2.空き缶と老女
タイトルにあるのに、トキはまだ出ません。
体験入所は、思ったよりも退屈だった。特に毎日の運動とやらは、ボール遊びやら体操やら、どれをとっても幼稚園のお遊戯の延長だ。
年寄りと思って馬鹿にするな、そう言いたくなった。が、悪友の源三が私を押し留めた。
ああいった緩やかな全身運動が、案外大切なのだという。
子供は発達するために運動を必要とする。これから発達する骨格や筋肉、それを制御する脳神経を育てるためだ。それらは使えば使うほど鍛えられ、発達する。逆に、使わなければ劣化し鈍磨していく。
それは年寄りも同じだという。違うのは、育てるのではなく、老化し劣化する速度を緩めようとするという目的だけなのだと。
『のんべんだらりと過ごしていたら、廃用症候群になってあっという間に寝たきりになっちまう』
そう言って自分の萎びた両足を指し示した。あいつは小さな会社の社長だったが、脳梗塞で倒れて当分寝たきりだったのだ。長期間使われなかった身体は痩せ細り、かつて野山を駆け回っていた脚は自身の体重すら支えられなくなってしまった。
源三の話を聞いて、少しばかり心許なくなった私は、結局その運動の時間全部に参加してしまった。おかげで『そんなに全部頑張らなくていいんですよ』と逆に言われる始末だ。その辺りの加減の難しいところが歳を取った証拠かもしれない。
小さく息をついた私に、源三が手招きした。
「辛気臭い顔してないで、電話が済んだなら一局打とうよ」
老人ホームは、食事と運動とレクリエーション、入浴と睡眠時間以外はほぼ自由行動だ。つまり老人達は多かれ少なかれ暇を持て余している。自室にこもってテレビを見たり手習いをしたりする者もあれば、集会室で囲碁や将棋に興じる者もいる。源三は後者の代表で、毎日何局も打ち続けだ。
ついさっきまで対局していた相手も口を揃え、
「高津さん、ちょいとこいつをぎゃふんと言わせてくれよ」
そんなこと言われても。
ああ見えて源三の奴、囲碁も将棋も強いのだ。町内会や老人会では、毎回何らかの賞品を引っ攫って行った。その点でもあいつとは長年の仲間でありライバルでもある。腕前は実力伯仲、と言いたいところだが、癪なことにほんの少しあいつのほうが上のようだ。
だから尚更断り難く、私は半ば諦め、半ば気負って、やいのやいのと騒ぐ年寄りの間を通って源三の前に腰を下ろした。
「そう来なくちゃあ」
将棋の駒を小箱に戻し、将棋盤を上下を返して碁盤面を上にする。脇に退けていた碁石の容器に手を伸ばした姿勢で、源三が窓外に視線を留めた。
つられて見た先には、しかしコニファーの生垣とブロック塀しかない。
いや。
遠くかすかに、金属を叩くような音が聞こえた。
そこへ入居者の女性がよたよた駆け込んでくる。
「かよちゃんが来たよう。もうそこの角まで来てるよ」
それを聞いて源三がたんまをかける。
「ちょっと待った」
「なんだい、自分から誘っておいて」
「ちょっとだけだ、すぐだから」
慌てるように車椅子のブレーキを外し、器用に自室に戻っていく。と思えばほかの何人かもあわあわと動き出し、各々大小のレジ袋を持ち出してきた。中には空き缶が詰まっている。
戻ってきた源三も、膝の上にひとつ、車椅子のレバーにひとつ、空き缶の袋を持っていた。
「悪いけど、圭ちゃん。車椅子押してくれよ。荷物があるとバランスが悪くてさ」
その場の何人も、いや部屋にいた者もよちよち出てきて、早く早くと声を掛け合いながら廊下を進んでいく。
何が始まるというのだ?
不審に思いながら、源三の車椅子を押して私もその列に加わった。
二度、薄紅色のユニフォームを着た介護スタッフとすれ違った。が、彼らは老人達の列を見送るだけで、止めようとはしなかった。
列は、いつも歩く広く明るい廊下ではなく、いかにも業務用といった作りの通路を進み、すぐに小さな扉をくぐった。
建物の裏口だった。
すぐ横がごみ置き場らしい。小さなプレハブ小屋が建っており、入口には「捨てればごみ、分ければ資源」という手書きの紙が張ってある。その紙も、近所のガス屋が配ったカレンダーの裏紙だ。
そこの中のかごへ、老人達が次々と袋ごと空き缶を積み上げていく。順繰りに置いて戻ってきては、建物の傍で小さくうずくまる。
「ほら圭ちゃん、ぼうっとしてないで、俺らも隠れるんだよう」
源三が車椅子をがたつかせて催促した。
そうか、あれは隠れているつもりなのか。
どう見ても丸見えなのだが。
そう思ったが源三の言うとおり、プレハブ小屋の裏に回るようにして私達も身を潜めた。
キコキコという金属の触れ合う音と、どこか空洞めいた軽く乾いた音が近づいてくる。
「きた、来たよう」
誰かがかすれ声を立てる。
奇妙な緊張感が漂うなか、音が姿を現した。
生垣の向こう、通用門の外に。
ひとりの老女が、老人車を押してやってきた。
辺りを窺うようにこっそりと左右を見、通用門をくぐって入ってくる。
彼女は迷いもせずごみ置き場に入り、やがてかしゃん、かしゃんと軽い音を立て始めた。
饒舌な老人達が、息を詰めるようにしてその音に耳を傾けている。
やがて出てきた彼女は、小さな老人車に、大きな袋を積んでいた。袋の中はさっき入所者達が積み上げていた空き缶だ。
通用門を出る直前、彼女は振り返り。
ゆっくりと。こちらに向かってお辞儀した。
その、仕草。
老女はゆっくり、ゆっくりと老人車を押し、生垣の向こうに消えた。
去っていく老人車の音を確かめながら、源三がぽつりと呟く。
「今日も、みつかっちゃったねぇ」
あたりまえだ。
私は源三の禿頭をぺちりと叩いた。
施設の入所者の誰も彼もが半寝たきりというわけではありません。
でも、誰も彼もがこんなに元気というわけでもありません。