避けられぬ戦いへと
「あ、飛鳥なの?」
「……」
仮面の少年は何も答えない。表情も窺いしれない。
多武峰道元は、歓喜の表情を浮かべる。
「待っておったぞ『紅蓮の死神』よ!さあ、早く、あの化物、吸血鬼シルヴィアを殺せ。殺すのだ!さあ、早く!」
道元の指示にも、しかし、『紅蓮の死神』こと飛鳥は沈黙したまま動こうとしない。
「……この、早く、殺さんか!この役立たずめ!」
道元が苛立ち紛れに地面を叩いた。途端に、壁から出現した氷の拳が、飛鳥を殴り飛ばした。飛鳥は、屋敷の壁に叩きつけられ動かなくなった。
飛鳥の元に、シルヴィアが駆け寄る。
「大丈夫、飛鳥!?ねえ、しっかりして、しっかりしてよ……」
飛鳥は、意識を取り戻した。全身を打撲し、口の中を切ってはいたが、他はなんともなかった。道元とて、本気で飛鳥を殺そうとするわけはない。
「……ああ、大丈夫だ。……それよりも、早くここから逃げるんだ、シルヴィア!今はまだいい。けれども、道元が『忠誠の誓約』を使って命令してきたら、……俺は、逆らえなくなる」
しかし、シルヴィアの答えは決して変わらない。
「嫌よ、絶対に!」
「本当に君は……」
飛鳥は、こんな状況下でも強情なシルヴィアに苛立つことはなく、むしろ一層の愛おしさを感じていた。いかなる場合でも自分の意志を貫き通す、飛鳥は、シルヴィアのそんな強さに憧れて彼女を好きになったのだ。そして、飛鳥は、7年前のあの日、多武峰家に逆らってでも、彼女を守ると決心したのだ。
だから、飛鳥は告げる。彼が守りたいと思った彼女を守るために、冷徹なあの一言を。
「後で何でも言うことを聞いてやるから、今だけは、僕の言うことを聞いてほしい」
シルヴィアの目が大きく見開かれ、そして、彼女の眼から涙が溢れだした。それは、吸血鬼シルヴィアを、最初にして唯一受け入れてくれたある少年の優しい取引の言葉だった。シルヴィアがそれを忘れることなんでできるはずもなかった。
「ずるい、ずるいわよ、飛鳥!そんなセリフを言われて、私が……私が……無視できるわけないわ!」
シルヴィアは目に一杯の涙を浮かべて、笑いながら怒る。飛鳥にとって、その瞬間のシルヴィアは、世界一綺麗な怒り顔をした少女であった。
道元は遂にしびれを切らした。
「ええい、いつまで、ぼさっとしているつもりか!こうなったら、こうだ!よいか、『忠誠の誓約』に基づき、我が従僕、如月飛鳥に命じる、そこの吸血鬼シルヴィアを……」
「そんなこと、させないわ!」
道元が命令を下し終わる前に、『千影』とも称されるシルヴィアの無数の影が一斉に道元を狙う。
「こしゃくな!」
道元は、再び杖で地面を叩き、前回よりも大きく分厚い氷壁が現れる。さながら氷河の一部分を切り取ってきたようだった。無数の影がその氷壁に衝突する。その瞬間、砕け散った氷の破片が舞い乱れ、にわかに吹雪が吹き荒れた。そして、視界が完全にホワイトアウトした。そして、その瞬間こそが、シルヴィアが狙ったものであった。
「……っおのれ、咲夜を返せ、返すのだ! この化物! 吸血鬼め!」
いかに不老不死の魔術師といえども、視界がゼロの状況で、気絶している人間まで目をやることはできなかったようだ。シルヴィアは、影を這い寄らせて、咲夜を再び人質にした。
「シルヴィ、いったい、どういうつもりだ?」
困惑気味の飛鳥の問いに、シルヴィアは、ウインクして答える。
「貴方のいうとおりに、今のところは引いてあげる。でも、咲夜ちゃんは、担保として預からせてもらうわ!」
シルヴィアは、影の翼を広げ、夜の闇へと消えていった。昼下がりの屋上のときと同じく、飛鳥は、その様子をただ眺めていた。
「シルヴィ……」
僅かな安堵と持ち越された対決への恐れが、飛鳥の心を激しくかき乱していた。
5月14日 夜明け前
西条グランドホテル 最上階スイートルーム
窓ガラスが叩き割られるような音で、咲夜は目を覚ました。部屋の中は暗いが、ほんのわずかに陽の光が差し込んでいた。明け方が夕暮れか、そのどちらかだと思われた。微かな陽光が、部屋の床に散乱したガラス破片に乱反射し、咲夜は思わず目を閉じた。
「ここはいったい、どこ?」
咲夜は、天井にも床にも、寝かされていたベッドにも覚えはない。雰囲気からすると、どこかのホテルの一室のようではあった。
彼女は、不意に、自分が気を失う前の出来事を思い出した。
「……っ多武峰の邸宅はどうなったの!? 漆原さんは……。そうだ、シルヴィアは!?」
「ああ、やっと目が覚めたのね、咲夜ちゃん」
咲夜の背後から声がかかった。咲夜が慌てて振り返ると、そこにいたのは、銀髪紅眼の吸血鬼であった。シルヴィアは咲夜に気配を感じ取られることなく、ずっとそこに立っていたようだった。
「シルヴィア!!!」
咲夜は、自身が使いこなせる中で一番強力な魔術の呪文を唱え始めた。ほとんど反射的であった。見つめ合うような形の、咲夜とシルヴィアの距離はほぼゼロであった。刺し違えてもいい、そんな覚悟で、彼女は魔術の発動を行おうとした。しかし、そんな咲夜の想いも虚しく、彼女の身体は、シルヴィアによってあっさりと押さえつけられてしまう。まるで、格闘家が赤子の腕をひねるような容易さであった。
「無駄なことはよしたほうがいいわ、咲夜ちゃん。吸血鬼の私に、人間のあなたが、白兵戦で勝てると思ったのかしら?」
「…っ動けない!? 離して、離してよ!」
同性の咲夜から見ても、シルヴィアの身体はとても華奢で、それこそ繊細な人形のようであった。それにも関わらず、咲夜は、シルヴィアに組み伏せられて身動き一つとることはできなくなった。
「おとなしくしなさい、咲夜ちゃん!」
咲夜の目の端に、シルヴィアの尖った犬歯が映る。シルヴィアは、血のように紅い眼を一層艶やかに光らせている。
「っ……」
咲夜は、身をよじらそうとするのを止めて目をぎゅっと閉じた。
ドーン、ドーン、ドーン。
下の階で、大きな爆発音がして、建物全体が局所的な地震にでもあったかのように激しく揺れた。辛うじて部屋の窓枠に残っていたガラスも残らず割れてしまった。
「いったい、どうなっているっていうのよ!?」
咲夜は半ばヒステリック気味に叫ぶ。いくら魔術師で、名門の子女といえども、彼女はまだ中学生であった。義兄や多武峰家の他の者のように、荒事には慣れていないのだ。
「落ち着いて、咲夜ちゃん……。私が言うのも変な話かもしれないけれども、あなたの身の安全は私が保証するわ。だから、安心してほしいわ。……そうね、今の状況も伝えておくわ。いろいろあって、私は、人質として、咲夜ちゃんを攫ってきたわ。その結果、多武峰家が激怒して、総力を上げて救出作戦を展開しに来たって言ったところになるわ」
咲夜が目を覚ます少し前から、このホテルに対する多武峰家の攻撃が始まっていた。シルヴィアと咲夜は知る由もないが、他の宿泊客と従業員は避難を終えており、周辺は多武峰家によって完全に封鎖されていた。表向きは、人質を連れてホテルに立てこもる凶悪犯を、警察の特殊部隊が包囲しているというシナリオになっている。
それを聞き、咲夜の表情は明るくなった。
「それなら、いよいよ、あなたもおしまいね、シルヴィア。多武峰家が本気になればいくらあなたでも勝てるわけないわよ! 早く私を解放したほうがあなたの身のためよ……って、どういうつもり?」
シルヴィアは、咲夜の上から立ち上がり、彼女の身体を自由にした。
「元々あなたを人質にして、多武峰家にあれこれ要求を突きつけるつもりはなかったわ。吸血鬼は目的のためには手段は選ばないけど、名誉を何よりも重んじるわ。矛盾していると思うでしょ?」
咲夜から見れば、絶望的な状況であるにも関わらず、シルヴィアは余裕の笑みのまま続ける。そればかりか闘志を燃やしているようにも見えた。
「咲夜ちゃん、あなたは人質じゃなくて釣り餌だわ。飛鳥という獲物を釣るための!」
多武峰道元にとって、咲夜は重要な人間だとシルヴィアは踏んでいた。わざわざ出向いて、自身の手で一度は助け出したほどだ。だが、多武峰道元は、シルヴィアから見た場合、それほど優れた魔術師とは言えない。第5位階魔術程度を使う、少し強い魔術師止まりだ。多武峰道元が、万が一にもシルヴィアに勝算があるとすれば、多くの罠魔術を仕込んでいる自身の領域で戦うときだけだと考えられた。そう考えると、当主道元に代わって咲夜の救出にやってくるのは、多武峰家の切り札『紅蓮の死神』=飛鳥に以外にありえなかった。
咲夜は、ずっと抱えていた疑問をシルヴィアに投げかける。今しか聞ける機会がないとそう思えたからだ。
「シルヴィア、教えてください。なぜ、貴方はそんなに義兄さん、如月飛鳥に固執するのですか? 何が目的なのですか? 確かに、義兄さんは極めて優秀な魔術師ではありますが……」
「決まっているわ、私が、飛鳥を愛しているからだわ! 飛鳥を、私のものにしたいからに決まっているわ!」
質問をした咲夜の顔が逆に赤くなる。
「意味がわかりません。あなたのやっていることは間違っています。……あなたのやっていることは、義兄さんを傷つけています! 義兄さんは、優しい人です。ずっと心を押し殺して、多武峰家のために戦ってくれています。そんな義兄さんが、あなたと戦うことでどれほど苦しむか、考えたことはないのですか!?」
「だったら、咲夜ちゃんは、今の飛鳥が幸せだと言うのかしら? 私はそうは思わないわ。飛鳥は苦しんでいるわ。私はもうそんな彼を見ていたくはないの。飛鳥には幸せになってほしいし、私の傍にずっといてほしいと思っているわ。だから、私は、たとえ飛鳥を傷つけてでも、飛鳥を倒してでも、飛鳥を苦しめているものを全て壊すわ! 傷つける覚悟もなくて、彼を愛しているなんて私は言わないわ!」
その言葉を聞き、咲夜は少しだけ、恐ろしい力を持つ吸血鬼の少女のことを理解できたような気がした。
「……私は、あなたのようには思えません。私は、絶対に義兄さんを傷つけたくはないです。でも、あなたのやり方も否定はしません。そして、言わせてもらいます。あなたになんか、義兄さんは渡しません!」
シルヴィアは、縄張り争いをするネコ科の猛獣のような、好戦的な笑みを浮かべる。
「望むところだ……と言いたいところだけれども……どうやら、私たちの王子様が到着したようだわね」
スイートルームの重厚な木製のドアが開かれ、黒猫の仮面を付けた少年が姿を現した。




