(27)
タックルを受け、僕と荒尾は一緒くたになって崩れ落ちた。積もった雪が全身を包み込む。
柔らかな白い地面が沈むと同時に飛びかけた意識が、ブーメランのように戻ってきた。
立たなくては!
手のひらを広げて地面につけるが、冷たい雪が傷に染みるだけだった。うまく力が入らない。
先に立ち上がったのは荒尾の方だった。
僕の体は、廃品回収に出す粗大ごみみたいになってうまく動いてくれなかった。
今度こそ限界だ。指先さえ、動かせない。綿アメのような雪の布団が気持ちよくって、まぶたを綴じればすぐに眠れそうだ。
薄く開けられた目にこちらを見下ろす荒尾の表情が写った。
「ただの人間でも死にかけの小僧と落ちぶれた吸血鬼なら、存分にいたぶって殺せそうだな」
肩を握られ、仰向けにさせられる。顎に靴先を当てられた。ズキズキと骨に響く痛みより、夜よりも真っ暗な瞳が僕のことを見下している。
「そのまま這いつくばって死ぬか? 一切の容赦はしねぇ」
蹴られた。ガチンと歯がぶつかる音と一緒に脳内に星が瞬く。次にこめかみに衝撃が起こり、脳みそがシェイクされた。
痛みはどんどん下に向かう、そういう拷問を楽しんでいるようだった。
「おら、なんか言ってみろよ!」
心底楽しんでいるように僕をいたぶる。狂気という言葉が、本当にお似合いだった。
頭を抱えて我慢することしかできない自分が惨めだ。
「いつもの威勢はどうした? 断末魔を聞かせろよ。おら!」
蹴られる。突き刺すような痛みが襲いかかる。
「……っ、……哀れだよ」
「ああん?」
「あんたは暴力でしか自分を表現できないんだ」
鳩尾に衝撃をうけ、息がうまくできず、ただジッと暴力という嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。死という概念が脳内を駆け巡る。
「言ってる意味がわかんねぇよ。なんだってぇ?」
「し、真の自分があんたにはないんだ。それを誤魔化すために幾度となく成り代わる。こ、滑稽だよ。誰になったってあんたの空白は埋められないのにさ」
「はっ、人間性を失った俺でも、どっちが強いかくらい想像がつくぜ。見てみろよ、希代の吸血鬼殿下の惨めな姿をよ」
「っ」
髪を掴まれ、上半身を無理矢理起こされた。滲んだ視界に飛び込んできたのは、左目を失い、沈んだ呼吸を繰り返す鏡花の姿だった。
「折角の容姿が血に汚れて台無しだねぇ。そう思わねぇ?」
荒尾はグッと僕を持ち上げ、音がなるようにビンタした。
「シカトしてんじゃねぇよ」
声を出す元気もない。全身を襲う痛みが当たり前のようになっていて、このままポックリ逝くのが最上級の幸せに思われるのだ。
だが、
僕を見つめる右目に勇気を貰った気がし、あとのことを彼女に託すことにした。
「きょ、うか」
掠れた声しか出ない。舞い散る雪に音が吸収されていないか不安になった。
「遺言か? もっとはっきり言えよ。聞こえねぇだろ」
荒尾のヤジを気にせず、頭髪を捕まれている現状をぬぐいされるよう、なるたけ声量を上げて続ける。
「と、時には、前ばっかりじゃなくて、足元を確認してみるべきだよ」
血が吹き出して止まらない。頭が痛くて、さっきまで全身暑かったのに、だんだんと寒くなってきた。だらんとした右腕から血が垂れて、白い雪の上に赤い斑点をつくる。一週間前の僕はこんな惨状を想像できただろうか。
「チャンスってのは、案外、て、手元に転がってるもんだから、さ」
言い終わると同時に、思いっきり押され、熱湯風呂に入れさせられる芸人みたいに、また雪上に倒れこむ。ほんとこいつは大嫌いだ。
鏡花は一切の反応を見せず銅像のような固まったまま虚ろな瞳をこちらにむけていた。
運命というのは、僅かなことで大幅にズレる。
予期しきれないから普通は気にはならないものだが、彼女がいるその位置は、本来、僕が倒れ伏せる予定の場所だった。どこでずれてしまったのかわからないが、幸運がもしあるのなら、どうか生きて笑っていてほしい。
頬で撫でる雪の粒が擽ったかった。僕が思わず瞳を閉じてしまったのは、景色と一緒に雪が飛び込んできたからだ。
手ぶらなら警戒されないだろ。
やりつくしたゲームで宝箱の中身が開ける前からわかるように、最短クリアを目指すのだ。
「そんでさぁー」
いつのまに、という表現がしっくり来るだろう。荒尾は刀を持っていた。
これみよがしに、それをふるい白い地面にざっくりと刺す。
「三吾はいま死ぬ? それともあとで死ぬ?」
片膝をつけて、倒れ伏せる僕を覗きこみ、荒尾は言葉を続けた。
「選ぶ権利を授けるぜ」
寒すぎて、思考回路すら凍りついてしまったみたいだ。ご自由にどうぞと口を動かそうとした、その時だった。
「ゲスな亡者が。蒙昧を隠して神様気取りとは笑わせる」
人形のように力なく、茂みに寄りかかったままの鏡花が凛とした声を張り上げた。
「あ?」
荒尾はピタリと動きを止め、雪がうっすらつもり始めた鏡花を見やった。
偉そうな先生が糾弾を受けたとき、似たような表情をしていたことを思い出した。
「なりそこないの吸血鬼がなにをほざいてやがる」
酷く滑稽な反論に見えた。
語彙とか発音とかそういうものではなく、空気が鏡花のものに変わったのだ。
「惨めだな。すがり付いて泣き叫ぼうにも、貴様を守る母親はいない」
僕らは依然として危機的状況にあり、それはなにがあろうと揺るぎない事実なのだけど、彼女が発した声だけで、場の主導権が移ったのだ。
それを本能で理解できているからだろう、荒尾は苛立ちを隠そうとせず、大きな舌打ちをしてから、柄を握って歩き始めた。
「不死人に成りたての小娘が。そんなに死にたいのなら、殺してやるよ」
足跡が彼女に向かって延びるたびに、僕は声を出そうとしたが、気の抜けた空気が漏れるだけで、うまくいかなかった。
「本来なら思考する力を失うくらい殺し尽くしてやるところだが、今はささっとそのムカつく視線を潰してやりてぇ。さっくり殺してやるよ」
「そうやって虚構を吐いて鎧を纏うのも、貴様の弱さの現れだ」
「いまのうちに言ってな。すぐに舌を切り取ってやる。そん次はそのイラつく眼球だ。手足を切り取って芋虫にしてから、首をちょん切ってやる」
北風に揺らされたブランコが錆びた金属の擦れる音を響かせた。
「安心しろよ。どんなに傷つけても、血肉さえあれば、お前は俺として生まれ変わるだけだからな」
「最悪の、……未来だ。だが、例え、……そうだとしても」
鏡花は微かに顔をあげ、右手で髪をかきあげた。
「断言しよう。貴様を救う神は現れない」
鏡花が雑言を吐き出すと同時に、荒尾は灰色の夜空に向かって飛び上がっていた。雪を巻き上げて、まるでバスケットゴールにダンクを決める選手のように、高くそれでいて正確に、鏡花の顔面に膝蹴りを食らわせていた。冬枯れた茂みの枝がぱきぱきと折れる音が響く。
一瞬で数メートル移動できる脚力が、鏡花の小さな顔に、衝撃を伝えたのだ。
常人なら意思どころか魂さえも彼方へ追いやってしまうだろう。
「立場ってのが理解できねぇのなら、寝かしつけるしかねぇよなぁ」
茂みに突っ込み、押し潰された少女の顔は、血で汚れてよく見えなかった。
ゆっくりと彼女は起き上がろうとしたが、途中で力尽き、縁石を枕にするよう横に倒れてしまった。雪の上に血しぶきが広がる。
「長い人生に終止符を打つんだな。カーテンコールは一切なしだ」
冷たい言葉が武器に変わる。両手で握られた柄を水平にし、
「死ね」
白刃が反射し、淡い光を放つ。
握りしめた刀が、鏡花の首筋に向かってまっすぐ降り下ろされた。あたかも居合いの達人のような所作。
無声映画をスローモーション再生したみたいに、景色はゆっくり瞳に飛び込んでくる。
今際というべきか、迷ったが、僕はたしかに鏡花の残された瞳に光が宿っているのを見た。
ギロチンの刃が彼女の首に届くことはなかった。降り下ろされた刃はべつの刃に止められたのだ。ガキンと甲高い音が僕の耳に遅れて届いた。
「んなっ!」
そして、荒尾の声。
鏡花の手にはノコギリが握られていた。
宮ノ下さんから受け取り、僕が今朝そこに配置したノコギリが。
木こりが使う頑丈なやつだ。日本刀の一撃でダメになるなんてことはまず無いだろうし、ましてや退魔目的に精製された代物、化け物という言葉が似合いの荒尾に壊せるわけがない。
弾かれた刀はあらぬ方向を向いていた。落ちる雪が彼の焦りを助長させる。
体を起き上がらせた鏡花は踏み込み、そのままの勢いで、ノコギリを振るった。雪の下にずっとあったノコギリは、きっと血よりも冷たいだろう。
荒尾の目が驚愕にひんむかれるのがよくわかった。
荒尾は刀を持ったまま咄嗟に左手で襲い来る一撃をガードした。その腕に突き刺さる数多の刃。自らの痛みを倍返しにするように、鏡花は冷徹な瞳のまま、彼の皮膚を削り取った。布と一緒に舞った血しぶきをかぶりながらも、怯むことなく鏡花は攻撃を畳み掛ける。
男の情けない悲鳴とともに、ズッという形容しがたい音が耳に届いた。
有利な状況は油断を生み、彼の首に再び傷をつけたのだ。
釘穴よりも大きな、取り返しがつかない傷を。
荒尾の手から刀が滑り落ちる。
「んな、え?」
現状が理解できていないのだろう、不気味な声を吹雪のように吐き出している。
やはり一撃で寸断とまではいかなかったらしい。食い込んだいくつもの小さな刃を鋭い瞳で見つめ、鏡花は言った。
「瑠花に詫びる時間をやろう」
なにが自らの身に降りかかったのか理解できていないのだろう。荒尾は定まらぬ視線だけを辺りに漂わせている。
先程まで凶悪な威圧感を纏っていた男だとは思えない、彼は餌を求める金魚みたいに口をパクパクさせ、
「る、か……?」
パックリ裂けた傷口から血液が止めどなく溢れていた。
「だ、れだ、それ」
荒尾はそう呟いた。
全身の血液が逆流するのではないかと思われるほどの怒りが僕を支配する。喉が張り裂けるほどの叫び声をあげる前に、鏡花はすっと、定規で線を引くように、ノコギリをスライドさせていた。
雪が降っている。
幻想的なその景色は、過ちを許す綿毛のようだった。
「起きろ。三吾、全部終わった」
二つになった荒尾の死体に、彼が持っていた日本刀を突き刺してから、鏡花は倒れ伏せる僕を揺れ動かした。
「三吾、おい」
耳だけが、僕の五感で現役だった。
疲れすぎて、猛烈な眠気に襲われた僕は、優しい夢に身を預けようとしていた。
「目を覚ませ。なに寝てるんだ」
激しく揺れ動かしているのが、なんとなく、感覚の奥底でわかった。だけど何故だろう、僕の精神は自らの肉体を俯瞰するように遠いところに存在しているようだ。
鏡花の鈴を鳴らしたような耳心地の良い声も遠くなる。
すべてが幻のようにあとに残るのは暗闇だった。
右も左も、前も後ろも、上も下も、なんにも存在しない無感覚。
重かった肉体でさえ、いまは軽く感じる。感慨は一切感じなかった。終わりも始まりも、肯定も否定も、束縛も自由も、喜びも悲しみないこの世界に特殊な感情を抱くはずがない。
なのに、なぜだろう。
虚空で満たされた心が煩わしい。
誰かを殺して、達成感を感じる鈍感さはあっても満足感を発生させるバクは
起こらなかった。復讐を遂げたとき腹を抱えることができると信じていたのに、僕は自分の感情に裏切られたのだ。
忘れよう。忘却さえあれば、僕はまた軽々と世界に旅立つことが出来るのだ。醜い空虚は置いていけばいい。……どこに?
落ち着きだけが支配する脳内で、僕はまだ死にたくないな、とぼんやりと思った。
ふと不思議な温もりが僕を包み込んでいるを感じた。
どこから来たのかわからない、謎の滴が、自分の頬に落ちてきていると気がついたとき、すんなり瞼が開いていた。
元の世界に戻ってきたんだ。
大切ななにかがキスを通じて伝わってきている。
柔らかな鏡花の唇は、すべての傷を癒すかのごとく最大多数の魅力が詰まっていた。
僕にかかる吐息が、幸福へのきざはしに感じられた。
ゆっくりと唇を離して、彼女は涙をためた瞳で僕をジッと見つめ、微かに微笑んだ。
苦しみはなかった。
さっきまで全身を突き刺していた痛みは潮が引いたように感じなかった。
「きょ、うか」
それでも精神はボロボロだ。謎のダルさで喉を震わす。
鏡花は小さな手のひらで泥で汚れた僕の頬を撫でた。体温が伝わってくる。
「おはよう、三吾」
ふわりふわりと天から舞い落ちる雪の粒は残酷な世界を救済するかのように、バカな僕にも降り注いでいた。




