メタ・バース=イン=ハッカー・ビズ
地上二〇階建のビルディングの上。
白いロングコートを風に揺らした少年が、フェンスに寄りかかりながら、手元の立体画面でメールやニュースを確認している。
新着メールはなし。
電脳ネットに流れる最新情報にも特に目新しいものはなく、情報収集プログラムによって拾われたネット上に散逸する噂話レベルの情報を、統合プログラムで統制して見るも特に面白いものはなかった。
「ふう……」
と、嘆息一つ。
手早く操作して立体画面を閉じ、視線を虚空となった手元から街並みへ向ける。
時刻は夜。
視界の片隅――《電脳視界》の時計が二三時一六分を示す。夜分もそろそろ遅くなる頃合で、眼下に広がる第三電脳都市を歩く人の足並みも、まばらながら減っているのが判る。
「うーん……今日あたり現れるんじゃないかなぁと、思ってたんだけどな。これ以上長引くと明日に差し支えるんだよね」
さて、どうしようか。なんて考えていた時。
「やっほー、カウボーイ」
なんて声が、背後から。
振り向き、相手を見る。
夜の帳を拒むような、あるいはこの夜の時刻そのものを否定するような白と氷蒼色が視界を埋め尽くす。それは少女の纏う色だ。まるで時代を何世代も後退したようなフーデットコートに身を包んだ少女が一人、其処にはいた。
少年の姿を前に、フードの奥から覗く顔が破顔する。人懐っこい笑みを浮かべ、少女が軽やかな足取りで隣に並び立った。「おお、いい景色じゃん」なんて軽口を叩く少女に、渋面しながら尋ねた。
「何だよ、カウボーイって」
「知らない? 結構昔に書かれたサイエンスフィクションでさ、こういう科白回しがあったんだよ。時代って言うか、世界観も丁度此処と似たような奴でさ」
「で、真似てみた?」
「おう、真似てみた」
言って、少女が笑う。
逆に少年は苦笑する。
「わざわざそんなことを言いに来たのかい、エコー」
――エコー。
それが少女の《電脳義体》名だ。
「そういうわけじゃないよ。単に山を張ってみた場所に、見慣れたアカウントを見つけたら、挨拶がてらに声を掛けたってだけ」
少年の問いに、エコーは即座に否定した。そして彼女の口から零れた理由は、自分と大差ないものだったことに驚き、思わず目を見開いて少女を凝視した。
すると、少女の笑みが深まる。快活とした笑みから、邪悪な、悪辣な笑みへ。
「その様子からすると、トーリも私と同じように目星を付けてたのかな?」
「うぐ……」
トーリ。それが自分の《電脳義体》の名だ。
名を呼ばれるたびに、トーリは憂鬱な気分になる。
今思えばどうして本名をそのまま《電脳義体》名として登録したのかと、過去の自分に問いただしたくなる。おかげで判る相手には一発で身元が露見する。この都市で生きるにおいて、実に初歩的にして致命的な失敗だった。
「ねぇ、エコー……出来たらだけど、あんまり名前で呼ばないで欲しいね」
「なんでさ。良いじゃん。トーリって響き、アタシは好きだよ?」
言って、にこりと少女が笑う。フードの奥で、だけどトーリに見えるようにはっきりと。
(ああ、ホント性質が悪いな。この人……)
「俺をからかって楽しい?」
務めて表情を殺しながらそう尋ねると、
「すっごくね!」
と、エコーはいっそ眩いとすら思うほどの笑顔で言い放った。
「今だって取り繕ってるけど、耳赤くなってるのバレバレだよ? そーゆー素直なところがグッド」
「ああ……そう」
辛うじて、それだけ返すことが出来た。逆に言えば、それくらいしか言葉が返せなかったのだが。
これがこの場限りの掛け合いだったらいいのだが、幸か不幸か、現実の彼女を知っているだけに、どう対処していいのか判らない。きっと明日はこのネタで一日中からかってくるんだろうなぁと、早くも憂鬱な気分になる。
項垂れながら、再び《電脳視界》の時計を確認する。
現在時刻、二三時二二分。
これは無理かと算段を付けて、トーリは隣の少女に言った。
「どうやら、今日もはずれっぽい。俺はそろそろ離脱するよ」
「ありゃ。いいの? じゃあ報酬はアタシが独り占めってことになるね」
驚いたように目を見開くエコー。対して、トーリは仕方ないだろうと言う風に肩を竦めて見せた。
「そろそろ寝る準備、しないといけないし。それに独り占めって言うけど、それは出現したら、だろ? 出現しなかったら無駄骨。時間の浪費。明日は遅刻かもね」
「大丈夫よ。この時間ならまだ活動時間だし。それにアタシ、成績良いから」
「成績表、改竄してないよね?」
「そーゆーのを下衆の勘繰りっていうんだよ」
他愛もなく言葉を交わして、さてそろそろ本当に電脳離脱するべく思考操作に入ろうとした時だ。
《電脳視界》に『異常事態』表示。
同時に《電脳視界》に開かれる無数の情報窓。
常時接続されているはずの電脳ネットとの接続が不安定になり、周囲の空間からザザザザ……という雑音が迸り出す。
|《電脳空間》(せかい)が歪む。
空間を構築する情報言語が軋みのような悲鳴を上げていた。
(際どいタイミングできたな……!)
思わず口の端を吊り上げる。
今まさに電脳離脱しようとしていた矢先。まるで見計らっていたのではと訝しんでしまうような絶妙な時に仕掛けて来るなんて。
「残念。あと五分遅く来てくれればよかったのに」と、エコーがにぃっと笑う。
「ホント残念だったね。報酬独り占めできなくて」と、トーリは微苦笑を零す。
そんな言葉を交わして、虚空を見上げる二人。
すると、
――ポーン
という電子音。
手元に立体画面が表示され、メールの着信を知らせる。
即座にメールを開く。送信元からメール内容に至るまで、予想通りの文面に思わず口の端を吊り上げた。
視線をメールから隣の少女へ。やはり、エコーも自分と同じように立体画面を開いており、メールらしきものを見ているのが判る。そのメール内容はトーリの元に届いている物と一言一句同じもののはず。ならば、自然と次の行動は想像にし易い。
そう思ったのとほぼ同時、エコーの視線が画面から離れてこちらを見た。
トーリも示し合わせたように視線を持ち上げ、揃って互いの顔を見て、
「さてさてカウボーイ。此処で一つ提案があるんだけど?」と、エコーが口を開く。
「是非拝聴しよう。でもその前に先に行っておく――報酬は五対五だよ」
「ちぇー」
にこりと意識して笑みを浮かべるトーリに対し、エコーは露骨に唇を尖らせた。
「じゃあ良いよ、それで。その代わり、ちゃんと手を貸してよね」
「君こそちゃんと後方支援してくれよね」
言いながら、トーリたちの視線は頭上を仰ぐ。と同時、電脳都市の空に罅割れが入る。電脳都市を護る電脳防護壁が、見るも無残に食い散らされていく。
そして――同時に、見る。
罅割れた空間の向こうから――こちらを覗き込む何かの姿。
電脳防護壁の向こうに垣間見えた影を視界に捉え、トーリは小さくほくそ笑む。
「そーら……お出ましだ」
「やりぃ。四日も張ってた甲斐があったわ」
二人は、それを待ち構えていた。
電脳都市に繋がる《電脳空間》。其方から、此方側に出ようと足掻いている存在。
――異分子情報体
電脳都市に侵入し、電脳都市を構築する超高密度の情報言語を食い散らす侵略者。
目的は、電脳都市で管理されている情報。
小さいものは個人の端末IDから。大きいものなら企業や研究機関の秘匿情報など、流出したらそれだけで世界をひっくり返せるような重要な情報まで、電脳都市のメインサーバーに保存されている。
クリッターとは、そういった情報を略奪、あるいは破壊するための侵攻プログラムが形を成した、電脳都市に攻め入る電脳の怪物のことだ。
第三電脳都市シティ・キョウト。
世界で最も進化を遂げた電脳技術の結晶。その一つであるこの電脳都市の構築・運営技術を欲する国は数多とある。クリッターは、そんな電脳都市の技術力を欲する諸外国が送り込んでくる情報略奪、あるいは直接的な情報破壊することを目的として組み立てられたプログラム体だ。
果たして製作者の趣味なのか。はたまた電脳の世界においてこの手のプログラムはこのような怪物の姿に見えるのかは謎だが、クリッターの姿は、総じて異形である。
プログラム。即ち情報言語の集合体故に、明確な形を持たない。
おぼろげな姿形をしているが、逆にその歪な姿は観る者に戦慄を抱かせるには充分な効果を発揮する。
今回もその例に漏れることなく。
このシティ・キョウトに侵入を試みるこのクリッターもまた、やはり形容し難い姿を以て電脳都市に顕現した。
『――GRYYYYYYYYYYYYYYYYYY!』
電脳防護壁を突き破り、姿を見せたクリッター。
産声の如き咆哮が、電脳都市に響き渡る。
バチバチと身体のあちこちから紫電を散らし、全身に伝播の嵐を迸らせる何か。
目測、およそ七・五メートル。
長大な体躯と、その両側に長い手が――巨腕があることは判る。
だが、それだけだ。
それ以外はもう、殆んど形状判別のし難い奇形の姿形の何かである。
ブゥゥン……という電子軌道音と共に、異形の怪物の頭部らしき箇所に一つ、赫い明かりが灯る。
巨躯。長い両腕。そして単眼。
(……破壊活動型、《単眼の怪物》か)
それはクリッターの中では珍しくもない存在だった。トーリたちにとっては慣れ親しんだ怪物と言ってもいい。
――キュクロプス。
古き神話に登場する一つ目の怪物。その名を冠したクリッター。
それは電脳時代の到来と共に生まれたと言われる、悪性ウィルスの一つ。
使用方法は至って簡単。標的対象を事前に登録したのち、電脳ネットに放逐するだけ。あとは自己制御プログラムが自発的に活動を開始し、標的への攻撃活動に移る――言ってしまえば、勝手に動いて勝手に暴れてくれる、そういう意図のプログラムである。
ただし、目的そのものが電脳都市への攻撃であるため、情報略奪を目的に生み出されたクリッターに比べると、その攻撃性は遥かに脅威だ。
――と、同時に。
(……こいつは――運が良いな!)
そう胸中でぼやくトーリの口角が、自然と吊り上る。
攻撃性が高いということは、それだけ電脳都市にとって危険な存在であり。
危険な存在ということは、それだけハイリスクだが同時にハイリターンでもあるということだ。
つまり、どういうことかというと。
クリッターと相対し、その討伐によって報酬を得る排他者にとって、《単眼の怪物》は――狩り甲斐のある獲物ということである。
「やっほー! 鴨が葱背負ってやってきたぜー!」
「《単眼の怪物》。難易度はB+。山分けにしても、つつましく生活するなら一月は暮らせるね……」
諸手を上げてクリッターを歓迎するエコーの隣で、立体画面で報酬情報を確認したトーリが小さく零して微笑する。
同時に電脳ネット接続。
周辺情報の収集を開始。
《電脳視界》に表示される光点は三つ。
一つはトーリのもの。もう一つは隣に立つエコーのものだ。
そして一際大きな赫い光点――排除対象と表記されているのが、目の前の怪物である。
あとは五キロ以上離れた場所に幾つかの光点が存在するだけ。
電脳都市はクリッターの出現と同時に、一般のアカウントに対して電脳遮断を施行していた。
今トーリたちの立つシティ・キョウトは、シティ・キョウトと同規模・同情報量によって構築された隔離領域――緊急避難領域である。
そしてバックグラウンドに侵入することが出来るのは、電脳都市を運営するラース機関の人間と、電脳都市警備を担っているホワイトハット。
そしてトーリたちのような対クリッター戦闘を生業とする排斥屋である。
ハッカー。
解体術式――別称《電脳戦技》を用いてクリッターを構築するプログラムに接触介入を行い、改竄・破壊する者たち。
トーリは、その一人だ。エコーもまた同じく。
電脳都市で網を張り、電脳防護壁を突き破って現れるクリッターを標的とする賞金稼ぎである。
「――よし。近くに他のハッカーはいない。狩るなら今の内だ」
周囲の索敵を終えたトーリが、隣立つ少女にそう言うと、彼女は待ってましたと言わんばかりに自らの掌に拳を叩き込んだ。
「よっし! そんじゃ、他の連中が来る前にちゃっちゃとやっちゃいますか!」
「簡単に言ってくれるね。相手、一応B+だよ?」
「問題ないって」
苦言するトーリの科白を受け流し、エコーは蒼白の外套を翻して金網の上に立つ。周囲に無数の立体画面を従えて、少女の手が淡緑色の光を灯した。
エコーの解体術式が起動する。
同時に、トーリの《電脳視界》に映し出されるのは、少女を呑み込むほどの情報言語によって形成された攻撃プログラムの暴風雨だ。
起動速度は驚嘆に値するだろう。
だが同時に、その短絡的な行動には呆れてしまう。
(――そんな大掛かりなプログラム起動したら……)
ちらりと。
視線を、少女からクリッターへと動かす。
視界の先――こちらをしっかりと見据える、単眼の視線があった。
そう。
クリッターの――《単眼の怪物》の赫眼が、真っ直ぐに此方を捉えていた。
まあ、当然だろう。
クリッターは、電脳情報の略奪と破壊を目的として生み出された電脳の怪物だ。
そんな怪物の目の前で大掛かりなプログラムを起動させればどうなるかなど、緋を見るよりも明らかだ。鮫の群れの中に血の滴る肉片を零したのと同じようなものである。
『――GRYYYYYYYYYYYYYYYYY!』
クリッターが咆哮を上げて動き出す。
大量の情報言語を纏うエコー目掛け、一直線に虚空を疾駆した。
彼我の距離はおよそ四五メートル。しかし情報の怪物はその距離を瞬く間に詰めると、その異形の大腕を持ち上げて、凄まじい速度で蒼白の少女へと襲い掛かった。
「うわっ、来た! トーリ、ヘルプヘルプ!」
「……はぁ」
素っ頓狂な声を上げて救援を求める少女の姿に自ずと溜め息を漏らしつつ、トーリは意識を戦闘用に調整する。
《電脳視界》の端が平時状態から戦闘状態に代わるのを確認し、同時にトーリは床を蹴って高く跳んだ。
少女の前に飛び出し、同時に左腕を閃かせる。
振り被られた左腕の――白いコートの裾から覗く機械義手。
高密度の電脳情報――解体術式を内蔵した、対クラッカー戦用武装。
その腕を構えて、渾身の拳撃を撃ち出す。
電脳武装の左腕が、迫るクラッカーの拳と接触する。
勿論、単なる接触ではない。
単に相手に向かって手を伸ばし触れるような接触行為ではなく、明確な攻撃意識を持って行う攻撃行為。
解体術式を内装した機械義手を用いての電脳接続。
それが意味するものは――対象への強制接触である。
拳が《単眼の怪物》に触れると同時。
左腕に内蔵された解体術式が自動励起する
【当該対象へ対しての接触を確認。】
【攻撃プログラム自動展開。|《侵食》を開始。】
《電脳視界》に表示される、左腕に内蔵された解体術式が正常起動した証明を見据え、トーリは打ちつけた拳を手刀に切り替えると、横一文字に薙ぎ払った。
手刀に満ちる電脳情報――解体術式が、迸る光芒となって異形を襲う。
【当該対象へ対しての《侵食》――成功。】
【当該対象の電脳情報を|《改竄》(ブレイク)――成功。】
【当該対象へ対しての|《破壊》を開始――失敗。】
「ちっ……!」
攻撃が失敗したことを悟り、トーリは次なる手へと移行する。
だが、それはトーリに限ったことではない。
トーリに攻撃されたクリッターもまた然り。
クリッター――《単眼の怪物》が、咆哮を上げてトーリをその赫眼で捉えていた。
巨大で、両腕と単眼以外が形定まらぬ異形の怪物と、視線が交錯する。
《電脳視界》に表示される『電脳侵食感知』の文字に、トーリは即座に対抗プログラムを走らせて防御する。
一瞬、視界にノイズが走る。
《電脳義体》に対してのハッキング攻撃。クリッターたちの基本的な攻撃手段。|《電脳義体》(こちら)の制御を奪い、抵抗力を失わせてから捕食するための下拵え。
クリッター。情報を喰らう怪物。奴らにしてみれば、この電脳都市も《電脳義体》もすべてが等しく情報によって構築される標的だ。
いや、むしろ――。
クリッターたちが喰らう存在として、《電脳義体》ほど価値ある存在もないだろう。
電脳都市そのものを構築する情報言語は、別に電脳世界にのみ存在するものではない。情報言語はすべての電子情報の世界にあまねく満ちる、いわば世界を構築する言語であり物質だ。
現実で言うところの原子と同じ。それなくしてはあらゆる存在が形成すことが出来ない、そういう物質である。
電脳世界もまた然り。
電子情報によって成り立つ疑似世界である以上、情報言語が存在しない場所などないのだ。違いはただ、情報量の密度だけ。
つまり、個人のあらゆる情報そのものである《電脳義体》は、クリッターたちにとってまさに格好の餌だ。
《電脳義体》を奪うだけで、一個人のすべての情報が手に入る。
《電脳義体》を壊すだけで、一個人のすべての情報が損壊する。
そうなれば、ことは電脳世界だけではなく、現実にすら多大な影響を及ぼすだろう。最悪の場合、国が厳重に管理しているはずの戸籍情報すら消失する可能性だってある。
今や個人情報と《電脳義体》は密接な関係を持つ。《電脳義体》とは、文字通り電脳世界におけるもう一人の自分であり、絶対に貸与してはならず、何より失ってはいけないものだ。
命に等しい情報を有したもう一つの肉体。電脳の世界を生きるための身体。
故に、《電脳義体》などと仰々しい名で呼ばれるのだ。
人一人分の情報の塊。
そのことを、クリッターが理解しているかは不明だ。
だが、クリッターが外部侵入したプログラムである以上、そのプログラム構成には優先順位なるものが組み込まれている。
時に電脳都市の情報を優先するクリッターもいれば、《電脳義体》を優先して狙うクリッターも存在する。
そして、今回のこのクリッターは、
『――GRYYYYYYYYYYYYYYYYYYYY!』
単眼がトーリを捉え、咆哮と共にその異形の腕を振り下した。
電脳都市情報よりも《電脳義体》を優先したか。それとも降りかかる火の粉を振り払おうとしているのか。
どちらにしても、目的は同じだ。
トーリのすることに変更はない。
ただ目の前に佇立する電脳の怪物を、己が電脳の義体で屠るのみ。
振り下される巨大な腕を、屋上から飛び降りて紙一重で回避。同時に襲い掛かるハッキング攻撃を防御プログラムで介入遮断する。
電脳都市が作り出した硝子窓を突き破り、対岸のビルへと飛び込みながら振り返った。
目測一〇メートル弱。腕を振り上げた姿勢で、クリッターが突撃してくる様子を視界に捉え、トーリは一息に走り出す。
デスクや椅子が並ぶオフィスをパルクールの要領で跳び越え、あるいは掻い潜りながら勢いを止めずに疾走する。
けたたましい破砕音が背後から。
《電脳視界》で確認しようとするが、初手のハッキング攻撃を防ぎ切れなかった影響か、ノイズが交じってうまく機能しない。仕方なしに、耳朶を叩く音だけで相対距離を測る。
距離が詰まって来ていた。
感覚による予測時間で、約四秒後に追いつかれる。
正面を見る。再び硝子窓。彼我の距離は一一メートル!
迷わず硝子窓へと突撃し、破片を引き連れながら虚空へと飛び出す。
自由落下する身体を捻り、振り返り様に右手を構える。その腕にはいつの間にか、腕を覆う形状の機械が携えられた。
実弾射出型の大口径重機関銃。
その銃口の先には、こちらを見下ろす電脳の怪物がいた。
狙いを付けて銃爪を引くと、爆発にも似た銃声がクリッターへ叩き込まれる。空気を震わせ、電脳を揺るがすほどのクリッターの咆哮を呑み込む。
勿論、撃ち出しているのは本物の銃弾ではない。銃弾の形をしたプログラム。一発一発がクリッターに対しての|《侵食》攻撃だ。解体術式を用いて生み出された弾丸は、微力ながら着実にクリッターの防御壁を削り取っていく。
クリッター戦において、実銃弾型の銃器による一点斉射はどちらかと言えば非効率的である。
電脳世界において、クリッターへの攻撃手段は『解体術式をクリッターに打ち込むこと』だ。
それは先ほどの様に解体術式を内蔵した機械義手で直接攻撃するなり、解体術式を銃弾型のプログラムとして撃ち込むことだったりする。
即ち、機械義手を用いての近接攻撃は、一回の接触で大容量プログラムを叩き込むためであり。
銃撃を要するのは、連続した攻撃プログラムによる弾幕を張ることで、クリッターの情報解析能力を阻害する意味がある。
近接による攻撃プログラムに比べれば威力は微々たるものだが、クリッターの直接的な攻撃範囲外から連続的に攻撃プログラムを走らせられるため、多くのハッカーは銃撃型攻撃プログラムを重宝する。
――だが、実際の銃器のように扱って射撃する必要はない。
言ってしまえば、トーリの手にしている銃機関銃は実際の銃撃の感覚を体感したいという趣味と兼ねているに過ぎない。
ハッカーの中には、トーリの様に現実よりの銃火器型を用いてプログラムを連発させる者もいれば、逆に現実ではまず有り得ないような遠隔攻撃をする者もいる。
そう。例えば――。
「いっくぜー!」
声を上げて攻撃プログラムを起動させながら、クリッターの頭上に姿を現したエコーの周囲。八つの光の円陣が、少女を護るように展開される。
あれが、電脳銃座。
トーリの手にする重機関銃とは逆に、サイエンスフィクションの如き形なき銃器。電子情報が形作る銃口から光速で撃ち出される、銃弾の形をした攻撃プログラムが縦横無尽にクリッターへと殺到する。
叩き込まれる銃弾が、クリッターの構築プログラムを侵食していくのを《電脳視界》越しに見る。
【当該対象への《侵食》――失敗。《侵食》――失敗。《侵食》――失敗。】
乱立するエラー。
(こいつ……随分と硬いな)
弾幕に晒され悲鳴を上げるクリッターを見上げながら、トーリは内心で舌打ちを零す。
初手の《改竄》以降、防御プログラムの破壊には至っていない。
それでは駄目だ。
それではクリッターは倒せない。
それではクリッターを殺せない。
クリッターを倒す方法はただ一つ。その構築情報を破壊し、中枢コアを剥離させること。中枢コアをクリッターの身体から引き剥がすことで、クリッターは自身の存在を構築することが不可能になる。
逆に言えば、それ以外でクリッターを殺す術は、今のところ存在しない。
クリッターの構築情報を破壊し、電脳上の死に至らしめない限り、この電子の怪物は不滅となり、永遠と電脳情報を貪り続けることになる。
《侵食》――失敗。《侵食》――失敗。《侵食》――失敗。
エラー表示が続く。
此方の《侵食》に対して抗体を有しているのか。それとも単純に防御プログラムのレベルが高いのか。
なんにしても、このままでは埒が明かない。
トーリは意を決し銃撃を止めると、即座に重機関銃を放棄する。投げ捨てられた機関銃がテータの残滓となって消滅していくのを視界の端に映しながら、その視線を頭上で呻く異形へと向けながら、左腕をビルディングの壁へと伸ばす。
機械義手の指が壁を摑み、がりがりと外壁を下ずりながら落下の勢いを殺し制止すると、トーリは壁に足を掛けて大きく跳躍した。
壁を蹴り、反対のビルの壁を再び蹴って再跳躍。
エコーの放つ弾雨に咆哮を上げ、攻撃プログラムを次々と飛ばすクリッターへと肉薄する白衣の少年。
左腕。機械義手に内蔵された解体術式が再び励起。
白光を迸らせた左手が、蒼白の少女と対峙する怪物へと触れる。
――電脳接続開始。
バチン――という雷光が弾けるような音と共に、触れた掌の先から奔流の如く放たれた解体術式が、クリッターの構築情報を虫食んでいく。
クリッターが絶叫する。
自分に触れる害敵を引き剥がすように巨腕を薙ぎ払い、振るわれた腕から撃ち出される無数の雷電が周囲を襲った。
雷撃を受けたビルディングが一瞬で倒壊する。消滅する。
両の腕から迸る雷鳴が次々と四散八散し、周囲に佇立している巨大なビルディングが一瞬で消し飛ぶのを見る。
トーリは即座に攻撃を緊急停止させ、クリッターから距離を取るように自由落下した。
ハッカーが扱う解体術式を遥かに上回る強制消去プログラムによる範囲攻撃の嵐の中を掻い潜り、あるいは防御プログラムで遮断。
対抗手段を考察する。
しかし、それよ理も早く。
「だーもう、鬱陶しい! 一気にいく!」
頭上。
クリッターよりも上方から声が降り注ぐ。
反響音というより大音響のような叱声と共に、紫電の奔流を手に携えた電脳の魔術師が、上空からクリッターへと突撃する。
大容量の解体術式によって組み上げられた電槍攻撃が――
「ぶっち貫けー!」
――裂帛の気迫と共に、クリッターを頭上から貫く。
エコーの放った解体術式の槍が、クリッターの展開していた対侵食防御プログラムを貫通。突き立てられた槍――その形成す解体術式が、内側から直接《侵食》プログラムを起動してクリッターへ注ぎこまれる。
そして――
【当該対象へ対しての《侵食》に成功。】
【当該対象の電脳情報を|《改竄》(ブレイク)――成功。】
(――来た!)
《電脳視界》に表示される『成功』の二文字。
漸く、解体術式がクリッターの中枢へと届く!
「トーリ!」
「応!」
エコーの声に導かれるように、トーリは再びクリッターへ向かって跳躍した。
これ以上の抵抗を許すわけにはいかない。
これ以上の時間を費やすわけにはいかない。
「もう……充分暴れただろ?」
だから、もう斃れろ。
そう、討滅の意思を込めて――
――左の拳を強く握り締め、電脳の拳を叩き込む!
機械義手に組み込んでいる解体術式を選択励起。
自動励起とは異なるそれは、トーリがクリッター戦闘で用いる高攻撃力を誇る戦闘プログラム。
機械義手から撃ち出される解体術式の拳撃は、巨大な白雷の如き光を迸らせながらクリッターを襲った。
【当該対象へ対しての解体術式が命中。】
【当該対象へ対しての|《破壊》を開始――成功。】
【当該対象の構築情報――崩壊を確認。】
《電脳視界》が告げる。
クリッターの構築情報崩壊。それが意味するところは何か?
一言いうのならば、
「――これで、斃せる」
叩き込んだ拳。今尚解体術式の光芒を纏う左腕を持ち上げて――手刀一閃。
朽木を砕くように容易く。
砂城を崩すように手軽に。
破壊纏う左腕が、電脳の怪物の装甲を粉砕して、両断する。
クリッターを形作る構築情報の内側。その中枢。
情報処理機関でいうところの演算機械を。
人間でいうところの心臓を。
それなくしては、活動することが、存在することができない部分を。
――こうして、曝け出すことができる。
脈動する電子核。
それがクリッター・コア。
情報喰らう怪物を形作る心臓部分。
それを見下して、トーリは迷うことなく腕を振るう。
機械の左腕が、
解体術式を宿す掌が、
そのコアに向かって真っすぐと伸びて――
◇◇◇
引き抜いたコアを情報分解し、専用のメールへ添付。電脳都市の警邏――ホワイトハットへ送信する。
これでハッカーの仕事は終了だ。
「いやー、良い稼ぎだったね!」
「まあ討伐難易度に比べたら楽ってのは確かだけど……今回のはちょっとヤバかった」
先ほどまでの戦闘を振り返りながらそう零すと、エコーもまた同意するように首肯する。
「あー、判る。あの腕から出てた、ビリビリーってやつ。強制消去プログラム?みたいのは怖かったし。それにちょっと硬かった?」
エコーの指摘に、トーリは同意するように首肯した。
「うん。初撃で《破壊》まで持っていけなかったし……そのあとも学習したのかな。こっちの《侵食》が通り難かった。改造ってたのかも」
「あー、なるほどね。有り得るかも」
なんて会話をしていると、メッセージ着信を告げる電子音が鳴った。
立体画面を開き、メッセージを確認する。クリッター討伐の報酬額が記されていた。
定例文を流し読みし、最後に承諾のボタンを押す。
これで報酬が支払われたことになる。
「よし。それじゃ、僕はもう戻るよ」
「ふぁぁ……だね! アタシもそうする」
声を掛けると、エコーが欠伸交じりにそう答えた。苦笑するトーリに対し、少女は「む、笑うなよ~」と言って軽く手を振って見せた。
次の瞬間、エコーの姿が半透明になり、続け様に光の粒子となって掻き消える。
そのことに、別段驚くことはない。
見慣れた光景だった。
トーリもまた、エコーが居なくなったことを確認すると、意識を現実に向けて――
【――電脳離脱完了しました。】
――瞬間、意識は現実へと移行する。
電脳離脱時の断絶はなく、違和感なしに視界が電脳都市のものから現実の自室へと変わる。
身体も、同じく。
|《電脳義体》(トーリ)から現実の自分へ。
頸部に備わっている電脳接続端子から有線コードを抜きながら、弥栄透莉はデスクの上に置いてある電子時計を確認した。
現在時刻、〇時一八分。
予定より三〇分ほど長く電脳都市に居たことになるなぁと考えながら、透莉は大きく背伸びしていると。
――ポーン。
という電子音。
電脳越しに届くメッセージ。差出人の名前エコーだ。
(せわしないないなぁ……)
そう思いながら《電脳視界》に情報窓を開いてメッセージを確認。
――――――――――
本日の仕事、おっつかれさーん!
いやー、トーリが居てくれて助かったよ。さっすがはカウボーイ。
おかげで良い稼ぎになったね。
明日は遅刻しないように気を付けてね。
じゃ、おやすみ!
――――――――――
簡潔で、且つ彼女らしい文章に微苦笑を零す。透莉は手短に返事を送り、明日の時間割を確認すると、渋々ながら自室のベッドに横たわり、そのままそっと瞼を伏せた。
◇◇◇
「……行ってきまーす。くあぁ……」
まだ覚醒し切らない頭を必死に動かしながら玄関を出る。昨日、結局寝つけたのはあれから一時間ほど後だった。
おかげで若干寝不足気味である。
盛大に、周囲の視線など気にもしないで欠伸を零し――ふと。
何気なしに、空を見上げる。
そこには一片の陰りもない蒼穹――ではなく、人の手によって造られた巨大な天井が頭上に広がっている。
それは人口の大気層。
正式名称――圏層防護壁。
オゾン層崩壊による紫外線汚染が深刻化した頃に建造された、人工の大気境界層。天上すべてを覆いつくし、人類を護る防壁。
空の景色は人口の風景映像で、天候はレイヤーフィールドの気候操作によってランダムに施工されるものとなって久しい。
当然ながら、空を巨大な板っ切れで覆っているため、長距離移動用の航空機は廃止された。代わりに空を走るのは圏層吊走式車両である。
本物の青空――というものは、最早映像媒体や写真媒体でしか知らない。
この頭上の映像と、実際の蒼穹の何が違うのかは、本物を知らない透莉には判らないが、レイヤーフィールドが造られる以前の空を知る人たちは、まるで頭上の疑似空を嫌うように目を背ける。
なかなかに理解し難い感覚だと思う。
それは、透莉がレイヤーフィールドが造られて以降に生まれた人間だからなのか。それとも単にひねくれているのか。
たぶん後者だ。
《電脳視界》で時間を確認する。現在時刻は七時三十八分。登校時間に余裕で間に合う。
そう考えながら前を見れば、見慣れた背中が歩いていた。足早に駆け寄り、声を掛ける。
「おはよう、各務」
各務、と。彼の名を呼ぶ。
天宮各務。
同じ高校に通う、自分より一つ年上のノンフレームの眼鏡をかけた先輩であり、幼馴染である彼は、振り返って透莉の顔を見ると、不機嫌層の眉を顰めた。
「なんだ、透莉か。おはよう」
「なんだってのは酷い言い草のような……」
「別に、お前を見て顔を顰めたのではない」
「じゃあ、何に?」
「お前の後ろ。その更に上」
そう言われて、納得する。自分の背後。その遥か頭上にある物は、くしくも先ほどまで透莉が見上げていた物。
即ち、レイヤーフィールドだ。
「相変わらず嫌いなんだね、あれ」
「ああ、嫌いだとも。人工投影の空なんて、不愉快の極みだよ。まだ機械の板っ切れそのものだったり、人口灯の光だったならマシだと言うのに……」
そう言って眉間に皺を寄せる幼馴染の様子に苦笑する。
各務は昔からレイヤーフィールドが嫌いだった。口を開けば嫌悪を零す。嫌悪と言うよりは憎悪に近いのかもしれない。どうしてそんなに毛嫌いするのかと聞けば、彼は決まって口を閉ざすけど。
「いい加減慣れたら?」
「慣れると思うか?」
「無理だと思ってる」
剣呑な視線を向ける各務に、透莉は肩を竦めた。すると、
「おっはよーっす。お二人さん、何話してるの?」
背後から声が掛けられた。
振り返れば、服装や髪の色は違うけど、昨日の夜に電脳都市で肩を並べた人物と同じ顔立ちの、明るい色の髪を肩まで伸ばしている少女が一人、微笑している。
「おはよう、響さん」
「おはよう、七種」
男二人がそう挨拶を返すと、
「ういっす透莉。おはようございます、天宮先輩」
そう言って、七種響が軽く会釈した。
「で、何の話してたの?」
「各務のレイヤーフィールド嫌いについて」
「いつものことじゃん、それ」
答えると、響はざっくんばらに言い捨てて肩を竦めた。まったく以てその通りだと、透莉も思う。
「そのことはいいだろう。どうせ話していたって禅問答になるだけだ」
「あれですよね、見解の相違」
「その通り」
響の言葉に肯定の意を示すと、「さあ行くぞ。遅刻するのは御免だからな」そう言って各務は黙然と足を早めた。
(……遅刻って)
《電脳視界》で時間を確認する。
現在時刻、七時五四十四分。此処から学校まで、寄り道をしたとしても二〇分は掛からない距離。どう考えても、登校時間の八時三十分までまだ猶予がある。
「照れ隠し?」と首を傾げる響。
対して、透莉は小さく頭を振って「単に誤魔化しただけだと思う」と返す。と同時、各務が足を止めて振り返った。
「なんだ?」
言いたいことがあるのならば言え、とでも言いたげな視線に、二人は揃って「何でもない」と頭を振った。
そんな二人に、各務は小さく溜め息を零すと、無言のまま再び前を歩き出した。
その後ろを、透莉と響は肩を並べ、苦笑いを交わしながら続く。
慣れたやり取りだ。
朝の恒例。
なんでもない当たり前の情景だ。
いいことだと思う。
嫌いじゃない。むしろ好きなほうだ。
不満があるとすれば、それは少しばかり刺激が足りないということだが、それも問題ない。
解体術式。
《電脳戦技》。
クリッター。
そう言う単語が脳裏を過ぎり、透莉は一人ひっそりと肩を竦める。
不満なんてものは、気にする必要はない。
電脳都市に行けば、そんなものは簡単に解消されることを、自分は知っているのだから。
◇◇◇
――電脳都市。
そう呼ばれる、ネットワーク上に作り上げられた第二の世界。電脳企業ラース機関によって運用されているこの電脳空間の名前だ。
実のように地球と言う名の限られた大地に囚われることもなく、サイバースペースは無限に広げることが出来る。
そしてそれは、今も尚拡大を続けている。
今はまだ試験運用段階で、先進国の一部でのみ施行されているが……いずれは現実よりも遥かに広大な世界が構築され、人類は生活の殆んどをこの電脳都市で過ごす――そんななんて時代が来るのかもしれないと実しやかに囁かれるほど。
勿論、それは今じゃない。
もっと遠い、未来の話だ。
技術の発展は大多数に歓迎されるが、少数以上には批判も生じる。
電脳都市巡って、世界各地でサイバー・テロを危険視する国は多い。
また、公にはされていないが、クリッター問題は電脳都市における最大の問題点だろう。日々防衛体制は進歩しているものの、外部からの攻撃は後を絶たず、ラースは一般アカウントからハッカーを雇う形で対処に迫られているほどだ。
また、電脳が発展したことで生じた、電脳症候群は特に問題視されている。
電脳都市――ひいては電脳世界そのものを絶対視し、電脳に入り浸り続けて、電脳に依存し、現実を蔑ろのする人間が少なくない数で存在している。
そしてそれは一昔前。二十一世紀初頭のインターネット発達に伴って生まれた『ネット依存症』と言う言葉を掛け合わせ、引き継ぎ、『電脳依存症』なんて名前が生まれて、昨今広まり始めているほどで――。
「――だけど、それがどうしたって言うのかなぁ」
電脳ネットを介して覗いたニュースサイトの一面に対し、そう小さく零してみる。
本日の授業を終えて、時刻はとっくに放課後。
特に部活動に参加しているわけでもない透莉は、授業の終わりと共に学校を後にし、帰路についていた。
「電脳依存症……ね……」
もしそんなものが本当にあるのだとすれば――弥栄透莉は、立派な罹患者だろう。
と、透莉は自己分析する。
寝ている時間。
食事をしている時間。
学校にいる時間。
それ以外の殆んど、電脳都市で過ごしている。
悪いことだとは、思ってない。
少なかれど、あの世界こそが自分の居場所だと思う自分がいることを、透莉自身は自覚している。
本当なら、今すぐにでも意識を電脳接続させたいくらいだ。だけど、優先接続以外での電脳戦闘――対クリッター戦に陥った場合、大容量のプログラムを連続使用すると、どうしてもラグが発生する。
それはクリッターとの戦いにおいては致命的な隙になる。
その隙を突かれて、もし《電脳義体》を失ったら――そう考えると、どうにか衝動を抑えることはできるけれど。
それも、いつまで続くことか。
なんて考えていた時だ。
電子音と共に、《電脳視界》に着信を告げるメッセージが表示される。
送り主のアカウント名はエコー。つまり、七種響だ。
メールを開き、目を通す。
――――――――――
ういーっす。今日の授業お疲れ!
今日もログインするっしょ?
アタシも生徒会終わったら行くからさ。二十一時に落合わない?
――――――――――
(……ここにも一人いたな。立派な罹患者が)
不覚にも、メール文を見てそんなことを思ってしまったのは秘密だ。言ったら絶対殴られる。ような気がする。
「……了解――と」
短く返事を返し、透莉は帰宅した。
玄関を開けて「ただいまー」と口にしようとして――そういえば、両親は今日から暫く出張でいないことを思い出す。
幸い、両親が出張でいないのは珍しいことではなく、その結果料理は一通りできるから、食事に問題はない。
むしろ――親の監視がない分、時間の限り電脳世界にログインできる。そう思ってしまった自分に苦笑を零しながら、透莉は自室に戻るや否や、電脳接続するための有線を引っ張り出し、自身の電脳端子へ接続した。
さて、今日はどうしようか。
二十一時には響――エコーとの待ち合わせがある。
それまではクリッターの情報収集をするか。それとも解体術式のプログラムを見直すか、新しく組み立てるか……。
そんなことを考えながら、透莉は再び電脳都市へと意識を接続する。
【――電脳接続を確認しました。】
【ミスター・トーリ。ようこそ、電脳都市シティ・キョウトへ。】
そうして今日もまた、白衣の少年――トーリは、電脳都市へと足を踏み入れた。
本作品は、現在サイバーパンク×スチームパンクを題材として書いている長編小説のプロローグにあたる部分を短編として構築しているものです。