(6)
例えば人生がノベルゲームだとして、たった今、目の前の鏡花について「いく」「いかない」の選択肢が二つ出ているとする。どんな行動をとっても自分が傷つくことのない世界なら前者を選ぶのもいいだろう。往々にして行動しなければ物語が進まないのもよくあることだ。
だけどこれは現実で、得たいの知れない少女の世迷い言に付き合って、これから先プラスがあるとも思えないので、当然答えは「いかない」になるのである。
鏡花は少し残念そうに「そう」とだけ呟くと、もと来た道を引き返し十和森中学に向かっていった。闇がすぐそこまで近づいてきた夕暮れ時だ。
願わくは再会することのないよう、と彼女の背中に十字をきる。
僕は家に帰ることにした。大体吸血行為を見せつけてどうしたいのだ。気分が悪くなるだけじゃないか。
早足に家路を急ぎ、わが家にたどり着いたのは鏡花と別れて数分後のことだった。
寒風に首を縮めながら、フェンスのような門を押した時だった。
「なあ、鬼を見なかったか?」
元宮ノ下邸の前に一人の男が佇んでいた。
紺のモッズコートを羽織った、ずいぶんと若い男である。背中にはギターケースを担ぎ、髪の毛は派手な金色に染められていた。
辺りはほの暗く、ようやっと表情がうかがい知れる程度だが、鼻筋が通った長身の男性だった。
夕闇に彩られた住宅街は、死んだように静まり返っている。
「鬼、ですか? 隠れんぼ?」
「いやいや違う。人を食らう悪鬼だよ。放っておくとマズいんだ」
「えーと、大変そうですね」
「心の隙間につけ込んで魂を奪う、俺らは吸魂鬼って呼んでんだけどよ。見かけなかったかい?」
やべぇ。この人も見かけによらずアレな人だ。街灯に照され、浮かび上がった笑顔が胡散臭い。
「生憎と検討もつきません。鬼ごっこ頑張ってくださいね」
門に手をかける。こういう手合いは否定するのでなく、肯定してから話題をそらすのが常道と、心理学の本で読んだことがある。
キィという甲高い音をたてた門を潜ろうとした僕を、男はなおも呼び止めた。
「ひょっとしてイカれ野郎だと思ってないか?」
「まさか。可哀想な人なんだな、としか」
門柱に寄りかかりながら吐き出した息が、夜のとばりにじんわりと溶けていった。雲に滲む月明かりが間接照明みたいで綺麗だった。
「鬼ってなんなんですか」
「正体がはっきりしない化け物のことだよ。この辺りにいるのは確実なんだ」
やはりというかなんていうか、この人、鏡花のことを探してるっぽい。
彼女と先に知り合ってなければ、無視して帰宅してもいいのだけど。
「放っておく、っていう選択肢
はとれないんですか?」
「いるだけで迷惑な存在ってのはあるもんでさ。あまりに高次元的過ぎる生物は多次元世界を引き付け、この世界を上書きしちまうかもしれないんだ」
「抽象的すぎて言ってる意味がかわかんないんですけど」
「目先の事実としては、人が襲われる。さらに発展的な言い方をしてしまえば、そいつがいるだけで、この辺り一帯の次元が濃縮され世界の法則が乱れるんだ」
「具体的にはどうなるんですか?」
「いっぱい死ぬな。待ち受けるのは破滅だ」
嘘臭せえ。
僕より身長低いあいつがワールドワイドなわけないだろ。
「知ってることがあるなら、教えてくれ。この通り手詰まりなんだ」
男は両の手のひらを空に向け肩をすくめた。人を小バカにするようなアクションをとって協力を願うとはずいぶんと変わった人だ。
「僕は知りませんけど、心当たりならあります」
「本当か!?」
「受話器を持って百十と入力するだけで、人探ししてくれる便利な組織がありまして」
「警察じゃねぇーか!」
「難点としたはイタズラと勘違いされてしまうところですね」
憎々しげに睨み付けてくる金髪の男。冗談が通じないなんて困ったもんだ。
「ところでなんでその鬼とやらを探してるんですか?」
「俺がこの地区の魑魅魍魎を管理してるんだよ。前任者は宮ノ下だが、肝心の鬼についての情報を引き継ぐ前に亡くなられてね。途方にくれていたんだ」
「それはまた胸が痛む話、ですね」
数年前ならワクワクと話に乗ってあげただろうが、今の僕は来年に控える高校受験という現実と向き合わなくてはならない難しいお年頃。
「特徴とかないんですか? 角がはえてるとか、虎のパンツはいてるとか」
「溶け込むのが上手いやつでな。環境適応能力というかカムフラージュというか、違和感に気付ける人じゃないと絶対な見抜けない。だがどうやったってボロがでるもんなんだ。奴は人じゃないからな」
「素っ裸でほっつき歩くとか?」
「まさかそこまでは」
似たようなことはしてたけどな。
気温はどんどん落ち込むばかりで、天気予報によると今週末、雪が降るらしい。冬は好きだが寒いのは苦手だ。
「見たところお前はずいぶんと変わった感性を持ってるな」
「誉めてるようには聞こえません」
「いやいやべた褒めだよ。羨ましいかぎりだ。悪鬼羅刹は特異な魂を持つ者が好みだからね。お前さんなら見つけられそうなもんだが、どうだい?」
「まったく全然。検討もつきません」
鏡花が人に害をなす敵性生物か、早急に判断を下す必要はないだろう。
「そうか。気づいたことがあったら、気軽に連絡してくれ」
男は歩きはじめ、すれ違い様に名刺を差し出してきた。勢いで受け取ってしまう。「じゃあな」と友達のような気さくさで挨拶をかまし、彼は夜の闇へと消えていった。
玄関の灯りで照らされた名刺には携帯番号と『荒尾澄志』『フリーター』と綴られていた。
それは職業じゃない。
家に帰るとすでに母さんがいて、夕飯の支度を始めていた。その間にお風呂に入り、夕飯までの一時を図書館から借りてきた本を読み進める。
寝転びながらの読書ほど至高なものはない。
図書館から借りてきたバンパイア伝承を取り扱った書籍は思っていたよりずっと専門的で、頭が痛くなるばかりだったがどうにか読破することができた。
話をまとめておこう。
速読に近いパラ読みで得た、付け焼き刃程度の知識だが、彼女の異常性を再認識するのに役に立つかもしれないし。
さて吸血鬼と聞いて一般的にイメージするのが、お高くとまった夜の住人といったところだろう。現に僕もそういうものだと思っていた。
しかし、本場、東欧などの吸血鬼は、青白い顔してフラフラと町をさ迷うゾンビみたいなモンスターのことを云ったらしい。これは墓荒しを始め中途半端に掘り返された死体や、キチンと死亡確認されないまま埋葬された生者が酸欠から脳をやられて町を徘徊したりと、死者が蘇ったという噂の流布により生じた怪物のようだ。
ずいぶん前に読んだエドガー・ア・ランボーの早すぎる埋葬では土葬による生き埋めの恐怖を延々と語っていて、火葬を主にする現代日本にはない感覚だと感想を抱いたのを思い出す。
このようなゾンビめいた吸血鬼のイメージを高潔な物に変化させたのが、産業革命後の生活が豊かになり刺激に餓えた19世紀の西欧である。18世紀の時点で東ヨーロッパから吸血鬼伝説は伝わっていたが、この伝説を一躍有名にしたのはなんといってもブラム・ストーカーだ。彼はルーマニアの「生ける死体」とトランシルバニアの串刺し公ことヴラド・ツェペシをモデルに「吸血鬼ドラキュラ」を書き上げ、当時にはないリアルさでベストセラーを記録した。原作のドラキュラはまだ野獣の趣を残していたが、映画版では退廃的な貴族イメージをもとにつくられ、今日の燕尾服で貴族めいたバンパイア像というものは「ドラキュラ」が作り上げたといっても過言ではない。ドラキュラとバンパイアを混同させる人が出てくるくらい有名な作品だ。
そんなバンパイア勢に対し、鏡花が名乗るノスフェラータことノスフェラトゥというと、どうしても知名度に劣る。そのせいか資料が全然見当たらなかった。ノスフェラトゥを扱った映画はあることにはあるが、版権の問題でドラキュラが使用できなかった代わりに使われただけなのだ。そもそもノスフェラトゥもバンパイアと同じようにルーマニア語で吸血鬼を表しているらしい。解説では、ハゲ頭でゲッシ類を思わせる出っ歯らしく、映画のオルロック伯爵は伝承通りの様相をとっていた。ドラキュラ以前のバンパイアのイメージに近いそれは、少女めいた無垢さをもつ鏡花とは似ても似つかない。
吸血鬼とはなんなのだろう。辞書をひいてみれば人の生き血を吸う魔物と文字通りの意味を解説される。ため息ついでに、そうなるように至ったプロセスを考えてみる。
本にはたくさんの考察が書いてあったが、ここからやや突飛な持論を展開しようと思う。
吸血鬼はある種の病気が民間伝承化したものじゃないだろうか。
それは嗜血好きを表すヘマトフィリアなどの精神疾患ではなく(もちろんそれもあることにはあるだろうけど)、具体的な病名をあげてしまえば狂犬病だ。
狂犬病患者は感覚器が痙攣し水を恐れ、光を反射する鏡なども苦手になると聞いたことがある。匂いにも敏感になってニンニクなんてきっとたまらないだろう。罹患者は精神錯乱に陥り、正常状態では考えられない奇抜な行動をとるらしい。
その興奮状態が吸血鬼伝承のもとではないだろうか。狂犬病を媒介するのはなにも犬だけでなく、コウモリや猫も媒体生物らしいし、噛まれたら感染する、という点でも当てはまる。
思えば吸血鬼には最強という称号に相応しくない弱点が多数存在している。
例えば流れる水は渡れない、とか。
日光が苦手だ、とか。
そんなことを考え、吸血鬼は狂犬病がモデルという結論に一人至る。
さて、本題。
長壁鏡花に関してはどうだろう。吸血鬼という現象について考察してみたけど、実際に自分が吸血鬼だ! と名乗る少女が現れ、影がないという証拠まで見せられたのだから手放しで否定は出来ない。
まずは伝説と長壁鏡花の乖離について考えてみよう。弱点に関しては日本という四方が水に囲まれた島国に来て、曇りとはいえ真っ昼間に歩いていたので、水と太陽光は当てはまらないし、残されたものでパッと思い付くのはニンニクと十字架くらいだが、効果のほどは期待できそうにない。
ん、そうか。
やっぱり彼女は吸血鬼ないし狂犬病なんかじゃなく、定義付けを行うのなら、吸血鬼に近い新種の生物あるいは化け物、もしくは思い込みの激しい女の子。
影がなかったこととクラスに普通に溶け込んでいたこと、彼女が異常性を発揮したのは精々この二つだ。明日になってより落ち着きを取り戻せばこれらの問題にも方をつけることができそうだ、と納得したところで、部屋の窓がノックされた。