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―ガンッ
「うがっ!?!」
「……うがって…おばちゃん。どうしたの?珍しいね裏から来るなんて…」
少女はいつもの客の、いつもらしからぬ行動に首を傾げた。
そしてふと、叔母の様子にも異変を感じる。
艶々とした流れる髪を乱して、目は少し赤くなっている。
真夏の向日葵のような明るうるさい性格に、30代とは思えない肌艶と少女でさえ眩しくなる美貌。母親の弟の妻―その呼称通り、少女の叔母にあたる。
常なら現れた瞬次に繰り広げられるお喋りも今日はなく、未だ妙な呻き声しか発してない―
「うぅ痛いぃぃぃもぅいやぁ…」
のは、頭をぶつけたショックからのようだ。
普段使われず蔦が絡んだ門扉は、衝撃で心なしか傾いている気がする。
もともと扉は一部欠けていて、少女が今よりもう一回り小柄な時に、母に見つからずに外出するのによくそこから抜け出ていた。ちなみに今は塀から。
「っもぅ!ちょっとエイちゃん?!オバチャンじゃなくて柚ちゃんって呼んでって言ってるでしょうユウちゃんって!!そんなだからこの前友達と筒川で危険区域に入って溺れかけたコに下敷きにされて三途の河まで流されかけちゃうのよっ!そんでもってその事が枝梨にバレるのよっ!!」
ユウ―柚子はぷんとそっぽを向いた。怒るその様子さえ可愛らしかったが、ちょっと待て。
「バラしたの!?いつ?!って何でそのこと知ってるの!!あたしケンスケに黙ってろって言ったのに?!」
「チッチッ!違ぁうわ☆ニュースソースは健輔クンじゃなくてよ。アタシの未来のムスメは視野が狭いわねぇ―はぁ。こんなんで一人にして大丈夫かしら…」
じゃぁ誰だ!?頭を巡りまくる疑問に少女―エイコは嫌な汗をかく。
ついでに柚子がさらっと口にした言葉も素通りした。
どうやら老後の面倒を見させる気らしいが、そんな事より今は目先の自分の身の安全のが最優先だ。
(もう大丈夫だと思ったてたのにッ!!!…このままだと確実に怒られ…ってイヤ、そんな生ぬるい事態じゃ済まない予感が……?!)
事の起こりは先日。
境内の亀を一匹(勝手に)ケンスケに贈った(誕生日プレゼント)ところ、どうも環境が合わないらしく弱ってしまった。
結局池に戻すことにしたのだが、淋しそうなケンスケの様子に可哀相になったエイコは、クラスの水生物オタクに亀を一匹譲ってくれるよう頼んだ。
そこは友人。快く一匹亀を譲ってくれ―ることはなかった。
いわく、『神社の亀さぇ面倒みれなかったヤツにうちのさち子はやれない!どうしてもと言うなら地図描いてやるから捕ってこい』
名前つけてんの、とか、ヨメじゃないんだから、とかイロイロ浮かんだツッコミも口には出さず、言われるままに事態は亀捕り大作戦へと移行。
小学四年生の計画にショップで買うという選択肢は含まれていなかった。
川で自分で捕った亀…てか亀捕れるの!!?という妙な高揚感が二人を一直線に亀捕りに誘っていったのだった。
が、事件は捕獲現場で発生した。
「ふっ。アタシも鬼じゃぁないわ…エイちゃん」
母―枝梨の雷がかなりの確率で数時間後に落ちる…!!という事態に戦慄・思わず現実逃避過去回想するエイコに、叔母は優しく微笑んだ。
極上プリチースマイルが目に眩しい☆………って何だろう嫌な悪寒(泣)。
妙に近いと思えば、がっちり拘束された右手と左肩。
感じた時点で回避不可能な悪寒な予感は、きっちり二拍後。
現実となってエイコに無情に降り注いだ。
「今からハイキング行かなぁい?ちょぉっと裏の祠の先まで☆」
「え…祠?……え。え?ェッ?!っちょっとォォォッ!!?」
細いながらも石畳で舗装された道は所々、月日の流れに苔むしていた。
それでも石材の白さから、薄暗い帳が上天からおりてくる中でもしっかりと二人を導いていく。
(暗いから途中で諦めようって言おうと思ったのにすごく足元明るいんですけど?!しかもこの前の遠足より、ハー、ッドっってさっきから何か障害物が妙・に…って!コレ!ぁぁぁあそれにやっぱココってぇぇぇッ!!)
「オっ、ユウちゃん?!ホントにいいの?!ここ禁域ってトコじゃないの?!今ぶっとぃしめ繩何本か乗り越えて来ちゃったケドそれって気のせい!!?」
「今のオは何オは。全くこれじゃお義母サマって呼ばせるのも時間がかかりそうねっ!ていうか今から呼ばせようかしら…」
「あたしの話無視?!だから何でそゆ話になるの!息子いるじゃん!あたしじゃなくってオヨメさんくるでしょ!わざわざよーしえんぐみしなくてもさ……じゃなくて!!イヤイヤあたし確かにお母さんに川に行くなと言われてたけどさ!!それよかここに来たのがバレたらさらにマズくなぃ?!!」
下社当主は代々女性が神子として務めることになっている。
普段は会社員として忙しくしている母だが、同時にその役をこなしていた。その母が、いずれ次代を継ぐエイコに厳しく禁じていた事があった。
神田には行かないこと
川には入らないこと
何故かは判らないが、一度裏山にかくれんぼをして迷い入った時には、必死の体で捜しにこられた。
あんな母は見たことがなくて、その後ぐちぐちぐちぐちと小言をくらったことよりもずっと、イケナイことをしたんだと思うには十分な出来事だった。
それに―川。
(…あの時のって……)
ケンスケが深みにはまって、溺れたとき。
プールで、溺れた人には前から近づいたらダメよ後ろからねーっていぅか誰かを呼びましょうねーと、三組の担任且つ教頭のアイドル(一生片思い)カオリチャンに言われたこともすっかり忘れて手を延ばした。
ら。
案の定パニックになったケンスケにしがみつかれ、土台にされ。
上から絶えず蹴るように押さえつけてくる足に抵抗もできず、ああもぅあたしだめかも…………っ!!!!!?なんて零点何パーセントも無い筈の冷静と人生に消極的な自分の間…じゃなくて上記左割合が増えてきたとき。
『ちいさなひめさま』
水の中で、響くように、けれどはっきりと聞こえた声。
誰、助けて、と言いたくて口を開いたが、流れ込んだ大量の水に肺の僅かな空気さえ奪われた。
手を延ばして助けを求めても、何も掴めなくて。
力が抜けて。
反抗的な水の流れは追い打ちをかけてくる。
水泡をやけに冷静に捉えた視界も、キリキリと膜の向こうで鳴る超音波の様な音さえもだんだんと曖昧になってゆく。
助かる!?と思った淡い期待も透明になり、ついに意識を手放そうとした刹那。
『ひめさま。まだお約束まで時がございますよ。大事な御身に何かあれば、彦さまも嘆かれます』
『ちいさなひめさま………は……宮に……』
再び響いた音楽のような声。
それを言葉だと意識した時には、エイコにのしかかっていた分厚い水は体面に滴る程度になっていた。
朦朧とした意識と視界の中、助かったと思うには苦しくて。
気管と肺に入った水を吐き出そうと、かつて無い程盛大に咳込んだ。
言葉の意味も理解できずに喘ぐエイコの背中を、優しくさすってくれた。…ような気がするが、後ろからだった上前後不覚レベルに疲弊していた為、正体は確認出来ていない。
ようやく呼吸も落ち着いて、救けてくれた誰かが傍にいるという安心感に、エイコはついに意識を手放した。
今思ったらケンスケの事を忘れていたが。――ってイヤでも加害者はアイツだ、うん。ダイジョウブ!!
そして気付くと、エイコは入川用の階段に、ケンスケは川岸に横たえられて―いや、ケンスケのは打ち上げられてた感じだった。救助者にも蹴りをくらわせたのだろうか。
見回してみても、レスキュー隊(勝手に命名)はどこにも居なかった。
とにかくケンスケを起こし、今日の事は無かったことにしようと全会一致(二人)で家路についたのが先週の土曜日。
(でも、誰だったんだろう…あたしを知ってる風な感じだったけど…?声、は、二人?男の人と、女の子だったような?あたしの事ひめさまって呼んでた?…お姫様のことだよね…はっ!まさかお忍び中のどこかの国のお姫様に似てたとか?!このままだと人違いでどっかの舞踏会に呼ばれてご成婚!? 未成年ですけどイイんですかッ?!)
妄想が膨らむ年頃らしく、母の雷を忘れて暴走オトメ妄想するエイコに、柚子は無常な一言を零した。
「…アタシの未来のムスメ。ごめんね。枝梨には後で言っとくから…」
「…ありがとう…でもやっぱりあたしは王子サマとご成婚―って。イャえっ?!!後?!先じゃなくて!!?それじゃあたし怒られるの決定なんじゃ………?!!」
「ふ。物分かりがよくてお義母さま感激。若い頃の苦労は買ってでもしろってゆうじゃなぃ……今ならタダでおすそ分けしちゃう。ってコトでハイ到ちゃーく!!!ココが噂の神田でぇす!!」
勝手に展開される柚子の最高に迷惑な苦労の押し売りにひたすら「いらなぃいらなぃ必要ナィナィ」と抵抗(無駄)するエイコの前に、気づけば自宅の裏庭の門扉よりもさらに年季の入った扉が立っていた。
木で造られたそれはところどころに飾り彫りがされていて、素人目(小学生)に見てもかなりお金かかってるんだろうな(その程度)というのがわかった。
…傷はつけたくない…というか、手袋して扱うタイプのシロモノな気がする…。
それを。
「とりゃっ」
「ええええええええ!!!?えっ大丈夫?!今ミシって音したケドダイジョウブッ?!これなんかなんとなく本殿の奥の扉に雰囲気似てない?!あれ確か重要文化財とかって奴だったよね??!」
普段から見慣れているせいであまり感慨とかじっくり眺めるとかしたことは無かったが、境内いたるところ、結構いろんなものが在る。
そして多分絶対これもそういった部類。
…いま、蹴った…?
「うーん?そうかしら?でもだって立てつけが悪いんだものしょうがないじゃない。だいたい鍵が見つからなかったのよ……」
「鍵?!鍵あるなら立てつけ悪いとかじゃないじゃん!!いーやー!!!も、絶対お母さんにしばかれるうぅぅっ!!!!!!か、帰ろう?!一刻も早く立ち去ろう!!」
なるべく傷の浅いうちに…というエイコの叫びも虚しく、再びの叔母の見事な蹴りに健気に耐えた扉もついに倒れてしまう。
その瞬間がやけにゆっくりと流れ、地面に叩きつけられた扉の奏でる音さえエコーしたのは気のせいじゃぁないだろう……
「さっ…んきゃっ!!」
――『んきゃ』??
呆然とするエイコを観客として、今まで目の前で破壊工作ステージにオンしていた叔母。
は、その見事な黒髪を広げて。
「………おッおばちゃん???!な何??!ね、寝不足なら家帰って寝よう!?ってカンジじゃないよねイヤ解ってるんだけどちょっとまってどどどどどどど、どうしよぅッ!!!!!?」
ぶっ倒れていた。
この薄暗い森のなか。
たった独り小学生を残して。
「いややややややああああああ!!?ちょ、待ってぇ?!!!!フリ?!死んだフリ?!ダメだってクマと遭遇してもそれしちゃ死亡率高くなるってこの前テレビでしかも本州だからツキノワグマだし日本だからグリズリーじゃないけどでもクマはクマだよね怖いよね怖いっしょあたし怖いんだけどユウちゃん起きてッ!!?起きよう!!?起きてみよう!!??ってマジで反応ないんだけどッ!!!!!」
しぬしぬしぬ死ぬ程なく孤独死しちゃう気がする!!!!と、頭をかかえ蹲るエイコの上空を何かが通り過ぎる音がする。
それほど長くないナニモノかの動作音だったが、こんな時にはやけに耳に残る…(泣)。
か、顔が上げられないんデスガ………ッ!!
―ファサッ
「ほ、ぎゃッ!!!いやァッ!!!!!」
何かが頭に降りかかり、緊張が沸点に達していたエイコは無我夢中で手を振り上げた。