーズ?……もしかして、人目のつかないここで、押し倒されて、欲望のままに貴方に蹂躙されちゃうのかしら?私、できたら、初めては優しくして……」
身をよじらしながらそう言うシルヴィアに対して、飛鳥はほんのわずかに笑みを浮かべるばかりだ。飛鳥は、とある覚悟の下、彼女に告げる。
「君にもう一度会えて本当によかった。この7年間、俺は、あの日の約束だけを思って生きてきた。あの日の約束があったから、俺は今日まで生きてこられた!……だから」
「ええ、それは私もよ。あの約束を果たすために、すごく頑張ったわ。一度は滅ぼされたヴァイサリアス家を再興して、私はついには選帝侯にまで選ばれたわ。吸血鬼の王たる『闇の帝王』、その直臣にして、後継者候補にまで、私は上り詰めたわ。今の私は、吸血鬼最強の一角を占めているわ。もう、あの頃の私とは違うわ。もう、誰にも、私と貴方の関係を邪魔立てなんかさせないわ!……だから」
不意に、春の突風が、飛鳥とシルヴィアの間を吹き抜けた。
「だから……今すぐ、この街、西条市から立ち去るんだ、早く!今すぐに!」
飛鳥は続ける。
「じきに、多武峰家の人間が、間違いなく、当主道元は、君の存在に気づく。そうなってからじゃ、手遅れになってしまう。奴らに見つかる前に、早くこの街、いや、この国から出て行くんだ!そして、もう……」
「いやよ!絶対に嫌!そんなことできるわけないじゃない!私は、ずっと貴方の傍にいるって決めているわ。もう何があっても貴方の傍を離れないって決めたわ!だから!」
飛鳥に向かってシルヴィアの手が差し伸べられる。白くて華奢なそれは、彼にとって誰よりも愛しい少女の手であった。だから、飛鳥は、自らの感情を押し殺すように握り拳を作った。
「……もう、俺に君の傍にいる資格なんてないから」
逃げまとう人たちを生きたまま焼き殺した。彼らの断末魔は未だに耳の奥にこびりついており離れない。妻子がいるからと泣き叫ぶ男の命を奪った。その妻の憎悪に満ちた顔は瞼の裏に焼きついて、決して消えようとはしない。仲間を庇った老人を捕まえて情報を吐くまで拷問にかけて殺した。その老人の死体は人間の形をしていなかった。飛鳥は、多武峰家が敵と断じた者を殺し続けた。老若男女問わず、ただ殺し続けた。彼の手はあまりに多くの血に汚れ、彼の身はあまりに多くの憎しみを受けていた。だから、飛鳥は、彼女の手を取ることはできなかった。
「違うわ。間違っているわ。飛鳥!私の傍にいる資格は、貴方じゃないわ。それを決めるのは、私だわ!私は、貴方を私のものにするってもう決めているわ。……私たち吸血鬼は、欲しいものは全て手に入れるわ。どんな手段を使ってでも、それこそ、たとえ、この世界の全てを敵に回してでも……」
吸血鬼特有彼女の紅の瞳に光が宿る。生態系の頂上に立つ人間すら食糧としてしまう吸血鬼の彼女は、ゆえに宣言する。
「だから、諦めて私のものになりなさい。飛鳥!」
あまりに自信満々で得意げなその顔を見て、飛鳥は、思わず吹き出してしまった。
「な、何がおかしいのよ!」
「いや、ごめん。笑うつもりはなかったんだけど……。そういや、君は、昔からそうだったなと思って。欲しいものは何でも手に入れようとしていたよね。俺が持っていったおやつのシュークリームだって、2つあるのに、2つとも君が食べちゃったし」
「あ、あれは……」
「あれは?」
「……ばか、私が欲しかったものは、貴方がくれるものだけだったのに」
シルヴィアは瞳の色よりも顔を紅くした。
「今なんか言った?」
「何でもないわよ!飛鳥のバカ!……いいから、私のものになりなさい!私は、吸血鬼の貴族の中の貴族、七選帝侯の一人よ。一生貴方を養ってあげるわ。おやつのシュークリームだって食べ放題よ!……私はただ、貴方さえ傍にいてくれたらそれでいいの!」
再びシルヴィアの手が差し伸べられる。しかし、飛鳥は寂しげな笑みを浮かべたまま、やはりその手を取ることはできなかった。
「俺の答えは変わらない、シルヴィ。今の俺は君の傍にいることなんてできない。今日、君にまた会えて、あの日の約束が叶って本当によかったよ。本当の夢でも見ているようなぐらいに、今日は幸せだった。そして、こんな幸せは俺には過ぎたものだ。さあ、早くこの街から出て行くんだ、頼む、頼むから!……そして、もう」
飛鳥は、屋上の手すりを強く締め、シルヴィアに告げる。その手は小刻みに震えていた。シルヴィアは、目線を逸らして言う。
「分かったわ。今日のところは、説得は諦めるわ。でも、私は絶対に諦めないわ!何があっても、貴方を私のものにしてみせるから!」
シルヴィアは立ち去った。
「ああ、シルヴィは変わらないな……」
彼一人になった屋上で、飛鳥は独り呟く。
「なのに、俺は、俺は、俺は!!!」
飛鳥は、屋上の手すりを何度も叩いた。数回ほどで手は赤くなり、痛みと熱を持ち始めた。痛覚が、彼の昂ぶった感情を強制的に冷めさせる。醜い自傷行為だな、と飛鳥は思う。
「『そして、もう』……二度と俺の前に姿を見せないでくれ……か、ちくしょう!」
たとえ嘘であってもそんなことを二度も言いかけた自分に対して、飛鳥は軽蔑を覚えた。そんなことを言わなくてはならない自分のことがもっと嫌いになった。そして、そんな資格も価値もあるはずないのに、それでも彼女の隣にいたいと一瞬でも思った自分のことを許せなかった。
プルプルプル、と携帯の着信音が鳴った。飛鳥は着信画面を見て、反射的に通話ボタンを押してしまう。それが拒否できない相手からのものだったからである。
「仕事の時間だ、『紅蓮の死神』よ。今夜の仕事は裏切り者の抹殺だ。失敗は許されない。心してかかれ」
電話の主は、それだけを告げるとすぐに切れた。電話が終わった後、もうすでに葛藤を抱えている高校生如月飛鳥の姿はなく、代わりにいたのは、あらゆる感情を押し殺した多武峰家の魔術師殺し『紅蓮の死神』であった。




