(17)
柿沢と初めて会ったのは小学校に上がる前のことだった。
父さんにぎこちなく手を引かれ子供部屋に案内されたとき、彼女は僕のベッドで寝ていたのだ。
幸せそうな寝顔が眩しくて、僕は思わず吹き出してしまった。
姉が同じ柔道ジュニアクラブで親交のあった竜太さんの妹を、同い年で打ち解けやすいだろうと家に呼んでいたのだ。
五歳の子どもにとって、環境の変化はどれだけストレスになったか、今はもうわからない。柿沢のお陰で緊張が和らいだから。
彼女の天真爛漫さがうらぶれた僕には羨ましかったのだ。
何度も何度も「私のことは名前で呼んで」と頼まれたけど、同じ土俵に立つのが怖くて、結局名字で呼び続けた。
いつか、彼女のことを名前で呼べたら、どれだけ素晴らしいか。
もう、未来を積み木みたいに重ねていくことも出来ない。
「吸血鬼なら、知ってるよ」
瞳に当たる寒風が痛い。僕はもう疲れてしまった。
荒尾は僕を見下すようにしてから、「そうか」と鼻で笑った。
「教えてくれると助かるなぁ」
「ああ」
膝がすくんでうまく立てない。言っても言わなくても行き着く先は決まっている。
いきなり死と対面して冷静になれるほど、年数を積み重ねてきたわけじゃないけど、いつも隣にいた人がいなくなるだけで、僕は、なんでたろうか、やる気を失ってしまったのだ。
裸の枝に切り裂かれた風が鳴く。芯まで冷える気温に、氷のように冷やされたアスファルトが背中から熱を奪っていく。
「ところで今、何時か分かる?」
「ああ? なんで急に」
怪訝そうな瞳で左手の腕時計に目線を落とす荒尾。街灯の明かりがここまでたどり着いているのを幸いと、顔をあげ、時報を告げようと口を開く前に、僕は固く握りしめた拳で、彼の顔面を殴り付けた。
初めて人を殴ったが、自分の拳も痛かった。
「無慈悲に人を傷つけるお前こそが悪鬼だ」
全体重をのせた渾身の一発だったが、荒尾はよろける程度で、さほどダメージを負ったようには見えない。
だけど、これはけじめだ。いくらなんでも運動経験の浅い中学二年の文系少年が、身長百八十センチもあって武装した男に徒手空拳で勝てるとは思わない。
「ちっ」
荒尾の舌打ちが冷気を切り裂く。
こいつを、殺してしまえばどれだけ気分は晴れやかになるだろう。
続けざまに結構な打撃を浴びせたが、荒尾は倒れることなくしっかりと立ち、僕の腹に蹴りを加えた。
存外大きな音をたてて、再び背後のブロック塀に再び叩きつけられる。
「がっ」
「調子こくなよ。てめぇなんかいつでも殺せるんだ」
威圧するように刃が水平に向けられる。
「いくら寛大な俺でもお前に与えられるチャンスはこれでラスト」
声を一段と低くして、荒尾は囁くように訊いた。
「ようく、考えて答えな。ノスフェラトゥは、どこにいる?」
呼吸が乱れて、うまく出来ない。
切れ切れの白い息の隙間に精一杯の見栄を滲ませて世界に放つ。
「この、世界のどこかに、いるんじゃないかな」
「そうかよ。死んどけ」
目をギュッと瞑る。最期の光景が金髪のチャラチャラした男なんてごめんだったから。
瞼の裏のスクリーンに走馬灯が映し出される。
修学旅行の夜、そよぐ風に虫の声、柿沢の夢といつか見た星空。
腹部を貫通するナニか。男のにやけ面。
あぁ、この小バカにしたような表情、なんで気づかなかったんだ、四年前、僕のお腹を貫き、死の淵へと追いやったのは紛れもない、こいつじゃないか。なぜか顔は違うけど、はっきりと断言できる。もっと早く気づいていれば、どうにかできたかもしれないのに。まあ、気づいたところでどうしようもない。
走馬灯最後は銀色の波。
さよなら。
どこかで元気に生きていてくれれば、彼女に託された意思に僕も含まれるだろう。
おかしいと思ったのはすぐだった。
首筋に当てられていたはずの刃はいつまでも滑ることなく、頸動脈から血が溢れなかったから。
そっと瞼を開けると、少女の儚い横顔が現実として目の前にあった。
「三吾、すまない。わたしのせいで」
鏡花がいた。
夢でなく本物の。銀色の髪が乱れている。いつもの身の丈に合わない赤いコートを羽織って、黒いブーツのかかとを鳴らし、立っていた。
荒尾はなぜか、カーブミラーの下に仰向け倒れている。気を失っているわけではなさそうだ。
「鏡花……」
首が切断された柿沢。どんなに偉いお医者様でもどうすることもできないだろう、だってあるべき頭がそこにないんだから。
「柿沢が」
だけど、
だけど、お腹がぶち抜かれた僕が鏡花に救われたように、あるいは、
「無理だ」
僕のすがるような目線から逃れるように、彼女は首を振りながら顔を伏せた。
なぜ彼女がそこに立っているかはどうでもいい、問題は一縷の望みを断ち切る今の答えだ。
「瑠花はもうすでに、取り返せないところへ行ってしまった。失ったものは何を差し出そうと戻せない」
壊れたものは直らないし、死んだものは生きかえらない。
自然の摂理だ。
よくゲームや漫画によって人の生死が軽視され、『死ぬ』という認識が薄れていると大人はいうけど、そんなに感受性が強い子どもが自分を取り巻く世界に目を瞑るわけがない。
しかしながら、リアルで体験する知人の死は、僕にとってありえないことで、だって、僕らはまだ十四歳だぞ? 身近なやつが首切られて死ぬなんて、理解できるわけないじゃないか。
「ここは、私がどうにかする。なんとしても時間を稼ぐから、君はそのまま逃げてくれ」
「柿沢を、こ、殺したやつに、おめおめと背中を見せろって、言うのか? 僕は、僕は初めて、生まれて初めて、燃え上がるような憎悪を抱いているんだ」
「君が怒りに震えたところで、復讐を遂げられるわけではないし、……はっきり言ってしまおう。邪魔だ」
「鏡花!」
「なんと言われようと事実は変わらない。君にいられると自由な動きができないのだ」
僕は荒尾の次に彼女が憎かった。
こいつが僕を訪れなければ、柿沢は死なず、中学二年生の平凡な日常はいつも通りに回り続けたのだ。元凶じゃないか。全部こいつが。
「ソニー・ビーン」
いつになく険しい顔つきで鏡花は呟いた。
「貴様、生きていたのか。陽子にトドメを刺されたものだと思ったが、なかなかどうしてしぶといようだな」
鏡花は僕を無視して、青い瞳をカーブミラーに寄りかかり立ち上がった荒尾に向けた。
「かっかっか、お互い様だろ吸魂鬼。会いたかったぜぇ、ずっとずっと殺り損ねてからずっーとおめぇの臓物の味を想像して涎たらしてきたんだ」
「三吾、逃げろ。奴は食した相手に化ける。私が出来るのは、瑠花に対するこれ以上の狼藉を食い止めることだけだ。食人鬼の良いようにはさせない」
目線を一切外さずに囁いた。
ソニー・ビーン、以前それを題材にした小説を読んだことがある。
スコットランドにいたとされる、近親相姦で膨れ上がった奇々怪々な食人一族。海岸線の洞窟を根城に、通りがかる旅人を襲い、金品、果てにはその血肉さえ糧に生活していたという。
でも、なんで、鏡花は荒尾をそう呼ぶのだろう。
「考えたな。監督者に成り済ませば自分は襲われることなく、簡単に霊品を手にすることが出来る。次元刀や昨夜の『銀の弾丸』も、貴様の『人食細工』の恩恵というわけだ」
「俺の能力にだせぇ名前をつけんのやめろ」
機嫌良さそうに荒尾は抜き身の刀を鏡花に向けた。
「全部が偉大なる吸血鬼殿下の不死性をこの身にやつすための布石。てめぇがいなくなった四年間、考えに考え抜いた俺なりのベストな戦略なんだぜ」
「汚れた魂が深淵なるノスフェラトゥに成り済まそうと? 笑わせる。烏滸がましいにもほどがあるわ」
「なに寝ぼけたことを言ってやがるよ、お嬢ちゃん。俺はお前より遥かに年上だぜ? たまたま吸血鬼の能力を半分程度引き継いだだけで偉そうに高説たれるのは、釈迦に説法もいいとこだ」
ミュージカルを演じるような堂々とした足取りで一歩一歩近づいてきた。
「使い方が下手くそなお前さんより、俺がより有効に吸血鬼を演じてやるよ」
「ヘドが出る。妖怪化した人間の魂が、かりそめの不死に満足せず侵入してはいけない領域に足を踏み入れたのだ」
「俺だって人生の鞍替えめんどくせぇんだよ。たまーに、誰かを食って、女と寝て、好きなときに眠る、そういう平穏な暮らしに憧れてんだ。だから死ななくてもいい身体を手に入れたい。それがそんなに悪いことかね」
「誰にも愛されることのない我々化け物は、他人に介入せず闇の世界で生きるべきなのだよ」
「簡単な問題だ。愛がほしいなら、愛を受けてるやつに化ければいい」
日が落ち夜に包まれた三叉路は、なにもかも非現実的だった。
「さぁて宮藤三吾、ノスフェラトゥに会えた今、お前にはもう用はない。もとより情報源としては役立たなかったが、餌としては上々だったぜ」
荒尾が纏っていた空気が明らかに変わった。
向けられた明確な殺意。
転がる柿沢の死体。
僕は、僕が死んだら、どうなるんだろう。
「今の私でもアイツの足止めくらいはできる」
小さいが凛とした声で鏡花は囁いた。
「だから、僕は」
敵討ちなんて無理とわかっていても、このまま逃げるなんて、柿沢に申し訳がたたない。
「あっ」
どこにそんな力があったのだろう。一瞬にして流れる景色。街灯の点が線となって視界を駆ける。
鏡花の細腕に掴まれ、無理矢理ガードレールまで投げ飛ばされたらしい。じゃりじゃりと小石の場所を奪いながら、地面を惨めに転がっていった。
さっきまで僕が項垂れていた位置には日本刀の刃が光り、ブロック塀を削っていた。
意気込みが空回りするのが、最近のパターンになってしまったのだろうか。
「骨ばっかで不味そうだなぁ!」
刃を返し、脇腹に向けられた殺意を鏡花は辛うじてかわした。
「走れ、三吾! 家に帰って鍵を閉め、誰が訪ねてきても日が照るまで出るな。私たちのような汚れた住民は招かれない限り、領域を侵すことはない!」
荒尾のたちさばきを必死にかわしながら、鏡花は僕に向かって怒鳴った。
ぽつぽつとまばたき始めた星が、切羽詰まった現状を嘲笑うかのように幻想的に輝いていた。
跳んだり、跳ねたり、およそ人間離れした動きで、殺陣を行う二人に危うく見とれそうになったが、ここまで飛んでくる赤い血が僕を正気に帰した。
僕が遠くに逃げられよう、一定の距離を保ちつつ荒尾の攻撃をかわし続けている。それでも、避けきれなかった刃が、彼女の白い肌に赤い線を加えているのだ。
助けなくちゃ、と少年漫画の主人公なら思ったかもしれない。だけど、こんな異常者同士の死の舞踏を間近で見せられて恐れを抱かないほど、僕は修羅場を潜ってきたわけではなかった。昇っていた血が冷やされ落ち着いてくる。
気付けば駆け出していた。乾燥した空気が肺に痛い。
僕の前には二つの選択肢があった。
残って見守るか、黙って逃げるか。
傷付くことが苦手な僕は無意識のうちに臆病者の答えを選択していた。
全部を置き去りにして、僕は走った。
どこまで行ってもついてくる荒尾のにやけ面を降りきるように、押し潰されそうな感傷さえも捨て去って、夜の闇を駆け抜けた。
細く欠けた上限の月が僕を見下していた。




