(23)
ライム・ライト。
吸血鬼ノスフェラトゥの名前にして、銀髪の正体。
「なんで、……」
暗闇に輪郭を滲ませた鏡花は、声をかすれさせ、僕を仰ぎ見た。
スフィンクスに答えを突き付けたオイディプス王のように、威風堂々と胸をそらせる。
「僕が最初に名前を尋ねた時、あんたはなにかを言いかけてやめた。その時から注意深く言葉に耳を傾けることにしたんだ。たとえば『宮藤三吾』という名前ををやたらと誉めた時とかね。ライムライトは石灰光、石灰の原料は珊瑚だから、おおかた親近感でも湧いたんだろう?」
相手より有利にことを進めるコツは、できるだけ予想外な一手を打つことだ。きっと鏡花の頭のなかで混乱がぐるぐると渦巻いていることだろう。
「もちろんそれだけじゃない。荒尾が『一人じゃ光れない時代遅れの吸血鬼』と評したのを聞いて、最初は過去の栄光にすがりつくみたいな意味で言っているのかとも思ったが、どうもしっくりこない。盛大な皮肉だと考え付いたとき、僕の答えは決まっていた。ライムライトは十九世紀に舞台照明として使われ、転じて栄光や名声という意味をもつが、時代遅れという感は否めない」
「まさか、その程度のことで、私の名前をあてたのか……?」
予想通りの反応に思わずにやにやしてしまう。
「昔からシャーロック・ホームズが好きなんだ 」
もちろん嘘である。
ミステリーは好きだけど、僕は読む専門で、巷で話題の高校生探偵にはなれないし、それほど頭脳に冴えがあるタイプではないと自負している。
なぜ僕が彼女の本当の名前を知り得たか。
答えは簡単だ。
宮ノ下さんに「ライムライトをよろしくね」とお願いされていたのを、アカシックリーディングで思い出したから。ただそれだけのことである。
「私の名前が、あてられるだなんて」
探偵きどりはただのイタズラ心だけど。
「さあ、約束を守れよ、ライム」
約束を持ちかけたのは彼女の方からだが、その時点ですでに本名を知っていたのだ。
『いつかあなたが白い光を見失いそうになったとき、この箱を開けなさい』
テーブルを挟んで向かい合わせに座る老年の女性は、木箱を手渡して、中に入った『のこぎり』の使い方を説明してくれた。
その三日前、お腹に穴を空けられて死にかけた僕は、そんな大事をすっかり忘れ、無邪気な瞳のまま、宮ノ下さんに尋ねたのだ。
『白い光って?』
『ライムライトよ』
彼女はくすりと笑って、ティーカップに口をつけた。僕はよくランドセルを玄関に放り投げ、そのまま隣の家の宮ノ下さんとティータイムを共にした。柿沢に『入り浸っていた』と評されるほど、自分よりはるかに年上の彼女になついていたのだ。
『ぶっきらぼうだけど、優しい娘なの。きっと仲良くなれるわ』
『人の名前?』
『えぇ。素敵な名前でしょ』
『外国人? ぼく英語話せないよ』
『大丈夫。なにも心配しなくていいわ。ケセラセラよ、三吾』
彼女はよく冗談めかした言い方で『ケセラセラ』を多用した。成るようになるさ、穏やかな雰囲気を持つ宮ノ下さんによく合った言葉だったけど、僕が覚えている限り、宮ノ下さんちを訪れたのはこの日が最後だった。
なんで疎遠になったのか、理由はよくわからない。
「血を吸う、というのは?」
昨日の夜と同じように、ベッドの上に隣り合わせに座りあった。
オレンジ色のナイトランプが室内を仄かに照らしてくれる。
「言葉どおりだよ。前に言ってただろ? 僕の魂を食べることができれば、力を取り戻せるって」
「一種のジョーク。真に受けないでくれ」
ひらひらと手をふって少女は唇をすぼめた。
「三吾の魂は美味しそうだけどね」
「僕に授けた不死性の回収がほんとうの目的だったんだろ? 渋る意味がわからない」
「……魂に不死性が根付いてしまっているから、下手は打てない」
真冬の夜は本当に冷える。暖房を稼働していなければ、凍えてしまいそうだ。
「ちょっとハードな献血なんだろ?」
「あのときは軽い調子でそう言ったが、実際どうなるかよくわかんないんだ。人間の体力の水準を見謝ってるかもしれない」
「かまわないよ」
「え?」
少女の青い瞳はオレンジ色の光を受け、蠱惑的に輝いていた。
「それでも、僕はかまわない。吸えよ。あの男に一泡吹かしてくれるなら、僕はいくらでも我慢してみせる」
「……」
彼女の沈黙は、それまで感じたどんな待ち時間よりも長く感じた。
お互いに視線を外すことなく、見つめあい、さながらにらめっこするカメレオンのようにじっとしていた。結露が流れる音でさえ、耳をすませば聞こえてきそうだった。
やがて鏡花は自ら作り出した緊迫の糸を弛緩させ、小さくため息をついた。
「やれやれ、覚悟は固まっているようだね」
「あぁ、頼む」
あえて言わなかったが、僕は明日をアカシックリーディングで覗き見ている。 彼女が血を吸わなかった場合の未来だ。
二十四時間後、僕らは負ける。負けて、そこで未来は潰えた。なにも見えないし、あまりにショッキングな映像で二度と見返したくはない。
でも、それが望まぬものだとしても、結果を変えるのは想像以上に難しい。
不可避の未来を回避するためには、どうしたらいいか。
ギリギリでベアリングをかわしてみせたように、望まぬ未来は寸前でかわすしかないのだ。
配られた解答用紙に知り得た未来を綴るのと同じく、弾が発射されたという事実を受け止めてから、行動をする。
写し出された敗北をひっくり返すために、僕らは一度食人鬼に負けるか、あるいは強烈なカウンターを食らわせるしかないのだ。
どちらも今の彼女では荷がかちすぎる。
底上げをしなくてはならない。
「目を瞑って」
昨日そうしたように再び僕らは向かい合う。
言葉に従って薄く目を閉じると、残像がまぶたの裏にぼんやりと浮かんだ。
また気分が悪くなるのか。
いくら覚悟を固めていても、痛みに慣れる人がいないように、これから先待ち受ける苦痛は憂鬱な気持ちにさせた。
「薄く口を開けてくれ」
そういえば、と思考を巡らせながら、昨日はなかった命令に従う。
彼女はどうやって吸魂を行うのだろう。
映画の中のヴァンパイアは、必ずといって良いほど獲物の首筋に噛みつき、その血を啜る。だけど昨夜、僕は彼女に傷を付けられた記憶もないし、痕もない。
ただ突然気分が悪くなって、目眩がし、気づいたら夜が明けていた。
鏡花はどうやって、魂を食べ、
「っ」
思考はそこで途切れた。
自身の唇に柔らかいなにかが当てられていたから。
驚いて目を開けると、目の前に少女の顔があった。影になって表情はよく見えない。
手足をもがれたバッタのように抵抗しようにも、その気さえ起きない。
ぷっくりとした唇が僕の唇に当てられ、さらさらとした髪の首筋にあたってくすぐったい。
「ん」
舌を入れられた。
冗談だろ!?
接吻は甘美な味がする、と本にさんざん書いてあったのに、いま感じるのパニックだけだった。
口内に進入した彼女の舌はイタズラするように細かく動き、口腔をなで回した。舌なげぇ。
「んっ」
さすがは年の功というやつか、全くの躊躇いが、感じられ、……あれ?
意識が遠くなる。あぁ、やっぱりね。
さっきまで驚愕に彩られていた僕の脳内が、ポツリポツリと水滴を垂らしたみたいに失われていく。
喪失。
その二文字が夢心地に変わったとき、意識は霧散した。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
携帯のバイブに起こされた。メールの着信だ。差出人は山本で、昨日の電話で調子悪そうだった僕を労る内容だった。適当に返信し、カーテンの隙間から外の様子を窺うと、すでに朝の光に満ちていた。
上半身だけベッドから起き上がらせて、カーテンを引く。小気味良い音をたて、部屋に光が溢れかえった。分厚い雲が住宅街の屋根いっぱいに広がっていて、まるで背景を塗り忘れた一枚絵みたいになっていた。晴れかと思ったが、今日は一日中曇り空らしい。
知らず知らずのうちにアクビが漏れていた。
昨夜は色々あったが、振り返ってみると、遠い過去のように感じられる。
オレンジのナイトランプがつけっぱなしだということに気が付いて、立ち上がろうとしたとき、脚部に何かがまとわりついていることを感じた。
柔らかい。
なんだろう。いまだかつて味わったことのない感触。
あまり回転しない寝起きの頭で、考えても埒があかないと、毛布をめくって確かめて見る。
鏡花が寝ていた。
「……」
全裸で。
「……えと」
毛布を戻す。
元の静寂が広がる。
今日は土曜日で人通りが少ないからだろうか、いつもなら賑やかな自宅前もひっそりと静まり返っている。
平穏な朝だ。曇り空だが、休日なので関係ない。
「なんだ、夢か」
一応呟いてみることにした。
その声が室内にゆっくり溶けていくのを確認してから、もう一度だけ毛布をめくってみる。
「だよねー」
全裸の鏡花が赤ん坊のように丸くなっていた。
せめてもの救いは向こう側を向いていて、重要な部分は僕の位置から確認出来ないことくらいだ。骨ばった背中に、白い皮膚が張り付いている。
もし、こんな状況が学校にばれでもしたら停学なんてこともありえる。
「きょうか」
小さく名前を呼んでみても返事はない、深く眠っているようである。
いまなら、
邪な気持ちが沸き上がる。
彼女が熟睡しているいまなら。
目の前には、美しく決め細かな肢体があるのだ。柔らかそうな脇腹に、さらさらとした髪の毛。その全部が手を伸ばせば届く距離にある。
脱ぐのはやめろと注意してきたのに、それを破って、しかもベッドに潜り込むだなんて、なにをされても文句はいえないだろう。というかなにかしなければ逆に失礼にあたる。
「……冷静に、なろう」
一度大きく息を吸い込む。
朝の澄んだ清らかな空気が鼻孔から脳にダイレクトに届く。僕の汚れた考えはどうにかこうにか浄化されたようだ。
「なんでかね」
僕だって健康男児だ。あまり人を誘惑するようなことはやめてほしい。頼むから。
「……鏡花、起きてくれ」
明後日の方向に目線をやりながら、彼女を起こすことにした。
一階のリビングでトーストを二枚焼き、ジャムの小瓶とスプーンを持って、自分の部屋に戻ってくる。
仕事での疲れを癒している母さんの手を煩わせるのは気が滅入るし、やっぱり朝はなにか腹にいれないと一日の始まりという気がしないのだ。鏡花は寝ぼけ眼のまま渡されたパーカーを羽織っていた。ジャムを塗りたくってから、トーストを差し出す。
「ありがと」
ぺこんと頭を下げてから、緩慢な動きでパンをつかんで草食動物のように食べ始めた。ポロポロと焦げが落ちていく。
「朝弱いんだな」
「ん?……んー」
「それで、不死性は回収できたの?」
「んー。……ばっちし」
身体に目立った変化はない。いつも通り見慣れた宮藤三吾の肉体だ。精神的にも変化はとくに感じない。強いて言えばいつもより清々しい気分だということくらいだ。
ほんとうに回収できているのか、と疑問に思ったが、目の前で眠気と食欲の両立に忙しそうな吸血鬼が嘘を言っているようには見えなかった。
幾度となく顎を動かし、鏡花はトーストを咀嚼していた。
僕は自分のぶんを手で持ってベッドに腰かけた。
「それ食べ終わったら、下見しに行こうぜ」
「下見って、なに?」
決まっている。決戦場たる中学校前の公園だ。
「ああ。やっぱ地理ってのは大切だと思うんだよ。いざとなったら逃げる算段もたてなくちゃならないしね」
「べつに、いいけど。曇りだし」
不機嫌そうに鏡花は了承してくれた。やっぱり吸血鬼というからには、太陽が出ているうちは、あまり外に出たくないのだろうか。
「それはそうと、昨日はいきなりなにしてくれてんのさ」
食べ終わって、ティッシュで手についた汚れを拭いながら、昨夜のキスについて尋ねてみた。
「死魂とは違い、生物の魂を食べるのだから、あれが一番安全で的確な手段だったんだ 」
朝御飯を食べて、脳への血流が復活したらしい。
「シルバーコードを切らないよう異脳部位を切除するのはなかなか大変だったんだぞ」
「ただのディープキスじゃんか。もし、逆の立場だったら即刻セクハラで訴えられてるからね」
「減るもんじゃなしに」
オープンな外国の風習ではそうかもしれないけど、恥じらいを重んじる日本人には理解できない考え方だ。
「それに君だってまさか初めてだったってわけじゃないんだろ?」
「……」
「あ。えっと」
「ファーストキスだよ。悪いかよ」
「あー、っと、……すまなかった」
わりかし素直に謝られた。
肩透かしだ。
「あの、気休めには、ならないかもしれないかもだかど、私も、その、……初めてだったから、安心してくれ」
「なにを安心するんだよ」
「粘膜接触による感染は起こり得ないから」
「なんでそんなヘヴィーな状況を想定してんだ!」
「ん? 虫歯の話だが」
「あ、そう」
小さく息をついてから立ち上がり、壁にかけられたコートを羽織る。
ポケットに財布と携帯をいれ、鞄を背負う。出来れば小細工は午前中に終わらせて、午後はゆっくりしたいところだ。




