7年前の出来事;飛鳥とシルヴィア 中編
「シルヴィ、辛いと思うけど、走って!」
「うん、あすか!」
多武峰家の屋敷から逃げ出した二人は、市の郊外の森を目指して走っていた。
飛鳥が多武峰家を出た際には、頭上に輝いていた月も、にわかに広がってきた雲に隠れて見えなくなっていた。そのため、ただでさえ暗い夜の住宅街は、月と星という明かりを失い、一層暗くなっていた。それは、逃亡者である二人にとっては救いだった。飛鳥の方はともかく、シルヴィアは、明らかに異国の顔立ちに加え、ボロボロの服を着て、しかも、足首には鉄の鎖の残りがくっついている。警察官でなくとも、人目につけば、トラブルに巻き込まれることは間違いなかった。
住宅街のハズレから、林の中の林道へ入った。夜の林道は、住宅街の比にならないほどに暗く、前も見えない。
「『妖精の火』よ!」
飛鳥は、幾度となく、シルヴィアと自分を照らした明かりを出現させた。
「……シルヴィ、この道をずっと行って森を抜けた先が、隣町なんだ。そこまで行けば……」
「うん、そうだね。私、頑張るよ……」
シルヴィアの足は傷だらけだった。足の指の先からは、鋭い石で切ったのか、血が滲んでいた。飛鳥は気づけなかった。素足の彼女が、走り続けることがどれほど辛いことか。そして、飛鳥に心配かけまいと、シルヴィアがどれほど我慢していたか。
「ごめん、シルヴィ。全然、気付けなくて……」
「ううん、私は大丈夫だから……あれ、冷たい?」
「まさか!?」
いつも間にか、重く垂れこめた雲から、白い雪が降り注いでいた。まだ秋の終わり11月だった。だというのに、今年の初雪が今まさに降り始めていた。
「急ごう、シルヴィ……ごめん!」
飛鳥は、シルヴィアの背中と足に手をやって彼女の身体を持ち上げた。二人の顔が至近距離で見つめ合う。吐息がかかりそうな距離だ。いわゆるお姫様抱っこ状態だ。
「さ、さあ、急ぐよ」
飛鳥は顔を真っ赤にして走り出す。シルヴィアもまた、彼の顔を直視できず、うつむいた。
妖精の火のかすかな明かりをたよりに、飛鳥は、シルヴィアを抱えたまま走り続けた。粉雪程度であった雪も、徐々に勢いを増し、もはや吹雪と言っても過言ではないぐらいに吹き荒れていた。視界はほとんどなくなり、何度か石や木の枝に足を取られてこけそうになった。ボロ切れを纏ったシルヴィアの身体の震えは止まらず、飛鳥も、すでに体力の限界に達していた。
「ねえ、あすか。あそこに小屋があるみたい……」
「ああ、そうだね。ちょっと休んでいこうか、シルヴィ」
林道の外れに、物置のような小さな木造の小屋があった。二人は、猛吹雪から逃れるように、その中へ転がりこんだ。小屋の中は少し埃っぽかったが、意外と頑丈に作られているようで、風が少し吹いてもびくともしない。
クシュン、と飛鳥がくしゃみをした。
「大丈夫、あすか?」
シルヴィアが、熱を図るために、飛鳥の額に触れる。ひんやりとした冷たい白い手の、しかし柔らかい感触に、飛鳥の心拍数が急上昇した。
「あすか、すごくあつい。まるで燃えているみたい……」
半分は雪の中を走ってきたせいだが、もう半分は、君のせいだと飛鳥は言いたくなった。
「……それよりも、火を起こそう。シルヴィ、君の身体もだいぶ冷えているみたいだし」
今度は、シルヴィアの手がにわかに熱を帯びた。彼女もまた、自分が飛鳥の身体に触っていることを自覚したからであった。
飛鳥は、妖精の火で小さな炎を起こすと、小屋の中にあった薪に火を移した。即席焚き火の完成だ。ちなみに小屋の中には小さいながらも窓があり、酸欠の恐れはない。
「あすかだったら、ずっと魔術で火を起こし続けていられるのに、なんで薪を燃やすの?」
焚き火を眺めていると、飛鳥は不意にシルヴィアに尋ねられる。
「ああ、それはね……」
魔術師とそうでない人間、つまり魔術を使えない人間の最大の違いは、魔術の源、すなわち魔力の有無である。魔力保有者であることは、魔術師であることの最低条件である。わかりやすくいえば、スポーツ選手にとっての体力が魔力である。そして、魔力とは別に魔術適正という概念がある。これは、魔術との相性を示すもので、魔力を魔術に転換する効率のことだ。こちらは、喩えるならば、運動神経である。すなわち、本物のアスリートが体力と運動神経を兼ね備えているように、優れた魔術師とは、魔力と魔術適正を高い次元で有しているものである。この点、飛鳥は、『多武峰家の神童』と称されるとおり、その両方において非常に優れている。そして、どんな偉大なマラソン選手でも無限に走り続けることができないように、たとえ第7位階魔術師といえども、魔術を無尽蔵に行使し続けることはできないのだ。
飛鳥とシルヴィアは、定期的に、火に薪をくべながら、いろいろなことを話した。これまでのこと、今日のこと、そして、これからのこと……。
「西条市を出たら、シルヴィの故郷のチェコに行ってみたいな」
飛鳥の脳裏には、かつてシルヴィアが語ってくれた、情景が浮かんだ、風になびく広い草原や空を映し出す澄み切った湖、そしてその奥に見える高い山々。そんな場所に、二人で行けたなら、それはとても幸せなことだと、飛鳥は思う。
「うん、私もとても小さな頃だったから、あまり覚えていないけど、あすかに見せたい場所があるの。昔、お父様とお母様と一緒に行った……」
シルヴィアの眼に涙が浮かぶ。
「ごめん、そんなつもりじゃ……」
シルヴィアの過去に何があったかを、飛鳥は聞いていた。シルヴィアにとっては、故郷は父母との思い出の場所であるとともに、耐え難い別離の記憶にまつわる場所でもあった。
「そうだ、シルヴィ。何か願い事あるかな?……約束したじゃない、『何でも言うことを聞いてやる』って」
それを聞いて、シルヴィアは思い出した。それは、彼女が彼の血を吸うことをためらったときに、彼が持ち出した優しい取引。『後で何でも言うことを聞くから、今だけは、僕の言うことを聞いてほしい』。シルヴィアは、あのとき、彼の血を吸った後に、言おうとした言葉を思い出して赤面する。あのときは、初めて人間の血を吸って気持ちが高まり、あんなことを考えてしまったのだ。
「……」
「……ねえ、シルヴィ?何を言ってもいいんだよ。僕にできることなら、何だってするよ」
無邪気そうな顔の彼に対して、シルヴィアは顔を真っ赤にして言う。
「わ、私、あすかとキスをしたいわ!」
そして、シルヴィアは、飛鳥の顔を引き寄せると、その唇を強引に奪った。
「う、う……ううん」
飛鳥は少しだけ抵抗したが、吸血鬼の腕力には適わなかった。すぐに、飛鳥は、力を抜いて彼女に身体を委ねた。シルヴィアは、ただ、最愛の人間とつながっているということに幸福感に満たされた。




