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「ただいま」

 と大声をあげるとリビングから小さく「おかえり」と返ってきた。お味噌汁のいい匂いがする。

 体に積もった雪をはたき落としてから、玄関で靴を脱ぎ、キッチンに立つ母さんに風呂の準備が終わっているか尋ねてみようと考えていた時だった。背後でガチャンと音がして、草臥れた表情の姉貴が立っていた。

「もおう疲れたぁ」

 ガラガラとキャリーバックを沓抜にあげ、背負った大きな鞄をドダンと床におく。そのまま足ふきマットを座布団にして、ブーツの紐を解き始めた。

「お、おかえり」

「ういー。もう、それにしたって、なんだって急に雪が降るかなぁ」

 器用な手つきで足を解放させ、いつかと同じ不貞腐れた顔のまま、ニット帽でキラキラ輝く雪の結晶を払い落としていた。

「あら、玄関で私のことを待ってたの? 感心感心」

「違うよ。僕も出掛けてたんだ」

「なぁんだ。つまらないの。それで、どうだった三吾。おねぇちゃんがいない四日間、寂しかったかいー?」

 しゃがんだまま振り向いて、イタズラな笑みを浮かべている。

「まあね」

「ふふふー、だろうね。あぁ、お腹すいたあ。優衣ママのご飯が恋しいわぁ」

 手袋をひとまとめにしてコートのポッケにしまいながらリビングに向かって歩き出そうとする姉貴を慌てて呼び止める。

「ちょっと姉貴。荷物」

「私の部屋にあげといてくんない?」

「やだよ。ぜったい重いでしょ、それ」

「重いか重くないかで言うと軽くはないわね。そんな重いものをか弱い女性に持たせると言うの? 三吾鬼畜ー」

 僕より五歳以上年上のくせにずいぶんと子供じみた言い種だ。

「はいはい。わかったよ。キャリーバックの方は運んであげるから、そっちの鞄は自分で持っててよね」

「サンキュー」

 にこにこ笑いながら身を屈めバックの紐を手につかむ。そのまま脱衣場へ歩き始めた。洗濯機に直接汚れた衣服を入れようとしているのだろう。

「上でいいの?」

「うん。そっちはお土産とかだから、私の部屋にお願い」

「了解」

 結構気合いをいれて持ち上げたのだけど、キャリーバックは予想以上に重くてよろついてしまった。

「大丈夫?」

「うん、平気。それにしても重いね、これ。何が入ってるの?」

「秘密秘密」

 木彫りの熊が五、六個入っていそうな重量だ。持ち上げるだけでも大変なのに、さらに階段を使って上に持ってけというのだから、姉貴はなかなか人使いが荒い。

「ありがと三吾、愛してるわ」

 茶化すように言って、彼女はスタスタと歩き始めていた。

 かいまみえるあどけなさに、家族は救われ、姉貴のお陰で、僕はこの非日常の現実に狂わずにいられたのだ。

「僕も……」

 小さく口の中でだけ、呟く。

「愛してる」

 この想いはカタチにすらできない、歪んでひしゃげてぐちゃぐちゃの、どろどろとした沼の底に沈殿した、夏のヘドロよりも汚ならしい感情の絞りかすだ。

 バタンと閉められた扉の風圧が僕の立つところまで届いた気がした。

 仮に、どんなに言葉を選んで吐き出したって、返ってくる答えは見えている。

『あんたのことは好きだけど、あんたと愛し合うと私の大切な人たちが悲しむことになるからそれはできないの。話はそれだけ? お土産渡したいんだけど』

 極めていつも通りの口調でセンスの悪いキーホルダーを差し出しながら、彼女は言うのだ。

『三吾、あんたも大切な人たちにふくまれるのよ』

 見えすいた結果を無理して現実にしなくてもいい。

 生きて帰った時、せっかく普通の姉弟みたいな関係になれたのに、ぎくしゃくする必要ないのだから。

 だけど、……結果がわかっていても、この感情は知っていてほしい気がした。


 夕飯が最後の晩餐にならぬことを祈りながら腹におさめ、自分の部屋に戻った。鏡花は昨日と同じようにベッドに寝そべり、携帯ゲームをプレイしている。まったく緊張感がない。

「おいおい、荒尾との約束忘れてないだろうね」

「平気平気、十一時までまだ二時間近くもあるんだ。それまでにモチベーションあげておかないとね」

「だといいけどさ」

 当たり前のことだけど、伝書鳩は喋れないから手紙を足にくくって飛ばす。だけど人には立派な口がついているから、手紙を書かずにメッセージ気軽に託すことができるのだ。

 言葉は壁を隔てるほど、正確に伝わるとは限らない。伝言係が責任感を感じないクソヤロウだとしたら、約束は知らぬ間に破棄されてしまうのだから。

「それより鏡花、お腹減らないか?」

「んー、君の魂を食して今は満腹だよ」

「そういうことじゃなくて物理的にだよ」

「私は餓死しないし別に食べる必要ないぞ」

「そう言うなよ。飯食って体力つけたほうがいいだろ。なにか食いたいものある? 今からコンビニ行こうと思うんだけど」

「それならポテトチップスを頼む」

「厳禁なやつだな」

 コートを羽織り、ドアノブに手をかけた。

「あ、三吾」

「ん」

 呼び止められて振り返る。鏡花はゲーム機から顔をあげ、澄んだ瞳でこっちを見つめていた。

「コンソメ味で頼む」

「了解」

 その可愛らしさに思わず鼻で笑ってしまった。眉間に軽くシワを寄せながらゲームに戻る彼女をそのままに、僕は扉を静かに閉じた。


 雪は降りやむことなく、歩き続ける僕の肩を濡らし続ける。数分に一回傘を揺らすと、一気に積もった雪が滝のように地面に落ちた。コンクリートで舗装された道でさえうっすらと積り始めている。

 白く延びる道に一人きりの足跡を刻みつける。


 公園には九時になる五分前についた。傘を閉じてブランコの柵に引っ掻ける。冷たい綿毛が全身に降り注ぐ寂しい夜だ。それなのに、はっきりと天が雲に覆われているのがわかるくらい、景色は明るく感じられた。大きく伸びをすると、高く高くどこまでも飛んでいけそうな気がした。

 日が暮れてから振りだしたので、キャンパスは踏み荒らされることなく広がっていた。バスケットゴールやブランコが竹のように白い地面から生えているように感じられる。中央に立って荒尾が訪れるのを待っていると、急に鼻が熱くなった。鼻血が吹き出したのだ。あらかじめ用意しておいたティッシュで受け止めすぐに止血する。ポタリと雪上に落ちた一滴は、降り続ける新たな粒に紛れていった。

「大降り、だなぁ」

 雪だるまくらいすぐ作れそうだ。

 くすんだ赤に染まったティッシュをポケットにしまい、寒さに首を埋めて腕を組んだ。端からみたら大降りの雪のなか棒立ちの不審人物に違いない。

 昼間見た公園の景色は白く変えられ、僕の平衡感覚を狂わせた。枝から滑り落ちる雪の音がいやに響く。それ以外はシンシンと降り積もり音だけが、鼓膜を支配していた。

「……」

 もっともっと降り注いで、こんな残酷な世界、覆い隠してしまえばいいのに、と思った。


「宮藤三吾」

 名前を呼ばれて振り向くと、道路に面した入り口近くに荒尾が立っていた。昨日と同じモッズコートにギターケースを背負っている。信号機の赤色に染められ、不気味さが際立っていた。

「ノスフェラトゥはどこだ」

「やぁ、遅かったじゃないか。安心してくれよ僕も今来たところさ」

「よくわかんねぇーな。なんだってそう寿命を縮めたがるんだか」

 リズミカルな足音をたてて、ゆっくり近づいてくる荒尾は威圧感を徐々に強大なものにしていた。

「ちょっと待ってくれよ。伝言は確かに伝えたさ」

「伝えた上でいないってことは、見捨てられたってことだな。見せしめ決定だ」

「やれやれ、落ち着けって。確かにあいつはどっかに行っちまった」

 言葉を大切に選ぼう。なにが地雷になるか分からないのだから。

「だから、一つ僕から提案させてくれ」

「はぁ」

 心底意味が分からないと言った表情を浮かべて荒尾はピタリと立ち止まった。

 それを合図に僕は言葉を続ける。

「お前がノスフェラトゥを襲いたいのは、成り代わりたいからだろ?」

 舌打ちされたが、無視して続ける。

「なぜならノスフェラトゥは不死生物だから」

「ああ。そうだ。だからどうした」

 荒尾はすんなりと頷いたが、彼のその素直さの裏に、ノスフェラトゥの様々な恩恵が隠されているのがなんとなしに理解できた。鏡花のような人畜無害なやつがノスフェラトゥならいいんだ、こいつのようにどす黒い魂の持ち主がノスフェラトゥになったりしたら、それだけで事態は凶悪の二文字で綴られる。

 僕はなるたけ鈍感を気取って言葉を続けた。

「とはいえノスフェラトゥと対峙すると、お互い無傷ではすまない」

「それはどうかな。昨日力を試してみた限り、ノーダメージでも行けるかもしれねぇな」

「いまは、そうとも限らないさ」

「なに?」

 明らかに纏っていた空気が変わったのがわかった。殺気を帯びたのだ。

「今、彼女は僕に宿っていた不死性を回収し、従来の力を取り戻している」

「……宮藤三吾。おかしいと思ったんだ。腹を突き抜いたお前が生きてるだなんてな。ノスフェラトゥの不死で治癒してたのか」

「そういうこと。だけど酷いんだぜ。僕に黙って魂を食べ、とんずらこいたんだ」

「かははは、深淵なる裏切り者のノスフェラトゥ様だからな。命があっただけ奇跡じゃあねぇか」

「これでも頭に来てるんだ。だから、荒尾、僕は君に一つお願いがある」

「あ?」

「僕を食べて僕に成り代われば、油断している吸血鬼を簡単に討ち滅ぼすことができる」

 ポケットから携帯を取りだし、これ見よがしに光らせて見せる。もちろん鏡花の連絡先なんて登録されていない。

 すぐに右ポケットにしまい、僕は指でその金属特有の硬度を確かめた。

 落ち着くのは僕のほうだ。クールだ。熱くなればギャンブルは負ける。

「てめぇ、なに言ってやがる」

「僕が犠牲になるといっているんだ。その代わり、僕の家族には一切手を出さないでくれ」

「……」

 荒尾はキョトンと無表情だったが、やがて喉を小刻みに震わせ、跳ね返った波紋が大きくなるように、けたたましい笑い声を公園一杯に響かせた。

「くあはははは、まじかよ。いかれてんなぁ!」

「家族を守りたいってのは至って正常な思考だろ」

 にたりと笑い、

「俺がお前に成り代わるってのはいいアイデアだ。そのうえでノスフェラトゥを呼び出す、なるほど一手間増えたが、うまくいきそうだな」

「そうだろ。だから少し時間が欲しいんだ。家族に挨拶する時間と、ノスフェラトゥを呼び出す時間をさ」

「オーケーオーケ。それくらい構わないさ」

「ありがとう。助かるよ。そしたら、明日、今日と同じ時間、ここで、」

「時間ならいくらでもやる」

 荒尾は一歩大きく踏み出した。右手が延びてくる。

「ぐっ」

 コートの襟口を掴まれ、片手でやすやす持ち上げられた。

「棺桶のなかの永遠をな」

 く、苦しい。耳が一気に熱くなる。

「な、なんで」

「うだうだめんどくさい時間は与えないほうが吉だろ。大方毒飲んでから食われてやろう、とでも考えてんだろ。そもそも呼び出すだけなら、お前が俺に食われてやる道理はない。普通ならノスフェラトゥは呼び出すから命だけは助けてくれ、って懇願するはずだぜ?」

 最終手段はすっかり見破られていたというわけだ。

 毒性の食べ物を食べて、自ら毒を帯びる、いかにもへんてこな生物濃縮のカタチだけど、いざとなったら、なんて考えるだけ無駄だったわけだ。少なくとも一矢報いることができるかもしれないし、荒尾に殺されずにすむいい方法だと思ったんだけど。

 とすん、と雪の上に僕を落としてから、荒尾はポケットにある僕の左手を力一杯掴んだ。

「その手の内側をみせな」

 引き上げられた手に握られていたのは血濡れのティッシュ。

「んだぁ、これ?」

「いま、……は、」

「あ?」

「いまあんたが掴んでいる左手は僕の利き手じゃないんだぜ」

 右手で握った釘を荒尾の頸動脈にぶっ刺した。



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