プロローグ2
5月11日 夜半
某国際空港
「戻ってきたわよ、飛鳥!ずっと、ずっと貴方に会いたかったわ。さあ、これから、貴方を迎えに行くわね」
少女は、そう呟きながら、飛行機のタラップを降りて、7年ぶりに極東の島国、日本に足を踏み入れた。彼女は、身の丈に合わないほど大きな黒いキャリーバックを引きずり、夜半にも関わらずサングラスをかけている。時差ボケによる眠気と戦うように、時折欠伸を噛み殺している。それもそのはずだ。少女の搭乗した飛行機は、中欧の内陸国チェコ共和国から、この極東の島国まで約12時間に及ぶフライト終えたところだった。しかし、少女は、疲労感はまったく見せず、上機嫌に鼻歌まで口ずさんでいる。
「お疲れのところ、失礼いたします。貴方は、シルヴィア・フォン・ヴァイサリアス様でいらっしゃいますね?」
突如現れた数人の男たちが、彼女―シルヴィア―を取り囲んだ。全員空港職員のIDカードをつけているが、警棒で武装しており、物々しい雰囲気を漂わせている。シルヴィアと同じ便だった他の乗客たちは、にわかに生じた異常事態に、彼女と彼らから距離をとり始めた。
シルヴィアは財布から自身のパスポートを取り出すと、無言のまま男たちに見せつける。
そこに書いてあった名前を、男たちは読み上げた。
「マリーナ・コボルフスキー……楠課長、この女性は、例の情報にあった件とは無関係のようでありますが……」
橘課長と呼ばれた眼鏡をかけた神経質そうな男は、かぶりを振る。
「いいや、よく見るんだ。……このパスポートは、偽造されたものの可能性が高い。……失礼ですが、我々と一緒に来ていただけますかな?」
シルヴィアはやはり無言のままだ。業を煮やした男たちは、強引にシルヴィアを連れて行こうと、彼女の手に触れようとした。
「この私に気安く触れるな!」
シルヴィアの鋭い叱責の声。
「か、身体が、動かない……!?」
「く、楠課長、これは……!?」
その声は、肉食獣の咆哮のような威力を発揮した。すなわち、男たちは、まるで蛇に睨まれた蛙のように動けなくなったのだ。シルヴィアは、唯一、金縛り状態になっていない、男たちのボス、楠に告げる。
「さてと、確か、楠と言ったかしら。見たところ、お前がボスよね?私は、見え透いた嘘や芝居は大嫌いなの。だから、素直に教えてくれたら、あなたたちのことは見逃してあげるわ。……それで、お前たちは、誰の手のうちの者かしら?日本魔術師協会?それとも教皇庁退魔局かしら?あるいは、私に嫌がらせをしたい他の選帝侯という線もあるわね。……ああ、でも考えたら、やっぱりどうでもいいわ。お前たちがどこの誰かなんて。私の邪魔さえしなければそれでいいわ。もし、私の邪魔をするなら……」
シルヴィアは、至って穏やかな淑女なような声色で続ける。
「……殺すわ」
もし、津波や火砕流に声があるとすれば、それらは、きっとシルヴィアのような声を出すことだろう。殺意など微塵もない。ただ、邪魔だから積み潰す。それ以上でもそれ以下でもない。
原初的な恐怖を感じつつも、額の汗をハンカチで拭いながら楠は答える。踏み潰されないように精一杯の愛想笑いを顔に貼り付けつつ。
「これはこれは、ヴァイサリアス閣下には全てお見通してでございましたか。いやはや、これは大変な失礼をいたしました。私どもはこういうものです」
楠は自身の名刺を差し出した。シルヴィアは一読すると、興味なさげにそれをビリビリに引き裂く。楠の名刺は、空港の床に散らばる紙くずになった。しかし、何事もなかったかのように話を続ける。
「私どもは、日本魔術師協会の対外戦略局第一課の者になります。私ども対外戦略局は、主に、この国に入国される吸血鬼を始めとする知性ある魔法生物の調査と管理を担当しております。さしずめ、魔法生物に関する入国管理業務を行っていると思っていただければと思います」
この時代、魔法生物の存在は、一般人には隠匿されている。各国の魔術師協会が、人間社会に害をなさないようにそれらの管理を行っているのだ。
「それで、それがどうしたのかしら?」
「閣下ももちろんご存知のことだと思いますが、人間種と吸血鬼種の権利と共存に関する協定、ええ、通称プラハ協定というのがございます。プラハ協定第23条第2項にこのような規定がございます。曰く、『伯爵、侯爵、公爵、そして、選帝侯の爵位を持つ吸血鬼が人間種の定めた国境を超えて移動する際には、当該国家を管轄する魔術師協会の許可を必要とする』と」
シルヴィアは、楠の話を聞きながらも、何度か欠伸をし、瞬きを繰り返した。もちろん彼女は、自身が瞬きをする度に、楠という人間が心臓が止まりそうなほどの緊張を感じていることなど知りもしない。とはいえ、楠とにはある確信があった。すなわち、今、彼の目の前にいる。最高位の吸血鬼の気が変われば、自分たちなど、瞬きする間もなく殺されてしまうのだ。実際、数世紀前にはなるが、とある公爵位の吸血鬼が、レストランの味付けが気に入らなかったという理由で、一つの町を滅ぼしたという事件も起こっているのだ。
「つまり、お前たちは、私が許可を得ずに、この国に入ろうとしていることを咎めているわけなのね?そういうことなのね。お前たちの言いたいことは分かったわ。私だって、職務に忠実な人間は嫌いじゃないわ」
楠はほっと一息をつく。自身の首に絡まった絞首刑のロープが緩んだのだ。無理もなかった。しかし、シルヴィアは目を細めて淡々と告げる。
「……けれども、私は、入国許可の申請書を3ヶ月以上も前に出しているわ。にも関わらず、まだ許可が出ていないわ。これ以上待つことに何の意味も感じないので、この国に来ることにしたわ。分かったかしら?分かったなら、そこをどきなさい!私には、やらなくちゃならないことがあるの!」
「ヴァイサリアス閣下、……大変申し上げにくいことですが、その閣下の入国の是非にあたっては、当協会の長老たちの間でも意見が分かれておりまして。……それで、まだ、結論が出て……」
言い終える前に、楠の膝は彼自分の意志とは関係なく震えだした。橘とて、日本魔術師協会対外戦略局の課長として、多くの死線をくぐり抜けてきたベテランの魔術師だ。その証拠に、彼の部下たちが全員金縛りにあっている中でも、橘だけは免れていた。しかし、今、その橘すら圧倒位的なまでの殺気に対して、彼の意志とは裏腹に身体が震え始めていた。
「そう、それなら話は簡単ね。私がこの国に入ることに反対しているという長老たちのところに案内してもらえるかしら?私が、そいつらを皆殺しにすれば、誰も私の入国に反対しなくなるわ。そうすれば全て丸く収まるわね」
そうすることがベストな答えだと言わんばかりの口調でシルヴィアは告げた。楠は、このとき改めて最高位吸血鬼の恐ろしさというものを実感した。彼らは、圧倒的な力を持っているが、それが彼らの真の恐ろしさではない。真に恐ろしいのは、人間の命を奪うことを何とも思わない、絶対的な強者としての価値観である。ちょうど、それは、アリの行列を踏み潰すことを躊躇して、道を変える象がいないようなものだ。
「……お、お待ちください!何もそのようなことをなさらなくても、よい方法がございます。長老たちにとって、閣下が有益な方だと分かっていただければ、それでよいのです。そうすれば、反対派の長老たちも何も言い返せなくなるでしょう」
シルヴィアの視線はまた鋭くなる。
「つまりこういうことね。お前たちは、自分たちの怠慢を脇に置いておいて、その上で、私に何かを要求しようとしているわけね。ええ、そうね。端的に言うと、とても不愉快だわ」
楠は慌てて弁明する。もっともそれは、虎の尾ならぬ吸血鬼の牙に触れるような愚行であった。
「……せ、僭越ながら、ヴァイサリアス閣下は、西条市に向かわれる予定だと聞いております。そ、その閣下が7年前に、あの忌々しい多武峰の……げほげほ、やめてください、し、死んでしまいます」
シルヴィアは殺意に満ちた表情を浮かべ、楠の首を片手で掴み上げると、いとも軽々とその身体を持ち上げた。そして、楠を懇願を聞き入れたのか、首を掴む手を離した。
「次に、私の気に障ることを言ったら。『殺してくれ』と懇願するまで痛めつけてから殺してあげるわ。……うん、なにかしら、これは?」
楠の胸ポケットに入っていた写真が一枚落ちる。シルヴィアは、好奇心からそれを拾う。写っていたのは、黒猫の仮面を被った少年だ。遠距離から撮影されたものらしく、写っているのが誰かを識別することはできない。
楠が呼吸を落ち着かせつつ言う。
「そ、そいつこそは、あの忌々しい多武峰家の用心棒、『紅蓮の死神』の異名を持つ凄腕の魔術師殺しです。7年前にこの少年が現れて以来、我々、日本魔術師協会はあまりに多くの仲間を失いました。信じられないことに、この少年は……」
シルヴィアの目に再び殺意と、そしていくばくかの興味の色が浮かぶ。
「へえ、多武峰家に連なる者ね」
「そ、そう、そうです。ぜひ、閣下には、この男を排除していただきたいのです。そうなさることが、かつて閣下が受けられた屈辱に対する、まさに華麗な復讐に……」
楠は最後まで言い切ることはできなかった。なぜならば、今度は、シルヴィアに殴り飛ばされたからだ。もっとも、シルヴィアにとっては、耳障りなハエを払う程度のつもりであったが。
「さっきも言ったはずよね。死にたくなければ言葉に気をつけなさいと。でも、まあ、いいわ。気が変わったわ。多武峰家に連なるものを、私は決して許しはしないわ。我が家門、そして、我が名にかけて誓うわ!『紅蓮の死神』などという魔術師殺しは、私が殺すわ!たとえ、神であってもこの決定を覆すことはできないわ。……さてと」
シルヴィアは、完全に伸びている楠の頬を叩いて目を覚まさせる。
「喜ぶといいわ、私が、『紅蓮の死神』を排除してあげるわ。でも、人にものを頼むからには、それ相応の便宜を図ってもらえるわよね」
楠に瞳に映るシルヴィアの顔は、ファウストに契約を持ちかける悪魔のそれに見えた。




