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 ひび割れたアパートは古く煤けて、発展と歴史がない交ぜの歪な社会構造を物語っていた。

 立て付けの悪くなった重いドアを開け、レンガ造りの凸凹とした橋を渡ると、小高い丘が目の前に広がった。

 町中の陽気な喧騒を潜り、丘の上の修道院を眺めながら、軽いハイキングに胸を弾ませる。

 眼下には人生を象徴するかのように流れる雄大な河。風がそよぎ、空は天高く、さんざめく草原の海。

 少女は金色の髪を靡かせる。彼女は大きな幹を背もたれに、木漏れ日を浴びながら本を読むのが好きだった。

 これは遠く彼方の夢だ。

 素晴らしき景色は僕のではなく。


 アラームに急かされ目を覚ますと、ごわごわとした毛布を二枚、重ねるようにかけられていた。

 唸りながら上体を起こし、状況を確認する。鏡花によって座椅子に寝かされたらしい。定期的に朝を告げるアラームに、軽く感謝してから停止させる。

 体を伸ばしながら、目をやったベッドでは鏡花がスヤスヤと寝息をたてていた。

 精巧にできた人形のようだ。

 寝場所が奪われたことより、僕は透き通るような彼女の肌に見とれていた。

「おはよう」

 カーテンの隙間から起床を急かす朝日に、僕はぼそりと挨拶をする。

 長い銀色の睫毛がピクリと動いた。

 パチリと瞼が開かれ、青い瞳が天井を見つめる。

「起きてたのか」

「丁度寝入ったところだったから」

 鏡花は上半身をむくりと起き上がらせた。毛布がスルリとはだけて白い肌が露になる。

「服を着ろっ!」

「あー、またそれか」

 こっちの台詞を宣って彼女は大きく伸びをした。コートは椅子にかけられている。

「習慣をとやかく言われる筋合いはないとあれほど」

「居候の身分なんだから、家主側の主張くらい聞けよ!」

 気だるそうな彼女に背を向ける。僕がおかしいのか?

 窓の外では小鳥が囀ずり、平和な朝を強調している。今日は良い日になりそうなのに。

 ふぁー、というあくびを一つして、彼女はハキハキとした口調で続けた。

「アダムとイブも知恵の木の実を食べる前は裸だったんだ。美の象徴は裸体にあり。服を着る動物なんて人間だけだよ」

「恥という概念がないからだろ」

「恥なんてものは他人の心情に踊らされた愚か者が感じるのだ。私には関係ない」

「そりゃ狂人だ。僕があげたシャツはどうした?」

「やれやれ、わかった。わかりましたよ」

 やがてガサガサと着替えを行う音が僕の耳に届いた。

「ところで三吾、ふと思い出したんだけど、あ、でも、いまは関係ないか」

「な、なんだよ。途中で止められると気になるじゃんか」

「朝、鳥たちがチュンチュン鳴くのは縄張り争いのためなんだって。遊びでやってるんじゃないんだよ」

「本当に関係ないなっ!」

 聞いて損したよ。


 シャツのボタンをかけ、ズボンのベルトをしめながら、朝の香りを鼻一杯に吸い込むと、夜の涼しさを包んだ柔らかい良い匂いがした。

「あー、布が肌にまとわりつく」

「結局夕飯食べられなかったね。代わりといっちゃなんだけど、冷蔵庫の上のバスケットに菓子パンがいくつかあるから腹の足しにするといいよ」

「りょーうかい」

 シャツと短パンをはいて、ようやく人並みの格好になった鏡花は、ベッドの上で子供みたいにばた足をしている。埃がたつからやめてほしい。

「ところで不死性は回収できたの?」

 ブレザーを羽織ながら、枕に顔を埋める鏡花に尋ねた。

 昨晩は本当に最悪だった。あんなに気持ち悪くなったのは久しぶりだ。アカシックリーディング使用後、頭がぽうっとすることがあるが、それの三倍くらいの辛さだった。

「うんにゃ」

「え?」

「無理だった」

「……あんなに苦労したんだぜ」

「時間の経ちすぎで、君の魂と融合してしまい、不死性のみの回収となると、なかなか骨が折れそうだった」

「おいおい嘘だろ」

「そこで三吾に提案がある」

「な、なにさ」

 からくり人形のようなぎこちない動きでこちらに目をやり、鏡花は言った。

「魂を食べさせてくれないか?」

 時が凍る。

 そのアルカイクスマイルはメドゥーサが如く僕を石にした。

 明るくなった部屋の景色とは真逆な気分だ。

「前にも言ったが少しハードな献血だと思えばなんの問題もない。放っておけば体力ゲージは回復する」

「嫌だよ。頼むから別の手を考えてくれ」

 予想通りの反応だったのだろう、彼女は一度鼻を大きくならすと、おどけるように眉をビクリと上げた。

「まあ焦って君から回収しなくても、私自身の不死性はそのうち復活するから問題はないのだけど」

「んじゃこのままでもいいじゃん。なんで躍起になって僕から不死性を回収しようとしたんだ?」

「現在の私は本来の半分くらいしか魔力がないからね。危ないんだよ。それを補うために冬眠に近い休息をとっていたのだけど、寝場所を失ってしまうし。まったくついてない」

「ふぅん」

 ネクタイをしめて、鞄を背負う。カーテンを開けると、冬の空気が穏やかに流れてきた。忘れてた。窓に空いた穴、どうしようか。

「ま、眩しい。カーテンを閉めてくれ」

 もぞもぞと毛布を被って、芋虫のように丸くなった。ナイトウォーカーらしい発言だ。

「カーテンを閉めっぱだと、昼頃帰ってくる母さんに怪しまれるだろ。ていうか、あんた学校は?」

「いい、休む。三吾と自由に会話できる今、太陽にむざむざ焼かれる必要もない」

「あっそ。今週最後の冬晴れだってのに勿体無いな。暇なら一人で散歩にでも行ったらどうだ。陰鬱も少しはましになるだろうさ」

「こんな悪い天気に外出なんざ間抜けのすることだ」

 まあ、天気の良し悪しは人の捉え方次第だ。

「それはそうと三吾、君が私に突き立てたノコギリ。出来ることなら肌身離さず持っておいたほうがいい。あのベアリング、ただの偶然だとは思えん」

 毛布の隙間から右手だけを出して僕を指差す。

「そうしたいのはやまやまだけど、僕ら人間には銃刀法っていう素敵な法律があるんだ。残念だけどね」

「昨日の三吾は鬼気せまるものがあったのに、一晩経つとこうも腑抜けるものなのか」

「ほっとけよ。……そういえばもう一つの質問、答えてもらってなかったね」

「む?」

「本名さ」

 彼女の首にノコギリを突き立てした質問は二つ、なぜ僕に執着するのか、と彼女の名。

「墓守でもあるまいし、私の名前を知ってどうする?」

「別に」

 僕の能力は他人の本名がなくては使えない。構造はわからないが、明確な識別がアカシックレコードには必要なのだろう。もっとも長壁鏡花(仮名)には、もうすでに無用なのだけど。

「わかったぞ。私のアカシックを覗き見ようとしてたんだろ。変態め、恥を知れ!」

「最初はそう思ってたけど、もう別にいいや。語りたくないなら言わなくて。ノコギリはベッドの下で、あんたを強制できる力が今の僕にはないからね」

「ふ。それじゃあ、私からは名乗らないよ。だが、もし、私の名前を三吾が当てられたのなら」

 含みのある言い方をして彼女はクスリと頬をあげた。

「うっふふ、特別に願いを一つ叶えてあげる」

 いつか聞いた話にあったな。

 大工が鬼の名前を探す昔話。あれはなんと言ったっけ。

「ともかく母さんが帰ってくるお昼までには隠れろよ。本棚にある漫画を読んでもいいしゲームやってていいから。まあ、どっか遠くに旅立つってんなら、止めないけど」

「了解。またあとで会おう。三吾」

 彼女はそう言って、顔を毛布からだし、半分だけ開いた目でウインクしてくれた。


 五限目の古典。ノートに転写した本文の横に現代語訳を書き付けていると、なんの関連性もないが、突然悪寒が止まらなくなった。酷い風邪にやられたような、頭痛と目眩。脂汗が止まらない。

 隣の席で、ボールペンの解体・組み立てを繰り返す柿沢にさえ「顔青いけど大丈夫?」と心配される始末だ。

 アカシックリーディングで未来を視るといつも調子が崩れてしまう。恐らく脳に多大な負荷がかかっているからだろう。鼻血も癖になっている。

「僕が病弱なのは昔からだろ」

 とおどけて応えるが、一日遅れで未来視の影響が出るのはいただけない。数分で快調状態に戻るとわかっていても、今の苦しみが和らぐことはなかった。

 挙げ句のはて、次の時限が体育というまったくもって笑えないカリキュラムときたら、あと一限で放課後を迎えると知っていても、今すぐ早退けしたい気分になる。


 チャイムが鳴った。

 地獄のマラソンのスタートラインに立ったわけだ。

 ふらふらする足取りでロッカーにジャージを取りに行こうと歩き出したところ、柿沢に右手を掴まれた。そのままの状態で彼女は職員室に戻ろうとする古典の先生を呼び止めた。

「せんせぇー、気分が優れないので保健室で休んできていいですか?」

 すごく元気な仮病宣言。

 それにしてもなぜ僕の手を掴むんだ。恥ずかしいが、先生と柿沢の会話のキャッチボールに割って入れるほど、僕は器用な人間じゃない。

 あれよあれよと言う間に柿沢は「下腹部がスゴい痛いし、頭痛が止まりません。大変です」ということにされ、六限目をサボる免罪符を手に入れていた。女子はズルい。

「一人で保健室に行けるか?」

「ちょっと無理そうです」

「このクラスの保険委員は」

「ミヤチーです」

 この人痴漢です、ばりに僕の右手が彼女によって掲げられる。

「ん? 女子の委員は?」

「三笠さんですが、本日欠席です」

「そうか。宮藤、悪いが付き添ってやってくれ」

 いまいち状況がつかめないまま、僕は出席簿になにやら記入している先生に「はい」と返事をするのだった。


 図ったように養護教諭は席をはずしていて、保健室には僕ら二人だけだった。校内の見回りにでも出ているのだろうか。

「ミヤチ、私は体調が優れません」

 利用者名簿に記帳し、パイプ椅子に腰かけ、横になった僕を老年の名監督のような眼差しで見つめる。

「なので良くなるまで付き添ってください」

「柿沢、お前……」

「ミヤチはちっさいころからしなくても良い我満をするからね。辛いときは辛いって言わなきゃ伝わらないよ」

 保健室は冬の柔らかい日差しに満たされていて、柿沢の笑顔の付属品のようだった。消毒液のツンとした香りさえ気にならない。

 心遣いに甘え、まぶたを閉じる。

 調子を取り戻すのに時間はかからなかった。嵐のように訪れて、消えるときはきれいさっぱりなくなるのが、アカシックリーディングの後遺症なのだ。

「訊きたいことがあるんだ」

 枕に顔を預けながら、僕は骨格標本をぽかんと見つめる柿沢に話しかけた。

「なあに?」と彼女はくりくりとした丸い瞳を僕に向ける。

「小学生のころ僕が木から落ちて死にかけたこと覚えてる?」

 一番の問題は僕自身のアカシックレコードで確認できる記憶がその事故までだということ。

 それ以前の情報は見たいと思っても見れないし、なにより木から落ちた記憶自体あやふやとしている。

「突然どうしたの? 覚えてるけど……。あれくらいの身長のころだったよね」

 柿沢が指差した先にあったのは伸長計だった。メモリは中途半端に百三十センチほどで止まっている。

「どこの木だったか教えてほしいんだ」

 あの時僕は、腹に穴をあけて死にかけた。アカシックレコードで確認したのだから間違いないだろう。ではその記憶を隠蔽したのは何者なのか明らかにしたいのだ。

「小五の時の話だよね。うーん、木でしょ? 蛇籠森とかじゃないかな。男子の間で虫取が流行ってたし」

 憶測まじりの情報だ。幼馴染みでお互いのことを兄弟のように深く知る仲だというのに、明瞭としない。

「僕が虫取のために木登りするタイプに見えるか?」

「うーん、違うね。ミヤチはインテリだから、小賢しいワナとかで虫を集めるタイプだね」

「んじゃ、どんな些細なことで構わないから、その時くらいのことでなにか覚えてることない?」

 誉めてるのか貶してるのかよくわからないことを宣ってから、拳をぽんと当て柿沢は声をあげた。

「強いていえば、ミヤチ、あの頃から宮ノ下さんちに遊びに行かなくなったよね」

「は?」

「宮ノ下さんちに入り浸る宮藤三吾、略してミヤチなのに、あの時は瑠花も困ったよー。まぁミヤフジでミヤチに落ち着いたけど」

「不本意なあだ名の由来、どうもありがとう」

 精一杯の笑顔でお礼を告げる。クドウやっちゅうに。

「でもミヤチが忘れ坊キングの瑠花に質問だなんて、珍しいね」

「柿沢はアルバムを大切に保存するタイプだろ。だから覚えてるかなって思ったんだ」

「あは、その通りだよ。昔のことはよく覚えてるのに、歴史のテストは点数低いんだ」

「覚え方の問題だろ。逆に僕は昔のことが全然思い出せないよ」

 特に小学校以前のことが。

 アカシックレコードは五年生で止まっているのだ。その前となると、普通の記憶に頼るしかない。

「ふぅーん。それじゃあ、小二の夏休みのこと覚えてる?」

「いや、全然。なんかあったの?」

「んーん、大したことじゃないんだけどさ。夏休みの宿題に朝顔の観察が出されて、家に持ち帰ったじゃない? でも、私、ほら、水やり忘れて枯らしちゃってさ」

 少しだけ恥ずかしそうに、柿沢は続けた。

「ミヤチのを観察させてくれるように頼んだんだよ。その時、私に言ってくれたこと、覚えてない?」

「まったく。記憶の彼方みたいだね」

「ミヤチ。いつもの「やれやれ」って表情してから、「柿沢が枯らした命なんだから、責任もてよ」って冷めた口調で言ったんだよ」

 いかにも過去の僕が言いそうなことだが、

「それがどうしたのさ」

「私、はっとしたの。ミヤチの朝顔で、私が殺した命を誤魔化そうとしたことがすごく恥ずかしくなったんだ」

「……」

「それで私はノートに『枯らしてしまいました』って書いて提出したの。先生に怒られるかなって思ったけど、とくにおとがめなくて良かった、って話」

 そう話を打ち切ってから、イタズラっ子のような顔して、僕を見つめた。

「んふふ。でも朝顔は毎日ミヤチんちに通う口実でもあったんだよ。知ってた?」

「そんなんなくても、毎日ゲームしに来てただろ」

「そうだけどさー」

 語尾を間延びさせて、柿沢は頭をかき、

「思えば、あの時からだったんだよ」

 遠くを見るような目でボソリと呟いた。

「どういう意味?」

「あっ、なんでもない。それはそうとミヤチ、今日は一緒に帰ろうね!」

 慌てて柿沢は立ち上がると、両手でパイプ椅子をたたみ、壁にかけた。

 顔色で快調がばれたらしい。

 ベットから降り、上履きをはく。

 いまから体育の授業に出ても意味ないので、最後のホームルームだけ参加しよう。

「昨日もその前も、さっさと家に帰っちゃうんだもん。話したいことが一杯あるんだからね」

「わかった。わかったよ」

 なにがなくても幸せそうな彼女に、僕は辟易しながら肩をすくめた。



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