三駅の思い
午前7時23分発、特急の電車に彼女はいつも乗車する。
4号車両の真ん中のドア。一番前で並び電車が来ると、人混みをさけるように、すっと横にズレる。
比較的安全な四隅が小さな彼女の居場所だった。
僕はいつも一番後ろで並び、乗れるか乗れないかのギリギリのところに乗車する。早く来て電車を待てば、乗れないリスクを避けられる。が、ギリギリで乗ることで、ちょうど彼女の前に立つのだ。
その丁寧な黒髪が綺麗なのか。電車の揺れに耐える小さな姿が心配なのか。なぜか彼女の些細な振る舞いを、目で追いかけてしまう。
初めの頃は、電車の中で前にいたからという理由で通していた。けれど、彼女のいない日に、その小柄な姿を探している自分がいるのに気が付いた。
いつの間にか、僕は彼女に小さな恋をしていた。
恋と表しても、恋と呼べるものではないのかもしれない。
名前も知らない。年も知らない。声も知らない。ただいつも、そこにいる。僕の前にいる、ただの他人な関係。
そのなのに、僕は、この胸の高鳴りを止めれないのだ。
こんな知らない関係が、この先ずっと続くのだと思った。
秋から冬への境目の時期。一段と寒い日のこと。僕が来たときに彼女はまだいなかった。急に冷え込んだので、身支度に時間を要しているのだろうと、彼女をいかにも知っているかのように推測しながら、電車を待った。
彼女は僕が電車に乗った時に走ってやってきた。それを見て、僕はさりげなく、彼女が入れるように狭い空間をやりくりし、スペースを作った。彼女は、そのスペースにギリギリ滑り込んだ。
彼女の荒れた呼吸が妙に色っぽく、そう思ったのは僕だけではないだろう。
慌てて首に巻き付けたマフラーからして、僕の推測は概ね当たっているようだった。
様子がいつもと違うのに気づいたのは、彼女の呼吸が落ち着いた頃だった。いつもなら、彼女は電車の中で読者をするのだが、今日は違ったのだ。
代わりに、そわそわと落ち着きがない。小さな手を小刻み動かしている。
そして原因は、その手の先にあった。
雑に巻かれたマフラーがドアに挟まっていたのだ。周りの人に迷惑がかからないのように、最低限の動きでマフラーを取ろうしている。だが、力の入れ方が悪いのか、立ち位置が悪いのか、マフラーはなかなか挟まって取れない。
彼女が降りるのは三駅後、残念ながらそれまでこちらのドアは開くことはない。
彼女に焦りが見えた。
僕はそれを、ただ見ていた。僕なら取ってあげることは、少し無理をすれば可能だ。しかし、彼女を助けてあげることを僕は拒んだ。助けるか助けないかではなく、助ける必要があるかないかで悩んでいた。彼女との今の関係を、この距離感を、なぜか壊したくなかった。
しばらく彼女は奮闘したが、後に諦めて手をさげた。僕はそれをとなりで見ていた。
すると、偶然彼女と僕は目が合ってしまった。
その目は、助けない僕を何か責めているようで、いつもとは違う彼女を表していた。
僕はその気まずさに耐えきれず、マフラーをドアから引き抜いた。その拍子に横の男性に腕が当たり、彼は俺を睨んできた。
彼女は少し頭を下げ、僕に向かってお礼を述べた。その声は低く、レール音にのまれた。
その時、なぜ僕が彼女を助けるのを拒んだのかがわかった。
僕が恋したのは理想の彼女だった。名前も知らない。年も知らない。声も知らない。知らないが故に、ほとんど全てが理想で構成された彼女。
毎日が苦痛の日々に、少しでも有意義なものにしようとして創られた彼女。
そんなエゴのような物を僕は好きだのだ。
電車は三駅を一気に駆け抜け、人々が降りていく。僕もその後を、同じように歩いて、同じように進んだ。
あれから、あの人とは会ってない。
理想は手に入らないだからこそ、価値がある。