(2)
赤い鮮血が白い地面に染み込んでいく。
悲劇というほどのものではない。誰でも流血したことくらいあるだろう。
雪が惨事を覆い隠すように降り続けていた。
それをぼんやりと眺めている。
北風に煽られた白い息がじんわりと空に溶けていったところで目が覚めた。
夢である。
臼暗闇に包まれた室内を見渡し、それを再認識する。部屋は孤独を浮き彫りにするようかのに雨音だけが響いていた。
昔読んだ本によると、短期記憶を長期に変換するための儀式が夢を視るということらしい。過去を繋ぎ止めるためのインプット。もっとも僕の場合、その限りではないのだが。
ベッドの縁に手をかけ冷たい床に降り立った。
さて、いまのはいつの出来事なのだろうか。夢の世界に時間軸は関係ない。
夢見心地の気だるい頭をボリボリ掻きながら、腕時計を確認してみると時刻は十八時を迎えていた。
とりあえずバラエティでも観て時間を潰すか、と凝り固まった関節を和らげていると、雨音を切り裂くように玄関チャイムの音が弾けた。
「ただいまぁー。もうほんと雨最悪ー」
薄暗い階下へ行くと、買い物袋をぶら下げた濡れ鼠の姉貴が玄関からふらふらとリビングに向かって歩いていくところだった。
「お帰り。大丈夫だった?」
長い黒髪がしっとりと濡れ、防寒着の所々に雨のシミができている。
「酷い雨風、台風ですかぁーてっ感じぃ、ふざけんなー」
毎度毎度、帰宅時はチャイム鳴らさないでくれ、と口酸っぱく言っているのに、「出迎えがないといや」という妙ちくりんな理由でなかなか改善してくれない。注意するのも疲れてしまった。
「それにしても荷物多いね」
「明日からゼミ合宿だから、足りないもの買ってきたのよ」
「あぁ、そう言えばそんなこと言ってたねぇ」
「四日も私がいないとなると、三吾寂しくて死んじゃうかもね」
「僕の寿命をコントロールすんのやめてよ」
リビングにつながる扉の前で姉貴は立ち止まり、階段半ばの僕を、薄目で睨み付けてきた。
「優衣ママ、今日夜勤だっけ?」
「母さん、働くのが好きだからね」
「共働きって子どもの都合なんにも考えてないと思わない?」
「姉貴は夕飯作るのがダルいだけだろ。当番なんだからちゃんと守ってよ」
息子の小学校卒業を契機に、社会復帰を果たした母さんに罪はない。その事に文句を言うなら、まず僕が謝罪をすべきなんだろうが、人間死ななければ誰だって年を食うのだ。時の神様に直訴してくれ。
「ボイコットしてやろっかなぁ、どう思うよサンゴー」
「僕が作る羽目になるじゃん。いいからさっさとしてよ」
「私はアンタの奴隷じゃないっつーの……って、ありゃ?」
ビニールの買い物袋を、床に直接置いて、姉貴は辺りをキョロキョロと見渡した。
なにをしているのだろう。いまさら二人きりの状況にぎこちなさを感じるわけじゃあるまいし。
「私の後ろに女の子いなかった?」
二階の自室から、一階の廊下に降りるまでを軽く回想してみたが、姉貴の他に第三者を視界におさめた記憶はなかった。
「ほら、ゾッとするくらい可愛い子」
姉貴は首を捻りながら、玄関ライトのスイッチをいれた。光が廊下を一気に駆け抜ける。
女の子?
いやな予感で背筋を凍る。
薄暗い木目の廊下と傘立てに、シックなデザインの靴箱、その上には一時期風水にはまった母さんの提案で卓上ミラーが置いてあるけど、変わった物はなにもない。
「いなかったはずけど……。どうしたの? 真夏の心霊特集なら4ヶ月ほど遅いよ」
「あれ、もしかして、家に入ってきてない? あー、私の悪い癖だなぁ、人のこと考えずに突っ走っちゃうの」
現在進行形で僕の発言を蔑ろにする姉貴。腕を伸ばし玄関のドアを開けた。
蝶番がわずかに軋み、寒風が吹き抜けた。
少女が立っていた。敷石の上、こっちを値踏みするような瞳で。フードは被っていない。
柔らかい光に照らされ、無造作に伸びた銀髪が、きらきらと輝いていた。
標準的な黒ではない。染めているのかとも思ったが、すっきりとした目鼻だちは日本人のそれではなかった。先程会ったとき、髪はフードにしまっていたのだろう、改めて見ると随分と長い。腰まで届いている房もある。
「ほら、入って入って。温まっていきなさいな」
「お邪魔します」
姉貴が靴抜きに少女をあげた。滴り落ちた雨水が小さな水溜まりをつくる。
臙脂色の外套に、黒いブーツ。
静かな予感はあった。
そいつの姿を認めた時思わず、だろうね、と呟きそうになった。
「姉貴、その人」
「表札の前で震えてたのよ。どうしたの、って聞いたら、家の人に傘だけ渡されて追い出されたって言うじゃない。かわいそうに。酷い人が世の中にはいるもんね」
僕は少女を睨み付けた。
このアマ。微妙に歪曲しやがって。
「ほら、三吾なに突っ立ってるの。早くタオル持ってきなさい」
「了解」
猪突猛進タイプの姉に何を言っても無駄だ。だまって従おう。
それにしても、一時間も冷たい雨が降りしきるなか、立っていたなんて、お疲れさまとしか言い様がない。
バスタオルを脱衣場から戻ってくると、ちょうど姉貴が少女の上着を剥ぎ取ろうとしているところだった。ぐっしょりと濡れたロングコートは防寒着としての役割を果たさないと判断したのだろう。少女はされるがままジッと立っている。借りて来た猫のように大人しい。
タオルのふわりとした手触りを楽しみながら、毛先から滴を垂らす少女に近づこうとした僕を、姉貴は怒鳴るように呼び止めた。
「三吾! その位置で回れ右!」
「え? あぁ、ごめん」
ボクシングのトレーナーのように、そっぽを向きながら姉貴にバスタオルを放り投げる。
予想外、だ。
少女はコートの下になにも着ていなかったのだ。
白い肌を一瞬だけ瞳に写してしまった僕は、背中を向け紅潮しているであろう頬を隠すように手を当てた。
素肌にコート。それだけならただの変態みたいだが、彼女の見た目の年齢を考えれば、事情は色々と違ってくる。
ありえない。雨具も防寒具も無しに、この冷雨の中を幼い彼女一人で。
「寒かったでしょ? さ、身体を拭いて。あとで私の服を貸してあげるから」
「ありがと」
姉貴は動揺を隠し、いつもの口調で彼女にそう言った。
「虐待じゃない?」
冷えたままでは風邪を引いてしまうと、姉貴は少女にシャワーを浴びるように言った。
浴室から微かだが水音が聞こえてくる。
「真冬のど真ん中に子ども一人を追い出すなんて、普通の神経してたらできるわけない。下手したら死ぬ」
「でも、殴られたような痕や痣なんてなかったわよ」
「暴力振るだけが虐待とは限らないよ。ネグレクトかもしれない」
「あんなに可愛い子を苛めるなんて私には考えられないなぁ」
「望まれないで生まれてきた子どもの扱いがどうなるかなんて火を見るよりも明らかじゃないか」
「根拠があるの。ネグレクトなら栄養失調でガリガリになりそうなもんじゃない、でも見る限りちゃんと食べてそうだったし。少し青白かったけど綺麗な肌してたわ」
「そういう体質かもしれないだろう。なんにせよ厄介事は御免だ。今すぐ警察に連絡しようぜ」
「大事にすべきじゃないって。とりあえず明日まで待って、それからあの子の意思を訊きましょ」
せめて姉貴が教育学部とかだったらよかったのに、役にたたない経済学部だもんな。
それにしても、あいつは何歳なのだろう。そもそもにして名前も知らない。
「ま、ともかく今は美味しいご飯をつくるのが先決よね」
「そうだね」
鼻唄混じりに挽き肉をこねる姉をキッチンに残して、二階の自室に戻ることにした。椅子から腰を浮かし、その場を後にする。
自室のドアノブに手をかけた時、ふと課題を出されていたことを思い出した。
鞄から一枚のプリントを取りだし、机に置く。
小学生から使っている木製の学習机はシールなどをベタベタ貼らずに大切に扱ってきたので、成長した今でも、こいつを前にすると物事に集中して取り組むことができる。愛用の青いシャープペンシルで早速問題に取りかかる。
ペンの滑りをアシストするように部屋はほどよい静寂に包まれていた。
カーテンの向こうの雨は勢いを弱め、しとしとと降り続けている。
「あ」
ぱきん、と芯が折れた。通信教育を受けた元劣等生みたいな勢いが祟ってしまったらしい。代わりが伸びてこないので、新しいシャー芯を取り出そうと筆箱を漁っていたとき、部屋のドアが二回ノックされた。
「はい」
姉貴ではない。あの人ならなにも言わずに勝手に部屋に入ってくるはずだ。
となると。
このままどうぞと声をかけたいところだが、件の姉貴対策で施錠しているので、仕方なしに立ち上がりドアを開けた。
「さっきは傘ありがとう、助かったよ」
海外映画の子役みたいに自然な笑顔だ。
「嫌味にしか聞こえないぜ。結局姉貴の許可取り付けるだなんてな」
「別にそういう意図ではなくて、単純に……」
照れ臭そうに頬を染めた銀髪の少女が立っていた。銀の髪はしっとりと濡れ、心配になるくらい華奢な身体は、湯上がりでほんのり赤く染まっている。
「あくまで感謝しているんだ、宮藤三吾」
「ならいいけど」
室内だから当然と言えばその通りだが、彼女はコートを羽織っておらず、代わりに姉貴のピンクのパジャマを着ていた。袖や裾は捲って長さを調整している。ブカブカだが、よく似合っていた。
「伊地香がお風呂に入るように、だって」
「あぁ、わかった。支度したら行くよ」
この短時間で姉貴のことを下の名前で呼ぶほど親しい仲になったことに驚きだ。
伝言は終わったはずなのに、彼女はそこから一歩も動かず、僕の部屋をぼんやりとした視線で見ていた。石鹸のいい匂いがする。
「ドア閉めたいんだけど」
半開きの扉に寄りかかる僕に彼女は無表情のまま、口を開いた。
「中に入っていい?」
「だめ」
見られてマズいものは一つもないが、入れるメリットも感じられない。
僕の返事に「なんで?」と彼女は可愛らしく小首を傾けた。
「理由なんてないさ。プライバシーってことにしておくよ」
「いいじゃないか、減るもんじゃないし」
「気分的によろしくないの。着替えの準備もしなきゃだし、乙女の瞳を汚したくない」
「大丈夫。私なら気にしない」
「僕が気になるんだよ。異性にお気に入りのトランクス、知られたくないだろ?」
文句言いたげに頬を膨らませた。ぶりっこみたいな所作だが、妙に様になっていた。
「気にするな」
「パンツ見られて気にしないって、そいつはかなりの変態だぞ」
「私は別に構わないけど」
「は? 言ってる意味わかってる?」
「下着でしょ? ただの布だろ。あんなの」
「布じゃねぇーよ、ロマンだよ」
「む?」
「いや、なんでもない」
そうだった、この人さっきまで素肌にコートという奇抜すぎるファションしてたんだった。
というか、いま姉貴のパンツ履いてんのか?
「なんだ? 人のことジロジロ見て」
「まぁ、なんでもいいや。風呂に行くんだから邪魔すんな」
脅しのようにドアを半分閉める。
息をついて彼女は背を向けた。
僅かに開けた隙間から、僕はその背中に声をかけた。
「それはそうと、あんた、名前なんていうんだ?」
彼女は首だけをこちらに向けた。口は真一文に結んでいる。
「ほら、いつまでも不遜な二人称は不便だしさ。それにどこから来たのかも聞いてないね。連絡いれないと親が心配してるんじゃないか?」
「ふむ」
小さく唸ってから、
「少し考えさせてくれ」
と思いもよらぬ答えが返ってきた。
「はあ? どういう意味だよ」
「うん」
小さく頷き、
「そこら辺は、ほら、プライバシーということにしておく」
ニヤリと笑って、階段を降っていった。なかなかの減らず口をお持ちのようだ。