(7)
カーテンを開け、曇った窓の結露を払うと、透き通った青い瞳と目があった。覚悟してなければ、情けない叫び声をあげていたかもしれない。状況は軽くホラーだ。
考察の結果、妄想女という結論を導き出した長壁鏡花がそこにいた。
ガラスを一枚挟んだ向こうで、彼女は無表情のまま、僕を指差し、肩を抱えるジェスチャーをして、再び僕を指差してきた。どうやら「寒い。中にいれてくれ」と訴えかけてきているようだ。
見なかったふりしてカーテンを閉めると、バンバンバンと激しく窓を叩かれた。死にかけのセミが激突を繰り返してるみたいだ。
暖気を失うのは気乗りしなかったが、空気の入れ換えも必要か、と思い立ち、仕方なしにクレセント錠を引き下げた。
「今日みたいな日に野宿したら凍死するね」
「話はそれだけか。風が冷たいからもう閉じるぞ」
「待ってくれ。今晩も寝るところがないんだ。どうか慈悲を」
鏡花は屋根の縁に立っていた。
僕の部屋は二階にあって、窓を乗り越えれば一階の屋根部分に出ることができる。小さい頃はふざけて理由もなく屋根に出たものだが、今となっては遠い記憶の彼方だ。
それにしても忍者ばりに気配がしなかった、屋根を歩くバカがいれば、足音で気づくはずなのに。
「僕は窓からの人物をお客様だとは認めない。ファーストステップとして玄関から来てくれ」
「私だってそうしたいさ。だけど家に知らない女の人がいて怖いんだもん」
「お前が言うな」
ていうか、それは母さんだ。
鏡花は潤んだ瞳でサッシに手をかけ、懇願するように頭を下げた。彼女の後方には冬の夜が広がり、点々と輝く生活の灯りが、非日常にトリップしかけた僕を辛うじて繋ぎ止めてくれていた。
「お得意の洗脳で母さんをもたらしこめばいいだろ。その時は本気でぶん殴るけどな」
「通常私がいるだけで、その人物の警戒心を払うなんらかの設定を植え付けるハズなのに、三吾とその母親にだけこの力が使えなかったんだ。なんなんだ君たちは。怖い」
「母さんの家系、神職だからじゃないかな。継いだのは叔父さんだけど、才能あったらしいし」
「う、むむ。わからん。血統というやつか。私の適応能力が効かないなんて珍しい家系だ」
「どうでもいいや」
首を捻る彼女に窓を大きく開けてやった。飼い猫を出迎える時って、こんな感じなんだろうか。
吐き出す息はすぐに白に染まって、寒風が肌に突き刺さる。
「入れよ。窓を開けっぱなしにしてると、暖房の効果が出ないだろ」
「ありがたい」
ふてぶてしい態度で礼を言うと、サッシに足をかけ乗り越えようとしてきた。立ち位置をずらし、彼女が入りやすいようにのけ反る。意図せず見下すような形になったが、フードを目深に被った彼女は気にした様子もなく、頬を紅く染め、俯いたまま微かに片頬を吊り上げていた。
「おい待て」
「な、なにさ」
「まさかそのまま上がる気か? 靴ぬげよ」
「大丈夫。私、数センチ浮いてるから」
「その設定で誤魔化せるのはPTAだけだ」
ポテトチップスを買ったときについてきたビニール袋を渡し、ブーツを入れるように指示する。
不貞腐れた様子でガサガサと黒いブーツを袋にしまってから彼女は僕の部屋に入ってきた。
「おぉー、ふさふさだぁー」
素足だった。絨毯の感触を足の裏で楽しむ彼女に背を向け、机の上に出しっぱなしにしていた本を鞄にしまいながら訊ねた。
「それで、誰を襲ってきたんだ?」
唇が乾燥してカサカサになっていた。なるたけ興味なさげにしながら、僕はズボンのポケットにいれた荒尾の名刺にそっと触れる。
「襲う? なにを?」
「図書館前で吸血してくるって言ってたじゃんか。意気揚々と十和森中にとって返してさ」
「うん。行ってきたよ。学校」
「誰の血を吸ってきたのさ。あの時間だと部活か委員会で居残ってる生徒か先生だけだよな」
「吸魂と言っただろう。私は人を襲ってない」
心外だな、と言わんばかりに唇を不服そうに尖らせた。
言ってる意味のわからない僕は、ポカンと口を開けっ放しにしてしまう。
「学校のように閉ざされた空間は情念が蓄積されやすいのだ。私が食したのはその残留思念。薄味だが、久方ぶりの食事、楽しむことができたよ」
おっしゃる意味がわかりません、と叫びたい衝動にかられながら、精一杯冷静さを保った。
「あんたのいう魂は心魂であって霊体ではないだろ。実体として捉えられない存在を認識するなんて、どんなに偉い哲学者でも不可能だと思うんだけど」
時計の針が進む音がいやに響いていた。
蛍光灯の柔らかな光に照されて少女は少しだけ微笑んだ。
消音装置が壊れているらしい自転車がけたたましいブレーキ音をたて、窓の外の坂道を下っていった。
「単純に精神的に隠れた部分を広義に魂と呼んでいるだけ。それは動植物に宿るものであったり、肉体を離れて放浪しているものであったり」
一気にオカルト色が濃くなる。鏡花の独壇場だ。
「……学校は幽霊が集まりやすいと聞いたことがあるけどそんなの全部エセ超能力者の戯言だろ。賑わっていた施設が静まり返った時に、違和感で居もしない第三者を造り出しているだけさ。妄想だよ」
鏡花は着ていたコートを脱ぎながら、鼻で笑った。
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
「漫画の読みすぎ」
「サブカルチャーは好きだけど。……三吾はモデルがあるからストーリーが成り立っていると考えたことはない?」
「物語の類型ってやつだよ。同一構造のモチーフを扱えば、そりゃ被るさ」
「考えられることは得てして現実に起こりうることだ」
コートを手に持ち、中学の制服姿になった鏡花は、「うーん」と伸びをしながら「満腹」と呟いた。
僕はこいつを信用していいのだろうか。
人畜無害なふりして、寝首をかかれるのは、サブカルチャーではよくある展開だ。
でも、だとしても、僕を裏切って得することなんてなにもないだろうし、裏切るもなにも、元々信頼関係なんて築いてもいない。
冷静になろう。
物事には必ず裏があるのだ。
鏡花が僕に絡むなにかが。