(4)
馬脚を露せと迫ることは簡単だが、感じた恐怖はけして気のせいではない、慎重に行動を選択すべきだろう。現在の性別が女子であろうと、長壁鏡花は確かに『彼』だったのだ。
こいつは二年三組の異質物。
打ち解けたわけではないと理解しているのか、彼女が僕に話しかけてくることはなかったし、こちらからも声をかけることはしなかった。
授業の合間合間も常に彼女の動向から目を離さずに観察を続けた。現状への突破口になるのではないか、という考えより、半分以上が単なる好奇心だったように思う。
水槽の金魚を眺めたり、後ろの席の柿沢と仲良さげにお喋りしている様子を見る限り、年相応といった感じである。
単に僕が狂ってしまっただけなのか。
そういった不安が積み重なった休み時間、手っ取り早く出席簿を確認してみることにした。脳が視界にフィルタをかけ、全部都合の良い情報に置き換えていなければ、確かに『長壁鏡花』の欄には、今日の日付にだけ丸印がつけられていて、以前は欠席を表す斜線が連続で引かれていた。それに初登校してきた生徒に対し担任が一切触れないというのは考えられない。確信は固まる。長壁鏡花は登校拒否児童の男子だ、断じて銀髪の少女ではない。
お昼休み。弁当を持った山本と野々村が僕の席に集まってくる。なぜか知らないが集合場所になっているのだ。机をくっつけ、円卓を囲むように顔を合わせる。昼飯を食べ終わったら、大富豪をするのでこの陣形がちょうど良いのだ。
柿沢は言われる前に席を離れ、仲の良い女子の席に向かっていた。銀髪も一緒だ。
「そういや知ってるか?」
「その時点で質問されても知らないとしか答えられないじゃん」
「細かいこたぁいいんだよ」
憧れの君の椅子に腰かけ弁当を広げる山本は、ゴシップ好き特有の声音でボソボソと始めた。
「ディスプレイ用の制服が盗まれたらしいぜ」
「どういう意味?」
美術部の野々村は可愛らしく小首を傾げた。女子みたいな顔立ちがコンプレックスなくせして、仕草は完璧女の子だ。
「来賓用出入り口の近くにのガラスケースの中に制服着たマネキンが展示されてたじゃん。それが盗まれたんだってよ」
「マネキンごと?」
「んなわけあるか。制服だけだよ。しかも女子の。野々村、お前じゃないのか?」
「僕じゃないよ。でも犯人はそんなの盗んで何したいんだろうね」
「そりゃあ、あれだろ」
「あれってなにさ」
「しょ、食事中に下ネタはさすがに言えねーな!」
そんなん考えてんのお前だけだよ。
卵焼きを口に放り込む。うまい。
「意味わかんないや。三吾はわかる?」
「いや。インターネットとかで売るんじゃないかな。うちの制服って人気あるし」
「あぁ、コスプレってやつだね」
思ったより冷静に、僕は自分を納得させていた。一つの疑問が解決されたわけだ。セーラー服ならまだしも、ブレザータイプの制服を入手するのは骨が折れる、盗んでしまうのが手っ取り早いだろう。
箸でプチトマトを器用につまんだまま山本は続ける。
「でもどーやって盗ったんだろうな。ガラスは一切割れてないし、侵入された形跡もないんだってよ。密室だし、犯人は煙かゴキブリか」
「合い鍵持ってたんじゃないの?」
「盗まれたのが制服だけってのが、ミステリーだよなぁ」
ちらりと女子のグループに目をやる。
黒のなかの銀はどうやったって目立つのに、誰も疑問は抱いてなさそうだった。
なんにせよあの服は埃臭そうだ。
「それはそうと聞きたいことがあるんだけど」
僕は声をひそめて尋ねた。
「長壁っていつ頃転校してきたっけ?」
いきなりの話題転嫁にキョトンとしていた二人は、声を揃えて言った。
「一学期」
なにを当たり前のことを、といった感じだ。質問を続けさせてもらおう。
「何月ごろ?」
山本と野々村は顔を見合わせた。
「突然なんだよ。えーと何月だっけな」
「たしか五月だったよね」
「ああ中旬だな。十五日とか」
「うん、そうだ。その辺だった」
二人同時にこちらに顔を向け、
「ファイナルアンサー!」
と叫ぶ。
「いや、答えわかんないから、訊いたんだけど」
僕の記憶と一致する時期だ。もっともその場合の長壁鏡花は登校拒否の男子だが。
「なんだって長壁さんの話をするの?」
野々村が冷やかしを行う時みたいに瞳をキラキラさせて訊いてきた。
かまかけてみるか。
「んー、長壁って結構休みがちだなぁ。って思ってさ」
「そうだねぇ」
「男のくせにだらしないよな」
「? 三吾なにいってるの?」
野々村は首をかしげた。
「長壁さんは女の子だよ」
やはりそうなってるのか。
窃盗について知っている者がいたら名乗り出るように、とわざわざ担任からのお達しがあったが、長壁の場所まで奪った盗人はしれっとした表情で聞き流していた。なんと図々しいやつだろうか。
そんなホームルームが終わり、放課後の清掃活動中の事であった。一切口を交わしていなかった銀髪が、喧騒が支配する廊下を愚直に掃く僕の肩に手をやった。
「この後、少し残れない?」
肌が粟立つ。
対峙する前にキチンとした情報収集を行っておきたいと考えている僕は答えに窮した。
クラスメートと担任、合わせて三十数名の記憶を改竄するほどの力を持った少女だ。企みはみえないし、どのような感情を抱いているのかもまるで想像つかない。真っ向から向き合っては姉貴のように容易く懐柔されてしまうだろう。僕の目的は危険人物たる彼女との距離の見定めだけなのだ。 そのためには侵食に気がついていないふりをしなければならない。
「悪いけど、今日はちょっと早く帰らなくちゃいけない用事があって」
「どんな用?」
「図書館に本を返しにいかないと。期日が今日まででさ」
「何を借りたの?」
「カプグラシンドローム、ってミステリー小説」
「なるほど。だが、それほど時間は取らせない」
「水曜はいつもより早く閉館しちゃうんだ」
一瞬だけ、訝しむ視線を寄越したが、長壁は疑うでもなく残念そうに微笑むと「そう。なら仕方ない」とだけ呟き、僕に背を向けた。上履きがスリッパのように上下し、パタパタと音をたてた。
そんなタイトルの小説があるのか知らないが、どうにか誤魔化すことが出来たらしい。
箒の柄に顎を乗せ、廊下の奥へと小さくなっていく背中を見送る。
「上履き、サイズがあってないようだね」
「う、うむ。少しだけ大きいかな」
「少し? 親指一本分は大きいじゃん」
「私の足が縮んだんだろう」
そんなわけあるかと、思ったが口には出さなかった。
よくよくみれば、ブレザーもぶかぶかだ。
「今度の服装検査、危ないかもね」
「あぁ。そうだね」
胸騒ぎの残る引き際を不安に感じながら、清掃活動に戻ることにした。
下校時刻を迎えたわけだが、彼女はどこに帰るのだろう。
最期の最期で現状に変化が訪れないことを、校門を出たところで思い知った。
雨でもないのにフードを被った少女は中学生に似つかわしくない黒いブーツをコツコツならし、
「図書館に行くんだろ?案内してくれないか」
北風にコートの裾をたなびかせて立っていた。
ギョッとした。
十和森中学校は自動車道路に面して建てられている。歩行者用信号機に寄りかかりながら僕が来るのを待っていたらしい。
待ち伏せを経験するのは初めてだったが、気持ちのいいものではない。
僕は青信号になるのを待ってから彼女の横を素知らぬ顔ですり抜けた。
そもそもこいつに関して不明瞭な点が多すぎる。
昨夜、一人きりで僕んちのチャイムを押したこともそうだし、なんといっても自然にクラスに溶け込んでいることが異常だ。
「あっ、ねぇ」
そんな得たいの知れない少女と仲良く図書館なんて行ってられない。
曇天は深いねずみ色に染められていた。
「待て」
無視だ。
そのまま他の児童に混ざるよう、歩みを早める。
「待って」
無視を続ける。
小学生が白線の上をぴょんぴょんと跳ねている横を通り、ちょうど道路を渡りきったところで、彼女は僕の右手を息を切らせて掴んだ。
はずみで数歩進んだところで、強制的に歩みを止められる。靴底がすり減る音がした。
「やっと止まってくれた」
「……手を放してくれないか。そんなに強く握られても、迷子センターに案内なんて出来ないよ」
「低血圧なんだ。あまり急かすな」
ゾッとするくらい冷たい手のひらが、一抹の不安感を助長させる。
「付きまとわないでくれ。お互いに無関係でいればそれでいいだろ」
すんでのところで語気が荒くなるのは防げたが、文面までは抑えることが出来なかった。ここで焦って最悪の結果を引き当てるより、今は情報収集に専念したほうが得策だ。
こいつの心中は想像つかない。
僕らの間に、厳しい冬をアシストするような北風が通り抜けた。
彼女は暫しキョトンとしていたが、ゆっくりと躊躇うように手を放した。
一瞬の良心の呵責。謝罪の言葉を続けようかと、口を開きかけた僕は、
「そうはいかない」
どん、と押されて、背後の茂みに倒れ込んだ。
文字通り景色が一転する。
空をゆっくり、カラスが廃棄物処理場に向かって飛んでいくのが見えた。
横断歩道を渡りきった先は公園になっていて、僕を受け止めたのはそれを囲むように存在する冬枯れた生垣であった。
昨夜の雨で湿った土の臭いが鼻を刺激する。何事か、と現状を把握するより先にパニックになる。
彼女はそのまま僕に馬乗りになってきた。
触れたことのない柔らかな感触と、言葉で言い表せられない良い香りに鼻腔がくすぐられた。
「な、なにをっ……」
碌な言葉が吐けない。
えらい端正な顔立ちの少女だ。不埒な考えが浮かばなかったといえば嘘になるが、それより先に浮かび上がったのは純粋な恐怖心であった。
ためらいなく人を押し倒す少女はどこかタガが外れているのではないか。
身動きが取れない。耳はただ枯れ枝がパキパキ折れていく様を捉えるばかり。先程掴まれた手首同様、温もりがいっさい伝わってこなかった。柔らかな鋼鉄製のぬいぐるみを抱いているようだ。
彼女はからかうように、僕の体を軸にして這い上がると青い瞳を楽しげに細めた。フードからはみ出た銀色の毛先が僕を擽る。
それから心臓の鼓動を確かめるように片耳を胸に押しあて、小さく、
「いい匂い」
と囁いた。
「っうう!」
渾身の力をもって押しのけた。街路樹として植えられている柳の木に背中をぶつけ、彼女は非難するような目で僕を睨み付けた。
「痛い」
「こっちの台詞だ!」
「無視しようとするからだろう」
すっくと立ち上がり、お尻を軽く叩いてから、彼女は生け垣に半分埋まったままの僕に手をさしのべた。
「休戦協定。なにを恐れてるのか知らないが、三吾に危害を加えないことを約束しよう。お互い腹を割って話そうじゃないか」
「……ちょっとまってくれ」
その手を無視して膝に力を入れる。
彼女は若干ショックを受けたような表情を浮かべてから直ぐに合点がいったように慌ててコートで自身の右手を拭った。意味がわからない。
自分の力だけで立ち上がり、なるたけ対等になれるよう背筋を伸ばし対峙した。
「歩行者が僕らに見向きもしないってのはどういうことさ」
「気づいてたか」
押し倒された時から違和感は感じていた。
イヤホンを耳に差した若い男性が一切こちらに目をやること無くスタスタと歩いていった。
今だって信号待ちしている中学生は僕たちに視線を寄越そうともせず、ゲームの攻略法とかこの後の遊びの予定だてとかで盛り上がっている。こんな面白い見世物があるのに、だ。
歩行者用信号の色が変わった。
「簡単に言えば、我らは著しく見えにくくなってるのだ。路傍の石は意識しなければ無いものと同じだろう。そういった操作が得意なんだ」
「あんたは、超能力者なのか?」
「少し違う」
わずかばかり誇らしげに彼女は手を広げた。
「チーターがとんでもない速度で走っても超能力とは言わないだろ。人間にとって当たり前のことも猿には異常であることも多々ある。つまり一見不思議な出来事も、私という生物にとって自然の技術がこの力というわけだ」
言っていることは半分も理解できなかったが、異常性だけはひしひしと伝わってくる。
これでも不思議な現象には慣れているつもりだ。
制服についた枝や葉を取り払いながら、冗談めかした言い種に腹がたった。
「なんだそれ。僕らは猿でおたくは人間ではない、と? 幽霊ってのはもっとアヤフヤなもんだと思ってたけど」
「君の定義がなにも出来ない人を指すなら、私は間違いなく人間ではない」
「お目出度いな。盲信しすぎじゃない? もうちょっとグロテスクな容姿になってからクトゥルフ神話入りを目指すべきだよ」
「見た目はともあれ、私は人間扱いされないから」
「そんじゃあんたは自分が化け物とか宇宙人とでも言うのか? 精神科か映画監督を紹介したいところだが、生憎知り合いに居なくてね、悪いが一人でやっててくれ」
「化け物や宇宙人、か。言い得て妙だ」
「なんにせよ僕には関係ない話だよ。長壁鏡花のふんどしで相撲をとるのは敗けがなくて愉快だな、っていう嫌みだけ、言わせてくれ」
僕の言葉を受け少女はキョトンと目を丸くした。彼女が長壁鏡花の場所をも奪っていることに気がついているとばらしてしまったが、まあ、なんにせよ同じことだろう。これ以上こいつと付き合って非日常の扉を叩くのは得策ではない。
「あんたが不気味な力を持っているのだけは認めてやるよ」
「場所を奪いたくて登校したんじゃない。長壁鏡花になったのはただの副産物だ」
「それじゃなんで学校に来たんだよ。不審者扱いされなかったのは運がよかっただけだぜ」
「純粋に三吾に会いたかっただけ。まさか認知されるとは思ってもみなかったけど」
「はぁ? 新手の宗教勧誘か? 悪いが僕は無信教をモットーにして、」
「化け物として、君の魂の秘密が知りたい」
息を飲んだ。
どこからか落ち葉がアスファルトの地面に音もなく落下し、つむじ風がさらっていった。
「化け物って、……いや、さっきのは言葉の綾だよ。つまらない喩えを真に受けるのはよしてくれ。悪かったよ」
「違う。嘘偽りなく私は人間ではない」
凍てつく風が僕の頬を殴る。それなのに脂汗が玉になって地面に落下した、気がした。
「冗談、だろ。つまらないぜ、それ」
「ここで誤魔化す意味はない」
くすりと微笑みを浮かべた。
「なぜ意識操作が通用しないのか、ここまで力が及ばない人物には初めて会う。いくら私の、いえ、もっと単純な言葉で言えば」
そう言ってから、彼女は僕を指差した。
「君にことを聞かせて」
少女の鈴を鳴らしたような声は届かず、僕の思考はある疑問に支配されていた。
「に、人間じゃないなら、なんなんだ」
流れをぶったぎった質問ではあったが快く返事をしてくれた。
「そうだな。わかりやすく定義付けするのならぁー」
一瞬だけ考えるそぶりを見せたが、僕の問いに対する解答を常に持ち合わせているのだろう。
「吸血鬼、という種族が一番近いかも知れん」
いとも容易く、ごく自然を語るように、信じられないような、ありえない、回答が、桜色した彼女の唇から放たれる。
混乱の渦に囚われようとする僕を対岸から眺める、なんとものんびりとした様子で彼女はゆっくりとフードを取る。
銀髪が風にさらわれ、粒子を放つようにキラキラと輝いた。心配になるくらい細い指で彼女は地面を指差す。
目を疑うべきか頭を疑うべきか迷うところだが、僕は確かに異常性を認めてしまっている。
彼女の影には頭部が存在していなかったのだ。
カラスの鳴き声が折り重なるようにこだました。