(10)
日焼けした本の匂いと、しゃべってはならないという緊張感。かりかりとペンを走らせる音と、新聞紙が捲れる音。
一生を使っても読みきれない書籍の山、それがたまらなく嬉しい。
カウンターで本を返し、一棚しかないCDコーナーを見学してから、新たな出会いを求めてふらりと書架めくりを開始する。
どの本にしようかと、人気のない文学の棚の前に立っていた時だった。
「よぉ、ご機嫌いかが」
洋画の吹き替えのような明瞭とした声で話しかけられた。
「おいおい返事くらいしてくれよ。初対面ってわけじゃあるまいし」
振り向いて確認してみると、ギターケースを担いだ荒尾が立っていた。
昨日と違い上下とも黒のスーツでネクタイも黒、葬式帰りを思わせるが、一方で弾き語りで世界を放浪していると言われたら信じてしまいそうだ。
「どうも」
「おいおいなんか壁を感じるなぁ。ひょっとして必要最低限のコミュニケーションが取れればそれで構わないとか考えてる?」
鼻筋が通った優男にも関わらず、身長はかなり高い。女だったら魅了されていたかもしれないが、僕は男、少なくとも彼と打ち解けることはない。
「いえ、別に。それほど心通わせた仲じゃないですし」
「おいおいもう俺らマブダチだろ」
「昨日会っただけじゃないですか」
「友情に時間は関係ないんだぜ」
うざい。絶対友達にはなれないタイプだ。
「そういやお前さん、名前なんてんだ? まだ聞いてなかったよな」
「人に訊ねる前にまず自分が名乗るのが礼儀だよ。べつに知りたくないけど」
適当な一冊を抜き取り、そのまま歩きだそうと踵を返したとき、いつの間に移動したのだろう、荒尾は目の前に回り込んでいた。音もしなかった。なにか武道でもやっているのだろうか。
「名刺に書いてあっただろ。荒尾澄司だ。よろしくな」
今さら慇懃な態度をとられても、この人の好感度が上昇することはない。
「アラン・スミシーの間違いだろ。偽名名乗るのが流行ってんのか?」
僕の発言で荒尾(暫定的にそう呼ばせてもらう)は目を見開いた。
映画のクレジットで多用される偽名だ。
「まさか。中学生に見破られるとはなぁ。やるね宮藤三吾」
「……自己紹介の手間が省けたね」
家は知られてるんだ。住所録をみれば僕の名前にも見当がつくだろう。
戸惑いを無表情で押し潰そうと努力する僕の肩に、荒尾は細く白い指をあてた。
「ジョークタイムは終了だ」
「コーナー作って遊んでたのはあんただけだろうが」
「探し物がいまだに見つからなくてよ。ノスフェラトゥの居場所をご存じなら早々に教えていただきたいんだが」
やはり鏡花の関連人物か。
「変わった名前の人を探してるんだね」
「人、じゃねー、鬼。吸魂鬼だ。知ってんだろ?」
「見当もつかない。吸魂鬼とか、寒すぎて脳への血流が滞ってるのか?」
なぜ嘘をついたのか、と訊かれたら、単純にこの男がムカつくから、としか答えられない。いきなり偽名を名乗られて頭に来ないやつはいない。鏡花にだって腹立ってんだ。
「頸動脈が波打ってるぜ。それに視線が下向いてる。嘘つきの典型だ」
「悪いね。フヨフヨ浮いたわだかまりで、緊張してるんだ」
「嘘つきは針千本飲まなきゃいけないんだろ? 母親に誓って言えるかい?」
「その人に会ったらあんたが探してたって伝えといてあげる」
荒尾は小さく鼻をならし、ぐっと僕の頬をつかんだ。痛い。
「よろしく、頼むぜ」
苛立ちに身を任せるようにどんと押してから、せせら笑いを浮かべた。
「俺だってむやみやたらに人を傷つけたくないんだ。奴の匂いと、お前の魂があまりにも異質だから声をかけただけの話さ。心当たりがないならそれでいい」
どいつもこいつも僕を異常者認定するんだな。別にいいけど。
荒尾は謝りもしないで、棚から一冊の本を取り出し、ページを開いた。微かな気流が古書の香りを鼻に届ける。
「好奇心から尋ねるんだがそのノスフェラトゥって人とあんたはどういう知り合いなのさ」
「言っても理解できないだろ? 知っても知らなくても同じなら喋るのがめんどいんでね」
僕は嘆息して、彼に倣うように一冊の本を棚より取り出した。一度読んだことのある作品だが、もう一度この世界観に浸るのも悪くない。
「一つ忠告をしておこう」
荒尾は本から顔をあげずに、十年来の既知に話しかけるように、呟いた。
「ノスフェラトゥとは付き合わないほうが身のためだ。鬼という言葉じゃ一括りにできないくらい奴の魂は異常過ぎるからな」
「どうでもいい忠告ありがと。時間の無駄だったよ、それじゃ」
短い別れの言葉を残して立ち去ろうとしたが、肩を思いっきり後ろに引かれ、勢いで尻餅をついてしまった。どだん、と存外強い音が館内に響いたが、誰一人として、様子を見に来てくれなかった。
「話はまだ終わってねぇ。年長者が喋ってる時、子どもは静かに席につくもんだぜ」
鈍痛を慣らしながら僕は骨にひびかないようゆっくり立ち上がる。
「だったらさっさと終わらせろよ。昨今の中学生はあんたが思ってるほど暇じゃないんだ。塾にピアノに空手に水泳、暇な大人と違ってな」
「そいつは失礼」
ページを捲り、
「それじゃ短く話させてもらうぜ。ノスフェラトゥはヴァンパイアと一括りにするには、飛び抜けすぎてる、ってわけだ。その不死性、特殊性ともにな」
「あのさぁ、そのノスなんとかというやつに会ったこともないってさっき僕言わなか」
言葉尻に被せて、続けた。
「ノスフェラトゥの語源は病気を含んだ、って意味だ。あんまり長く一緒にいると」
本を閉じ、こっちを睨み付ける。
「感染するぜ」
「……」
完全に僕が鏡花を匿っていることはバレている。にも関わらずなぜ彼は踏みいらないのだろうか。
クリーム色のカーテンが奥の方で風もないのに揺れた気がした。
「なぁ」
「ん?」
話しかけられて荒尾は本を棚に戻した。最低限のマナーは心得ているらしい。それともただの見せ掛けだったのだろうか。
「例えば、あんたが宮ノ下さんと同じエクソシストでこの辺りの百鬼夜行の監督者だとしよう」
荒尾は派手に染められた髪を撫で付けながら応えた。
「そうかお前にはもう教えてたんだっけ」
名刺をくれた時、はっきりとこいつは前任者の宮ノ下が、と言っていた。鏡花は宮ノ下さんを「エクソシスト」と称していたし、眉唾だが、その職業は間違いないのだろう。
「それでノスフェラトゥとかいう吸魂鬼を退治するため血眼になって情報を集めているとする」
「それで?」
荒尾は目を細目ながら続きを促した。
「ところが相手は強大な怪物だ。とてつもない魔力を持っている、としよう。そこで質問。あんたはそのノスフェラトゥを確実に退治できる自信があるのか?」
睨み付けられた荒尾は口に手をあて、「くっくっく」と喉を鳴らした。
その不愉快極まりない音は、やがてはっきりとした哄笑に変わり本棚の隙間を縫うように響いた。
「何がおかしいのさ」
異常だった。
これだけの大声を出して誰も窺いにこないというのは、まずありえない。
こいつも鏡花と同じような力を持っているのかもしれない。
「いや、はは、悪い。あまりにも挑発的な発言なもんでな、つい」
「別にそんな気はないけどね。マブダチとしてあんたの身を心配してるんだ」
「はは、そうかよ。なら真摯に応えてやるぜ。いいか、宮藤三吾、俺があの野郎に遅れをとるわけねぇんだよ」
あの、ということは、こいつ、鏡花と面識があるのだろうか。少なくとも推測で敵の外枠を埋めるような発言ではない。
「あいつは一人じゃ光れない時代遅れの吸血鬼もどきだ」
「もどき?」
「本物にもなれないくせに宝の持ち腐れだって話だ。早々にこの世からいなくなるべき存在なんだよ」
半ば、息を切らせて荒尾は僕にそう告げた。もしかしたら荒尾は彼女となんらかの因縁があるのかもしれない。
「餅は餅屋だ。お前は安心して俺に任せておけばいい」
「そうだね」
全容は見えない。
結局僕のとるべき道は未だに闇のなかだ。
「それはそうと、さ」
荒尾が背中に背負ったギターケースを指差す。
「ギター、それともベース? 好きなアーティストとかいるの?」
「あぁ、これ」
彼は背負ったケースを僕に見せるよう正面で持ち直した。
「空っぽだよ」
ジッパーを開いて歯を見せて笑った。
「相手は原始の吸血鬼だからそれなりの備えを、と思って来たんだが、残念、漂う気配は非常に微弱で、武器を持って臨むのが忍びないほどにノスフェラトゥ様は弱体化されてました、とさ。レベルあげしなくても確実に勝てる戦いというのは空しいもんだな」
「あっそ」
偉大なるギタリストなら共感はしないでも、尊敬はしたかもしれないのに、こいつとはとことん馬が合わない。
僕は脇に挟んでいた一枚のCD(今日読書中に流そうと考えていたやつだ)を彼に差し出した。
「なんだ、これは」
「美しき水車小屋の娘だよ。知らない? ミューラーの詩集に感銘を受けたシューベルトが作ったやつなんだけどさ。語られる青年の心情で少しは青春時代を思い出してほしいね」
「……」
疑いの眼差しをCDと僕とで何回も往復させ、やがてぶっきらぼうにCDを奪い取った。口振りとは裏腹に意外と律儀な性格らしい。
「人からなにかを薦められるのは初めてだ。俺はろくずっぽに音楽をたしなんだことがない生き物なんでね」
「空っぽのケースのポケットにでも入れといてくれ」
僕は最期に軽い嫌みを言って彼に背中を向けた。
CDの貸出し期間は本よりも短かった気がするが、まあ、今はあまり関係ないだろう。
背後で押し殺したような笑い声がした。
「それじゃあ、またな。ミヤチ」
背筋が凍る。こいつは。
こいつは敵に回してはダメだ。
逃げる、僕の選択肢はそれだけだ。
鏡花は、鏡花はどう思うのだろう。
今度は引き倒されることなく、出口に向かうことができた。




