7年前の出来事;side 飛鳥中編
秋が終わろうとする頃、シルヴィアの様子が少しずつおかしくなっていた。時折苦しそうに顔をして、息を荒くすることが続いた。僕が心配する度に、シルヴィアはこう答えた。
「……大丈夫。心配しなくていいから」
額に触れても、少し熱いだけで、病気というわけではなさそうだった。
紅葉の葉が散ってしまう頃には、シルヴィアは何かの衝動に抗うかのように、自分の身体を抱きしめることが多くなった。僕は、彼女にとりとめのないことを話しかけた。彼女の手を握って、日に日に冷えていく土蔵の底で、そうすることしかできなかった。何もできない自分が嫌でたまらなかった。つないで手の先の彼女に何もしてあげることができない、その事実は、たまらなく僕を打ちのめした。
「シルヴィ、今日のおやつは、シュークリームだよ」
多武峰家の大人に無理を言って、僕はシュークリームを用意してもらった。好物を食べたら、シルヴィアだって少しは楽になるかもしれない。いつものように、お皿に乗ったシュークリームを彼女に差し出した。
パリーン。
「っ痛い」
シルヴィアの払いのけるような手にあたって、皿が割れた。そのかけらで僕の指も切れて血が出てきた。僕の指から流れ出る赤い血が地面に落ちた瞬間、シルヴィアは僕に飛びかかってきた。
「……っシルヴィ?」
僕はシルヴィアによって地面に組み伏せられた。信じられないことに、シルヴィアは片手で僕の両手を一切動かせない強さで押さえ込んでいた。
僕は自然と、シルヴィアの顔を見上げる形となった。紅い瞳を爛々と輝かせて、獣のような唸り声をあげる、彼女の姿がそこにはあった。僕は、ただその姿さえも綺麗だと思わずにはいられなかった。
荒い息のまま、彼女の人間のものとは違う尖った犬歯が、僕の首筋に近づく。このときになって僕は、ようやく彼女の苦しみの意味を知った。だから、僕は、彼女の耳元で囁いた。
「いいよ……僕の血でよければ、吸ってもいいよ」
僕は覚悟を決めて、目を閉じた。彼女の苦しみは、抑えられない種としての吸血衝動から来ていたのだ。吸血衝動をこらえることの苦しみは、人間が食べるのを我慢することの比ではないと言う。気が狂いそうなほどの飢餓感を、この小さな吸血鬼の少女は、何日も耐えていたのだ。たとえ、今、シルヴィアに体内の全ての血を吸われ尽くしても後悔はしない、僕はそう思った。
「……い、いやよ、私は、あすかの血を吸いたくなんてない、吸いたくなんてない!」
僕の上に馬乗りになったまま、シルヴィアは涙を流していた。
「私は、貴方の血を飲むぐらいなら……」
「シルヴィ、何を……!?」
シルヴィアは、自分の腕に自分の犬歯を突きつけた。彼女の白い腕から、鮮やかな真紅の血が流れ出す。そして、彼女は、自分の血を嘗める。
「……どうして、どうしてよ!?どうして、私の血じゃダメなの!?私は、あすかの血を吸いたくないだけなのに!」
「シルヴィは、どうして、僕の血を吸いたくないの?」
僕は、迷子の子どものように泣きじゃくる彼女の頭を抱きしめる。
「いやよ、絶対に言わない!」
「……シルヴィ、僕は、何があっても君の味方だよ。絶対に逃げたりしない。だから、お願い」
「私は、やっぱり人間のあすかとは違う。化物の吸血鬼なんだよ。……この間からずっと、あすかの血を吸いたくてしかたなかった。あすかの首筋に牙を突き立てて、皮膚を突き破って、血をすすりたい……。そんなことを考える私が、私の中にいるんだよ。私は、そんなことしたくない、しちゃいけないって分かっているのに!でも、もう私は私を押さえつけていられないよ。私は……あすかに嫌われたくない。怖がられたくないだけなのに……」
僕は気づく。自分がどれほど彼女に大切に思われていたかに。それは嬉しくもあったが、同時に、悔しくもあった。僕は、まだ、シルヴィアに完全には信頼されていなかったのだ。
「シルヴィ、僕は君のことが好きだ。大好きだ。……教えてほしい、君は僕のことをどう思っているの?」
「そんなこと、私だって、あすかのこと好きよ。大好きに決まっているじゃない!」
僕たちは泣きながら、互いに告白した。
「だったら、僕は、君に力づくで押し倒されて、無理やり血を吸われたって、そんなことで君のことを嫌いになんかならない!僕は、君が傷ついているのに、何もしてあげられない方がずっと嫌だ。シルヴィ、君は、もっと僕を傷つけていいんだよ」
「そんなことできるわけないじゃない!私に、大好きなあすかを傷つけることなんてできるわけない」
「……シルヴィ、後で何でも言うことを聞くから、今だけは、僕の言うことを聞いてほしい」
そして、僕は彼女の身体を強く抱きしめて、告げる。
「僕の血を吸ってくれ、シルヴィ。僕は、吸血鬼の君のことが好きなんだ。君に僕の血を吸ってほしい」
「あすかのバカ!意地悪!そんなこと言われたら、私は……」
僕の首筋に鋭い痛みが走った。太めの注射器を刺されたときのような痛みだ。シルヴィアの顔が僕のすぐ隣にあった。彼女は、なおも涙を流しながら、僕の血を飲んでいた。不思議な感覚だった。ズキズキとした首筋の痛みと、血液を吸われ続けていることによる軽い倦怠感、そして、シルヴィアと繋がっているという幸福感が入り混じっていた。そして、僕は意識を失った。
「ねえ、起きて、しっかりしてよ、あすか」
シルヴィアにさすられて、僕は目を覚ました。真上に彼女の顔があり、後頭部に柔らかい感触がある。シルヴィアに膝枕をされているようだ。僕は、彼女と目を直視するのがなんとなく気恥ずかしくて、目をそらしてしまう。
「う、ううん、大丈夫、ちょっと、眠くなっただけだよ」
僕は、意識を失っていたらしい。頭に霞がかかったような変な感じだ。
「……ごめんなさい、私、人間の血を飲んだのが初めてだったから、どれぐらいで止めたらいいか分からなくて……」
彼女の眼からこぼれ落ちた水滴が僕の頬を濡らした。
「そんな顔しないでよ、シルヴィ。僕は、君の笑っている顔が見たいから、君に血を吸わせたんだ。だから、笑っていてよ……」
貧血を起こした僕の頭では、気の利いたセリフはとっさには思いつかなかった。
「……そうだ、シルヴィ。さっき約束したよね。僕の言うことを聞いてくれたら、後で、何でもシルヴィアの言うことを聞いてあげるって!教えてよ、僕は、君に何をしたらいいの?」
僕は、身体を起こして、彼女に向き合う。
「そ、それは……」
シルヴィアは、急に言いにくそうに口を紡いだ。何か頼みにくいことか、あるいは難しいことなのだろうか。でも、僕は、彼女のどんな願い事だって叶えたい、そう思う。
「僕は君との約束を破りたくない。何でもいいんだよ」
「私は……あ、あすかと、き、き、き……」
「き、き、き!?」
「お前たち、そこで何をやっている!……うん、飛鳥様!?」
土蔵の扉が開いて、数人の男たちが入ってくる。全員、黒マントを被って仮面で顔を隠している。多武峰家に敵対する勢力を撃滅のための部隊、通称『死神部隊』だ。多武峰家本家の養子である僕でも、直接目にするのは初めてだった。
死神連隊の隊長は、僕に言う。
「飛鳥様、すぐに、その化物からお離れください。そいつは、当主様が手に入れられた吸血鬼です。襲われる前に早く!」
その言いように、僕はすごく腹が立った。シルヴィがどんなに優しい子かも知らないくせに、化物だと罵倒する。そのせいで、彼女がどんなに傷つくかを考えもしないのだ。僕の後ろでは、シルヴィが震えていた。彼らにひどい目に遭わされたのかもしれない。彼女の震えた手は、僕のシャツの裾を掴んでいる。
それだけで、僕の決心はついた。彼女を守りたい。
僕は、シルヴィアを庇うように前に出る。そして、死神部隊に向って告げる。
「僕はここをどかない!君たちこそ、彼女に対する暴言を謝れ!」
「……どうやら、飛鳥様は、ご乱心のようだ。お前たち、取り押さえろ」
死神部隊が、僕の方に向かってきた。そして、僕は、大人たちによって、簡単に、シルヴィアと引き離された。僕は、第5位階魔術までを習得していた。人を傷つける魔術も殺す魔術だって知っていた。それを簡単とさえ思っていた。けれども、僕は、魔術を知っていただけだった。シルヴィアに外の世界を見せてやると約束しておいて、彼女を守ると決意しておいて、結局、僕は何もできなかった。
「あ、あすかを離せ!」
僕は見た。シルヴィアの背後から、黒い影がいくつも伸びているのを。シルヴィアが、身体の震えを抑えながら、立ち上がったのを。
「ば、馬鹿な、なぜ、未覚醒の吸血鬼が『固有能力』を発動している!?」
死神部隊の隊長は、信じられないとばかりに動揺する。
「あすかを離せえええ!」
シルヴィアの槍のような影の攻撃を受けて、死神部隊の男のうち、二人が吹き飛ばされて気を失った。死神部隊は、一斉に、シルヴィアに向かって、氷属性の魔術をぶつけるが、シルヴィアの影は、その全てを払い除けた。
「くそ、この化物め!?」
死神部隊の隊長は毒づく。それに、シルヴィアは言い返す。
「違う、私は、化物じゃない。私は、あす……かの……」
シルヴィアは、そこで意識を失って倒れた。
「し、シルヴィ!!!」
僕は泣き叫ぶことしかできなかった。




