(3)
風呂あがりの火照った体のまま リビングにいくと、食卓にハンバーグが鎮座していた。オニオンスープとシーザーサラダ付きの、なかなか豪華な夕食だ。
「私ってやっぱり天才かもしれないわ」
姉貴はウーロン茶を冷蔵庫から取ってきて「んー」と伸びをしながら椅子に座った。すでに銀髪の少女も腰かけていて、僕が来るのを待っていたようだ。
これ以上待たせると不条理な暴力が飛んできそうなので、椅子をひいて腰を落ち着けた。
三人で声を揃え「いただきます」と手を合わせる。
「他の家族は?」
箸を器用に使いハンバーグを切り分けながら、少女は真っ直ぐに僕を見つめ訊いてきた。
肩まで伸びた綺麗な銀髪が、蛍光灯に照らされ、きらきらと輝いている。
「母さんは看護師でね、週二回くらい夜勤があるんだ。父さんは出張で、きっとたこ焼きでも食べてるだろうさ」
「姉弟で二人きり、というわけか?」
「そうだね。明日の昼になれば母さんは帰ってくるけど」
「ふぅん」
彼女は興味なさげに鼻をならし、小さな口を開けてハンバーグを頬張った。
「美味しい?」
「うん」
「少し玉ねぎ入れすぎたかと思ったんだけど、大丈夫だったみたいね」
ボソリと味の感想を述べた少女に姉貴はケチャップで描いたハートマークを延ばしながら最上の微笑みをもって応える。崩すなら最初から描かなきゃいいのに。
「んで、あなたの名前はなんていうのかしら?」
「……」
暫く無言で考えてから少女は口を開いた。
「ジェーン・ドゥ」
本当だろうか。名乗るのにいやに時間がかかっていた気がするが。
「ジェーンの家族はどうしてんの?」
姉貴は一瞬だけ真剣な眼差しになったが、すぐに笑顔で少女の警戒心を塗りつぶそうとした。
虐待を疑っている本命の質問がこれなのだろう。気まずい沈黙が流れる。
「ジェーン?」
「……?」
姉貴のこれだけ真剣な表情、RPGのラスボス戦でしかみたことない。
「ジェーンの父さんや母さんは?」
「そうだった。私がジェーンだった」
忘れてたのかよ。
「そうだな。母が陽子と知り合いで、私だけ先にこっちに越して、えーと、挨拶しようと寄ったんだ」
「陽子って、宮ノ下さん? それじゃあ……」
「まさか死んでるなんて思わなかったがな。途方にくれていたところを伊地香に声かけられたんだ」
「そっか、大変だったね。家族はいつ頃くるの?」
「一週間後くらいかな。たぶん」
「ご両親くるまで結構あるわね。独り暮らし色々忙しいでしょ。困ったことがあったらすぐに言って。力になるから」
「あ、ありがとう」
矢継ぎ早な質問責めに、辟易した表情で答えている。僕は我関せずと麦茶で喉を潤した。
「どの辺りに引っ越してきたの?」
「……三丁目、らへん」
「お寺の近くかしらね。どう、引っ越しは進んでる?」
「うん。あとは親が来るのを待つばかり」
「学校といえば、あなたは今年で何歳なの?」
「えーと、十四歳かな」
自分の年齢を忘れそうになるのは大人の特権だと思ってた。
「中二? ひょっとしたら、三吾と同じ十和森中?」
「うん。中学生」
「転校してくるのよね。なん組になったの?」
少女は助けを求めるような瞳を僕に寄越した。
岡目八目の精神で二人の問答を眺めていたが、あからさまな虚偽の返答の繰り返しだ。
「ん。んー、三組?」
訊ねられた。あんたの脳内設定なんだから、好きな数字を言えばいいだろ、と思うが、ぼくの口は今オニオンスープで塞がれている。
「おっ、三吾も三組だよね?」
頷く。
「わぁー、同じクラスじゃん。やったね、爽やか三組ー!」
やんややんやと囃し立てる姉貴に、少女は小さく「しゃ!」とガッツポーズをしてみせた。意味がわからない。
九十九パーセントの確率で、少女のプロフィールは嘘の塊なのだが、万が一、ということもある。ほんとにこいつは僕と同じ中学生なのだろうか。体格は完全に小学生なのに。
「ところで中学はどこにあるの?」
「県道のすぐ近くなんだけど、わかるかしら」
「ちょっとわかんない。最近創立されたのか?」
「かなり前からあるわよ。少なくとも十年以上前にはね。まあ、迷うようなところにはないし、すぐに道覚えるよ」
「なるほど。ところで伊地香は高校生?」
「んっふふー、ダメよー。女の子に年齢尋ねちゃ」
「す、すまない」
「ピッチピチッの女子大生です!」
結局言うのかよ。
信用という要素は一欠片もなかったはずなのに、疑り深い姉貴がこうも容易く陥落するとは、僕にとっても予想外だった。ほだされた、というべきなのだろうか。完全に泊まっていくことが確定しているのが恐ろしい。
他人に対する用心をどこにやってしまったのだろう。
僕の警戒心まで流されてしまう前に、「おやすみ」と自室にこもることにした。最後に見た二人は、仲良く肩を並べてテレビゲームをプレイしていた。
ベッドに腰かける。
ジェーンと名乗る少女はやっぱり異常だ。なにもかもが胡散臭い。
あいつの話は辻褄が合わないのだ。
通常転校生などの振り分けは春のクラス編成の時点で、男女比や人数、担任の力量などを考慮して、あらかじめ決められているものなのだ。だが、二年三組は一度「長壁鏡花」という男子生徒を編入させ、加えて僕のクラスは女子の比率のが高い。
それらを鑑みたとき、あの銀髪の少女が三組に振り分けられる可能性は著しく低いだろう。
もとより、彼女が嘘をついているのは火を見るよりも明らかだ。三丁目に家があるなら、なんでわざわざ雨に濡れたのか。
机の上に放置されていた電子辞書の検索窓を呼び出し、なんとなしに『ジェーン』と入力する。アメリカかぶれの友人に聞いた記憶があった。
ピョンピョンとリンクを踏んで、英和辞典にたどり着く。
ジョン・ドゥ……、嘘の名前、女性名詞はジェーン・ドゥ。つまりは名無しの権兵衛だ。
いやはや恐れ入った。
ここまでプロフィールを知られないよう、注意しているとは。よほどなことがあるのだろうか。
あぐらを組み、意識をまぶたの裏の暗闇に集中させる。背理法のような確認作業。なにか視えてくるだろうか。
気がついたときは朝になっていた。
どうやら寝てしまったらしい。眠気は無かったはずなのにガクンと意識が落ちたところまでは覚えている。結局夢は視れなかった。
「朝か」
制服に着替えながら、ため息をついた。
あの子は姉貴の部屋でイビキをかいているだろう。
憂うつな気分は晴れない。
リビングで菓子パンを頬張りながら、テレビをぼんやりと眺める。
無味乾燥な一日のはじまり。いつも通りの日常。正体不明な奴が家に居なければ、だが。
玄関でローファーを履く。最終チェックの意味も込めて、寝癖を靴箱の上の置き鏡で確認しようとしたが、なぜだが知らないが鏡が伏せられていた。
なんだかんだで重宝してたから、文句言わなかったけど、伏せたらなんの意味もないじゃないか。
元のようにたてて、十数年で見飽きた自分の顔を映し出す。
今日も今日とてつまらん日常の始まりだ。
通学路は制服を着た連中に溢れ、白い息がセメント色した町景色をモノクロに変えていた。
早朝も底冷えするような寒さだ。本当に気が滅入る。
登校を終えたのは八時半のチャイムと同時のことだった。
教室の扉を横にスライドさせ、アクビを噛み殺し足を踏み入れる。
「よっすミヤチー。今日も冷えんなぁ」
敷居を跨ぐと同時に、友達の山本が僕の肩を叩いた。柿沢以外にミヤチと呼ばれると首の辺りがゾワゾワしてくる。
「おはよう山本。前々から言おうと思ってたけど僕の名字はクドウだ。ミヤフジじゃない」
「はぁ。瑠花はお前のことミヤチって呼んでるじゃん」
「あいつには幾度となくやめろって言ってきたが、改善しないから諦めたんだ」
「かぁー、いいよな。幼馴染みって」
山本はボウズ頭をボリボリかいた。
こいつから柿沢を好きだと聞いたのは去年の修学旅行中でのことだ。
旅館での好きな人発表会で、「よーし、じゃあ、一斉のせっで好きな人言い合おうぜ、せーの、……いえよー!」っというありがちなトラップに引っ掛かり一人だけ自分の思い人を暴露したのだ。単細胞の山本幸弘、それから彼は開き直って、友達にアシストを依頼するようになった。
ちなみに柿沢の好きなタイプは「クールで知的で頭がいい男の子」ということは、熱血硬派剣道部の彼に教えていない。
「今日も遅刻ギリギリだから、気を付けろよ」
「間に合えばいいだろ」
「何事も五分前行動! 基本だろ?」
「運動部精神を帰宅部に押し付けないでくれ。朝から疲れたくないんだ」
「バッカだなぁ、運動部なら三十分前行動、先輩が来る前には道場の掃除を終わらせないといけないからな」
「愉快な精神だ。尊敬する。ご苦労様です」
「棒読みやめろよー」
がっはははと豪快に笑って僕の背中をバシバシ叩いた。痛てぇ。
担任が職員会議を終えて教壇に立つまでまだ幾ばくかある。
山本の暑苦しさから逃れるよう、自分の席に移動した僕は、鞄を机の上に置き、羽織ってきたダッフルコートを椅子にかけた。
悴んだ手が暖房により急速に暖められていく。冷えていた血潮が熱湯に変化し全身を駆け巡る。
クラスメート達の談笑が暖房の稼働音を飲み込んでいく。
笑い声がひしめく室内は活気という点では文句のつけようがなく、曇り空で少ない太陽光や閉められたカーテンによる閉塞感も吹き飛ぶほどの朗らかさだ。
「おはっよー! ミヤチー」
本家本元から挨拶された。
隣の席にいそいそと着席する柿沢。どうやら、朝のガールズトークは終了したらしい。
「おはよう柿沢」
「昨日は傘ありがとね」
「どういたしまして。いつでもいいから、元の場所に戻しといてくれ」
「あらほらさっさー」
そういえば、置き傘を貸していたんだった。
柿沢はなにがそんなに楽しいのか、にこりとし、
「それにしても今日も雨降りそうだねぇ。雲も分厚いしネズミ色してる」
わざとらしく、人指し指をたてて説明口調でぼやき始めた。
「そうだね。だけど今日は雨降らないよ」
「瑠花は学習するからね、今日はちゃんと傘持ってき……、え?」
「夜の八時くらいから一雨あるけど、僕らには関係ないでしょ」
「う、嘘だぁ。天気予報でも降水確率七十パーセント越えてたし」
「夜がね。太陽が出てる間は関係ないよ」
「騙されたぁ!」
悔しそうに机にだれてから柿沢は、元気な声で、
「ところでさ、ミヤチ!」
ガバッと顔をあげた。
「今週の土曜のこと、忘れてないよね?」
「土曜?」
掲示板にかけられたカレンダーに目を向ける。一月の第三週、冬休み明けのだらけきった気配も抜けきる頃合いだろう。
デートの予定も入ってないし、強いて言えば姉貴がゼミ合宿でうんぬんかんぬん言ってたけど、柿沢には関係ないだろ。はて。
「ひっどーい! 忘れてるよぉ」
「まて、落ち着け。柿沢。君がなに欲しいか考えてただけだ」
そうだった。来たる今週末は柿沢が生まれて十四回目のバースディだ。
「ほんとにぃ?」
「ああ。神に誓って嘘はない」
下唇を「むぅ」と尖らせてから、柿沢はいかにも不機嫌そうに、
「お花つみに行ってくる」と立ち上がった。
おしとやかなのかそうじゃないのかよくわからない宣言だ。
とにもかくにも僕の嘘はばれているらしい。長い付き合いだからな。
すたすたと頭から湯気を出しそうな雰囲気で、ドアに向かって歩きだした。
「おはよー、長壁さん」
「おはよう」
その途中での挨拶だろうか、快活とした声が耳に飛び込んできた。柿沢は誰に対しても別け隔てなく明るく接し、皆に一目置かれる存在である。苛めなんて許さない、ショートカットの活発な女の子だ。そんな彼女が朝の挨拶を交わす風景は別段珍しい事ではないが、気になったのは、呼び掛けられた名前の方である。
長い壁と書いて、おさかべ。
転校してきて一度も顔を出したことがない、不登校児。
まさか。
学校恐怖症の彼が姿を見せたとなると、いやが上にも好奇心が疼く。
出来る限り顔を動かさず、視線を声のした方にずらした。
昨夜の少女が当然といった表情で立っていた。青白い肌を昨日と同じ赤いコートで隠している。
「なっ」
驚愕が漏れる。
幸か不幸か、その声に気づかぬまま、少女と柿沢は朝の挨拶を交わし、離れていった。
少女はコートを若干躊躇うようしてから脱ぎ、割り当てられたロッカーにいそいそとしまった。ありえないことに十和森中の制服を着ていた。裸じゃないだけましだが、どこから手にいれたものだ?
違和感に支配される。あってはならないことだ。長壁は男子のはずで、断じて女生徒のはずがない。ましてや銀髪の少女だなんて。
まさかほんとに転校生?
いやしかし、なぜ長壁鏡花の名前で?
そもそも柿沢はなんでこいつのことを知っていたんだ?
パニックに陥りながらも辺りを慌てて見渡してみた。
嫌というほど見慣れたクラスメート達。教室内部に異質な存在を感じているのは僕しかいないようだ。
しかし彼女が『長壁鏡花』であっていいはずがない。
驚愕でだらしなく口を開けっぱなしにしていた僕に気がついたのか、悪戯な笑みを浮かべ少女はペタペタと足音をたてながら僕の席に近づいてきた。
手のひらが多汗症でもないのに湿る。
脳内の危険信号が赤を全身に伝達する。
逃げなくては、逃げなくてはならない。
なぜそう思ったのか、わからないが、僕には、目の前に迫る矮躯が、人を食らう巨大な鬼のように感じられたのである。
危険を察知しながらも、極限状態のまま動けずにいた。
手を伸ばせば触れられる距離に迫った少女は、僕に一瞥をくれ、左前の椅子を引いた。
状況が理解できずに、呆気にとられる。僕を無視するように正面を向いて、彼女はそこに腰をおろした。
そう、か。
飲み込んだ唾が大きな音となって体内でこだました。
長壁鏡花は僕の斜め前の席だった。
一人で勝手に緊迫感を楽しんでいただけだった。彼女にしてみれば、僕は誘蛾灯の周りを飛ぶ一匹の羽虫でしかないのだ。
澄ました顔で正面を向く、少女。
それを横目に見ながら安堵の息をついた瞬間、教室の扉を開け、担任である坂口教諭が出席簿を持って現れた。
トイレに行きそびれた柿沢は廊下から慌ててUターンするように駆け足で戻ってきた。