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 はっきりと浮かび上がった、数年前の記憶。

 暑い夏の日だった。宮ノ下さんがデカいスーツケースを引きずって出かけるのを見かけ、ちょっとしたイタズラ心から後をつけてみたことがある。

 市内を分断する川を、土手沿いに真っ直ぐ進むと、バブル崩壊で経営が破綻し、それからずっと放置されている廃工場が見えてくる。

 予想外の行き先に、一旦帰ろうかとも思ったが、虚栄心だけは多量に持ち合わせた小学五年生は、占い師が如く彼女の行動を報告するのが楽しみで、埃臭い工場内に足を踏み入れたのだ。

 無風状態の内部は、なにをしていなくても、じっとりと汗ばんだ。蝉の声が遠くなる。射し込む光に埃が照らされ、天に伸びる梯子のように輝いていた。


 走りながら、僕は忘れ去りたい、四年前の回想をひたすら繰り返す。

 胸の苦しさとは裏腹に、記憶は鮮明になっていく。


 その時、僕はふと壁に空いた穴の向こうで、キラリと光る何かを見つけた。素早い動きで隠れるそいつは、当時噂でしか聞いたことのない玉虫に違いなかった。緑色の光沢のある美しい翅。捕まえに行きたい、という感情に支配され僕が足を一歩踏み出した時、

 破裂音がした。それから炭酸が弾ける音。

 音がした方に視線をやると、近所の高校の制服に身を包んだ男子生徒が宮ノ下さんを睨み付けて、立っていた。彼の手にはコーラの缶が握りつぶされ、破裂音はそこからしたらしい。

 少し目を離したうちに、宮ノ下さんの隣には銀髪の少女が立っていた。見られているとも知らず、三人は語気を荒らげ、なにやら口論をしている。詳しい会話の内容は覚えていないし、アカシックリーディングで確認してもアヤフヤだろう。

 僕の記憶を封印、簡単に言ってしまえば忘れるように仕向けたのは宮ノ下さんだからだ。

 彼女は常識人には計り知れない特別な力を持っていて、僕が思い出さないよう細工を施した。僕の幼い精神力では、この日起こったことを受け止めるには弱すぎたからだ。


 待ち合わせでもしていたのだろうか、と当時の僕は首を捻ったが、今ならはっきり銀髪の少女は、スーツケースの中に入っていたのだとわかる。

 口論が収まると同時に始まったのは殴り合いで、涙が出るくらい怖かったことを覚えている。異様だ。

 よくわからないアンバランスな戦闘に、いまと同じように恐怖した僕は、赤錆たドラム缶の影で、丸くなって震えていた。

 そこを男に見つかり、にやけ面のまま、おふざけのように腹を貫かれたのだ。

 昔から、頭がおかしい奴は、おかしいのだろう。


 気がつくと、柿沢の家の前まで来ていた。

 ひょっこりあのドアを開け、いつもの笑顔が出てくるのではないかと、僕は密かに期待してしまっている。冬の乾燥した空気はいつも通りに、僕を寂しく包み込んでいた。

 ドアが開いた。玄関のライトが眩しく僕に降りかかる。ビックリして顔を上げると、

「お、三吾じゃねぇか」

 鞄をたすき掛けにした竜太さんが立っていた。

「ど、どうも」

「最近よく会うなぁ。家になんか用か?」

「あ、いや」

「違うのか? そんじゃどうしたんだ。血相変えて」

「あの……」

 僕は今から残酷な事実を家族に知らせようとしている。僕の責任だ、巻き込まれて柿沢瑠花は亡くなったのだから。

 でも、そんなこと、うまく伝えられるわけないじゃないか。たった一人の妹が死んだ、なんて、弔辞を読み上げたこともない、中学生が。

「あの、柿沢、いや、る、瑠花が……」

「瑠花?」

 隆太さんは眼を見開いて、首を捻った。言い淀む僕に頭を掻きながら彼は続けた。

「瑠花って誰だ」

「え?」

「名前、だよな。ひょっとして三吾が好きな人とか?」

「え、なんで」

「いま初めて聞いたぞ。カノジョができたとかか? おいおい、許さねぇーからな、俺より先に」

 茶化すような笑みを浮かべて、竜太さんは後ろ手でドアを閉めた。少しだけ辺りは暗くなる。

「ちょ、ちょっと待ってください。瑠花ですよ! だって瑠花は、あなたの」

「え、なに? 俺のなんかなの?」

 汗が眼にはいる。

 さっきまで走ってきたのだ。貼り付いた服が気持ち悪かった。

「あなたの、……妹じゃないですか」

「はあ?」

「たちの悪い冗談はよしてください……」

「そう言われてもなぁ」

 荒尾の言葉が脳裏を掠める。

 存在をなかったことにする。

 ただの比喩表現だと思っていた。だけど、まさか、だろ。

「俺は一人っ子だし。でもそうだな。もしいたら、きっと俺に似て可愛いに違いないな」

「……」

「どうした三吾、お前今日おかしいぞ。なんだったら休んでくか? 俺は今から予備校だけど、おかんなら面倒見てくれるだろうし」

 血の気が引く。

 あぁ、嘘だろ。

 次元刀、とか言ってたな。戦国時代の刀匠がどうとか。

 なんだよ、ゲームに出てくるような名前の武器に、へんな効力がついてんのかよ。

「いえ、あの、平気です。予備校、頑張ってください」

 軽い目眩を誤魔化して、僕はなんとか言葉を紡いだ。

「まあ、そういうなら大丈夫なんだろう。それじゃあな、結構時間ギリギリなんだわ」

 門を押し開け軽く手を降り、竜太さんは、僕が走ってきた逆の方向に歩き出した。

 はたと気がつく。

「待ってください」

「ん? 時間ないから手短に頼むぜ。古典の講師、無駄に勘違いした熱血漢だから遅刻にうるさいんだわ」

「予備校って駅前ですよね。それなら、あっちからの方が近いんじゃないですか?」

「む。あー」

 自分でも納得がいかないように首を捻る。

 駅前の予備校なら、僕が通ってきた三叉路を真っ直ぐ行くのが一番近い。時間がないなら尚更だ。

「でも、なんとなしに、あっちからのが、近道な気がするんだよな」

「そう、ですか」

「ん、じゃあな三吾、伊地香さんによろしく」

 小走りで竜太さんは駆けていった。

 そうか。

 鏡花も一度似たような力を使っていたが、へこんだガードレールや、削れたブロック塀など、さすがに誤魔化しきれないだろう。ましてや、人が一人死んでるんだ。

「柿沢」

 瞬く星に、僕は柿沢瑠花の顔を見た。

 ふらつく足で踵を返す。放り投げた鞄と、柿沢の遺体を取り戻しにいかなきゃ。

 乾燥した空気に包まれて、わき上がる吐き気を我慢しながら、ポケットから携帯を取り出し、山本の番号に発信する。数回コール音が響いてから、電話に出てくれた。

「もしもし、いま時間大丈夫かな」

 騒がしい音が向こうから聞こえてくる。どうやらまだ道場にいるようだ。

『ああ、丁度休憩時間中でな。って、三吾? 調子悪そうだが、平気か』

 あんなことがあったあとで調子の良い声を出せというほうが無理だ。山本の気遣いに感謝しつつ話を続ける。

「僕のことは気にしないでくれ、それよりさ、訊きたいことがあるんだけど」

『なんだよ、なんか怖いなぁ。テスト範囲とかなら野々村に訊いてくれよ』

「あ、テストじゃないんだ」

『んじゃ、なんだ?』

「もしかしたら、ごく下らない質問になるかも知れないんだけどさ」

『まぁ、言ってみ』

 日常に非日常が塗りつぶされればいいのに。僕は山本に小さくお礼を言ってから意を決して、尋ねた。

「早速だけど質問するね。柿沢瑠花って、知ってる?」

 自分で声が震えているのがわかった。

 ああ、頼むよ。お前の思い人だろ? 愛は無敵だと僕を信じさせてくれ。

 プレゼントをあげるんだって、トラックってふざけてたじゃないか。お願いだよ。

 数秒の間のあと、平然とした声音で彼は続けた。

『んー? 知らん、なん組?』

 それは最悪の答えだった。

「いや、わからないなら、いいんだ」

 耳から順に冷めていく。

 半ば判りきった答えでも、言葉にされると辛いものがある。

 当たり前だ。家族でさえ、忘れているんだ、ただの友人が、いや、恋人未満の少年が、覚えていられるはずないじゃないか。

 また、お礼を言って通話を切ろうと思ったが、冷や水をかけられたように頭が冷えた僕はふと、一つのなんてことない疑問を覚えた。

「ところで、さ」

『おう』

「僕の隣の席って誰だっけ?」

 僕の席は一番後ろで、左隣が柿沢の席だった。出席番号順だ、記憶が僕らを疑うのなら、その矛盾をついてやる。

『お前の隣……えっーと、長壁だろ?』

 ずれてる。

 列の先頭だった柏が、左手の列の一番後ろにいくことにより、僕の席は一つ前に移動したみたいだ。それは柿沢瑠花の消失を物語っていた。

 笑いたくなるくらい、計り知れない。

「そうか」

『なんだよ、それだけか。つうか、お前、なんでそんな辛そうな声なんだよ』

「なんでもない。ありがとう」

 労りの声をシャットアウトするように、僕は携帯を耳から外し、通話を終了した。山本が準備した誕生日プレゼントは誰の手に渡るのだろう。

 そのまま、電柱にもたれ掛かるように崩れ落ちる。

 三叉路が意識外に行ってしまったように、彼女の存在は忘れ去られてしまったようだ。

 吐き気がする。

 誤魔化しきれない頭の痛みも。 

「すまない、すまない……。謝っても謝りきれない……」

 呼吸の隙間で謝り続けた。もし彼女がこの場にいたら、笑って許してくれそうで、申し訳なくて。膝を抱えて、自分を守るように、僕は涙を流し続けた。

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