ライム・ライト・ナイト(1)
お久しぶりです。
本年もどうぞよろしくお願いします。
いつもの自分の作風に若干味を加えたとりとめのない作品です。
お気に召して頂ければ幸いです。
継ぎはぎたらけの生き方になってしまった僕には叶えられない夢物語になってしまったが、人生とはなんだ? という命題に対し『人間らしく生きること』と応えることにしている。
処世とは延々と続く喜劇であり、そこに立つ我々は惨めな演者でしかないのだ。
空虚を満たそうとする永遠の欲求不満に対する回答は人それぞれ持ち合わせているものだが、詰まるところ昨今の中学生はシビアでドライ、ただそれだけのこと。
「この漢字、なんて読むの?」
出席番号で担当の行をいち早く察した柿沢は、雨音に紛れるよう声を細めて訊いてきた。
「トウダイだよ。海を照らす」
「おお燈台ね。サンキュー、ミヤチ」
ボソリとお礼を言い、漢字の横にルビをふる。
雨の日の六限目、校舎の回りはすでに薄暗く、遠くの信号機に照らされた水滴が宝石のように輝いていた。
誰かが暖房機で濡れた靴下を乾かしていたのだろう、室内の空気は非常に 悪質なものになっていた。
教壇に立つ先生は、クラスの環境汚染など、もとより鼻にかけない様子で、たどたどしい朗読を泰然とした表情で聞き流している。
奥山は句点にたどり着いたのをいいことに勝手に口を閉じ着席した。長壁の空席を跨いで新たな行に突入した現代文の記念すべき一頁を、柿沢は立ち上がり声高々に読み始めた。
教科書の朗読という作業になんの意味があるのだろう。
自分の番が終わったら思考を埋没させる方がよっぽど有意義である。
隣で声を出す柿沢ではなく、僕は斜め前の長壁の空席をぼうっと眺めていた。
全国の中学登校拒否児童数はおよそ十万五千いて、その数字を見れば別に珍しくも無いんだろうけど、僕は彼に会ったことがない。
長壁鏡花。一学期に編入してきた男子生徒。一度も顔を出したことがない幻の転校生である。
彼の椅子と机はクラスの共有財産として、おもに休憩時間など役に立っており、下世話な噂話によると、前の学校での壮絶な虐め体験で性格が歪んでしまったらしいが、真実のほどは定かではない。
いまもどこかで引きこもっているはずの彼を探すよう、僕は窓の外に目をやった。
どしゃぶりの雨が上から下へ絶え間なく線を引き続けている。
「燈台シュはにやにや笑って、少し伸びあがるようにしながらー」
「燈台もり」
「……燈台守はにやにや笑ってー」
読み間違えをした柿沢は不服そうに唇を尖らせた。
睨みつけられたって、訊かれた単語の読みを教えただけだ、僕はなにも悪くない。
授業終わりに、不平面の柿沢が突っかかってきた。
「もう一文字くらいサービスで教えてくれてもよかったじゃない?」
ガヤガヤと騒がしい教室内において凛として張りのあるクレームは僕を億劫な気持ちにさせる。
「そういわれてもね」
「お兄ちゃんも人を助けるときは、真に求められていることを行いなさいって、言ってたよ」
「竜太さんの教えはよく解らないけど、質問に対して適量を答えたんだからそれで充分でしょ。でも、ま、そこまで言うなら将来はサービス業以外に勤めることにするよ」
「違うってばぁ。瑠花とミヤチは、ミヤチが町内に引っ越してきてからの長い付き合いなんだから、以心伝心でもおかしくないでしょ、ってこと」
「柿沢ってあれだろ。双子はテレパシー能力持ってるって思ってるでしょ。ないからね、そんな非科学的なこと」
「イーだ!」
舌を出して、わざとらしくしかめっ面をしてみせる柿沢瑠花。
「まったく。向けられた恩を随分とひねくれたカタチで受け取ってくれたもんだな」
「それは感謝してるけど……、ミヤチ、人のために生きると書いて、人生と読むんだよ。誰かを助けると巡りめぐって自分の生活がよりよいものになるからね」
「僕は人間らしく生きると書いて人生だと思うな。エゴイズムが人の本質なんだから、他者を気にするのは間違いだよ」
「高い能力がある人は、他人を助けるべきなんだよ。落ち着いたミヤチは無敵なんだから」
そこまで僕をべた褒めする意味がわからない。お小遣いをねだる小学生じゃあるまいし、媚を売ったところで利点なんてないはずだけど。
「まあ、柿沢に関しては、ちょっと間が抜けてる方が魅力的だよ。お高くとまってるより女性の品格は高いと思うしね」
「あははは、やっぱりー? お上手ですなぁー」
意味不明な誤魔化しだが、この程度で騙されるなんて、やっぱりコイツはバカだと思った。
頭をぽりぼり照れ臭そうに掻いていた柿沢は、窓を突然ノックした風音に肩をビクリと震わせ、思い出したように続けた。
「それはそうと傘持って来てる?」
「濡れたくないからね」
「さすがはミヤチぃ。忘れ物ゼロは伊達じゃない」
あとはホームルームだけで火曜の単限は終わり、やっとこさ放課後を迎える。それでも窓ガラスを叩きつける豪雨に、帰宅の喜びはわいてこなかった。
「その言いぐさだと、どうやら傘を忘れたみたいだね」
「だってー、朝晴れてたんだもん。家を出るとき、今日は快晴だなって思ったんだよ。でもなんでか土砂降り。天気って不思議だね」
「折角の注意が届かないなんて、予報士さんもかわいそうだ」
「えへーん、いいんだぁ、瑠花にはミヤチがいるもん」
彼女の言葉を何度か咀嚼してみたが、明確な答えを出すことはできなかった。
授業の合間の小休止、お喋りの花を咲かせるクラスメートたちに置いてかれ、僕らの間には一瞬の沈黙が落ちた。
「えーと、それ、どういう意味?」
「家までいれてってよ」
なにその当然でしょ、って顔。相合い傘だとどうしても僕の肩はぐっしょりになるんだぞ、貸す側の立場なのに。
露骨に嫌な顔する僕に柿沢は意外なものでも見つけたみたいな表情で続けた。
「冷静に考えて。こんな美少女と一緒に傘入れる機会なんて今後一切訪れないよ」
「前も同じこと言ってたよな。中学にあがって二回目だ。僕は柿沢の成長のためにも心を鬼にする必要があるのかもしれない。平安時代の人だって雨降りなら傘さしてたんだぜ」
「瑠花の成長は長い目で見てくれなくちゃ。ねぇお願ぁい」
猫なで声の柿沢に、これ見よがしにため息をついてみたが、意味を理解してなさそうだった。
まぁ、いい。策は万全だ。
一本の傘をシェアしたことにより、風邪をひいたあの日から、雨の降りそうな時はちゃんと未来を見るようにしたのだ。
「エントランスの傘立てに」
「うん!」
「置き傘があるからそれを貸してあげるよ」
「うん……」
なんでちょっとがっかりしてるんだよ。いい加減思春期を迎えろ、柿沢瑠花。
一時間あたりの雨量が三十ミリ以上五十ミリ未満を、気象庁いわく『バケツをひっくり返したような雨』と表記するらしい。
本日の天気はそんな感じで、真冬にこれだけの量が降るなんて珍しい。
傘から垂れた滴は、右手から体温を容赦なく奪っていき、指先がじんわりと霜焼けのように赤く染まる。
アスファルトで弾ける雨粒が、心地よいオーケストラのように僕の鼓膜を潤していた。吐き出す息は白いけど、この雨が雪に変わるには、気温はまだ高すぎるみたいだ。
家の前に着いたのは、三叉路で柿沢と別れて三十分ほど経ったころだった。庇の下で傘をとじ、水気を軽く払ってから、手すりに柄を引っかけた。
ドアノブに鍵を刺そうと体勢を整えていたとき、なんの脈絡もなしに、鼻血が噴き出した。
全くといっていいほど予兆は無く、痛みも感じなかった。
敷石の赤い花を呆然と眺めていたのは、数秒。鍵穴に鍵を差し込んだまま、慌ててポケットをまさぐり、ティッシュを探す。雨の匂いに血の気が混じる。
「なんなんだよ」
空しい独り言も雨音が隠してくれる。
要らないときにはすぐにあるのに、必要なときは姿をみせないポケットティッシュに苛立ちながら、押さえた右手がじょじょに生暖かい液体に染まっていくのがわかった。
「零れてる」
背後から声をかけられた。
振り返ると、雨中のカーテンの向こうに誰か立っていた。鉄柵の前に立つその人の身長はそれほど高くなく、目算にして百三十センチ前半。小学生くらいだろうか、大人びた声だった。
雨が降っているのに傘をささず、足首まであるデカいコートがびしょ濡れになっている。
フードを目深に被り、表情はうかがい知れない。
「勿体無い」
かき消えそうなくらい低く小さい声だったが、そいつは確かにそう言った。
なんだ? こいつ。
鼻血もそうだが、予想外な出来事が多すぎて混乱しそうだ。
僕は無視を決め込んで、止血に専念することにした。
鼻中隔前方には細かい血管が多数存在するエリアがある。ちょっとの衝撃で出血を起こしやすい場所ではあるが、目頭辺りを押さえるだけで簡単に圧迫止血することが可能なのだ。
「手を貸そうか?」
「いえ、結構です」
初対面で気さくに会話できるほどラフな性格をしていない。かといって、『なに見てやがる!』と声を張り上げる勇気もないので、当たり障りのない言葉を選んで吐き出してみた。
「あの、どちら様ですか。この辺りに住んでる人?」
「誰だと思う?」
「は?」
「君は私を誰だと思う?」
なにこの人、哲学者? もしくは、未来人で何らかの因縁を抱え過去にタイムスリップした人とか、……ないな。
「知りません。あなたがどちら様だろうと、関係ないし」
頭がおかしいのだと思った。こんな酷い雨の中、雨具なしで突っ立っているなんて、どう考えたって異常だ。
「ひとつ訊きたいことがある」
冷たい雨に体温が奪われているからか、そいつの肌は見ていて心配になるほど青白かった。そのくせ唇はプックリとした桜色をしている。
子供特有の中性的な雰囲気で性別すら判断つかないが、どことなしに病的だ。
訝しむ僕の視線を無視して、はっきりとした語調で口を開いた。
「陽子の行方を知らないか?」
「え、誰」
「宮ノ下陽子」
いきなりのことで、口をぽかんと開けてしまった。
宮ノ下、陽子。
「隣の家の主だった女。彼女はどこに行ったの?」
「……」
宮ノ下さんとはご近所さんで、右隣に住んでいた老年の女性だ。
そう、住んでいた。過去形なわけを目の前の人は知らないのだろう。はるばる訪ねてきたのに。
「あの、二ヶ月くらい前に、……お葬式が開かれて、今は十和寺に眠ってる」
「死んだ……のか」
「原因はよく知らないけど、急なことだったみたい」
「そうか」
言い聞かせるように呟いてから、ふいと横を向いた。シートが被せられた元宮ノ下邸を眺めているのだろう。
「家は、壊すんだな」
「耐震性とか固定資産税とかいろいろ問題があるらしいしね」
骨組みだけになった隣家。
元は明治期の富豪が見栄で建設した洋館を、宮ノ下さんが買い取り住居としたらしいのだが、引き取り手が見つからず、仕方なしにニーズに会わせた戸建てを建て直すのだそうだ。
「教えてくれてありがとう」
「あ、いえ」
思ったよりも紳士的な対応で、鼻を押さえていたことを今さらながら、恥ずかしくなった。
雨樋から流れ出た水が滝のように落ちている。
鼻血は止まっていた。鞄の内ポケットにあったティッシュで、上唇や手についた血を拭いさる。
はるばる宮ノ下さんを訪ねてきたのだろう。お葬式のことを知らなかったので親戚ではなさそうだけど。
不粋な好奇心が、二人の関係を探ろうと鎌首をもたげる。
旅先とかで会った知り合いとかだろうか。
遠い記憶の中の宮ノ下さんは、でかいスーツケースを持っていろんなとこに旅行していたような気がする。
思い出に浸る僕を、引き戻すように、
「それはそうと傘を貸してくれないか?」
そいつは囁くような声音で、脈絡もなしにそう言った。僕の耳に届いたのが奇跡のような音量だ。
「構いませんよ」
さっきまで使っていた傘を持ち、留めがねを外す。バサリと軽快な音がして、コンビニで買った透明なビニール傘は広がった。
傘をさして、僕は門の横で棒立ちしているそいつに近寄った。赤いコートは、脱水し忘れた毛布みたいになっていて、なんだかみすぼらしかった。
「安物だったから、永遠に借りていて大丈夫です」
これだけ濡れたら傘なんてもう意味ないだろ。生乾きの水着で海に入るのと同じだ。
「なんでしたら、バスタオルとセットでお貸ししますが?」
「そ、そこまでしてもらうのも悪い」
「そうですか、はい」
「ありがとう」
ぼそりとお礼を言い、顔をあげた。
銀髪で青い瞳の、蠱惑的な顔立ちの少女だった。
傘を受け取った彼女はその白い細長い指を柄に絡ませながら、媚びるような目付きで口を開いた。
「お礼ついでにもう一つ頼み事がある」
アスファルトで弾けた雨粒が、いくつもの波紋を作っている。ブロック塀は流れ落ちる水で濡れて、その色を変えていた。
「今晩、泊まらせてくれないか?」
さて、
いきなり現れた赤の他人に泊まらせてくれと頼まれ、承諾するお人好しがこの世に何人いるのだろう。
中学二年生男子の思春期をあてにしているのだとしたら、他を当たっていただきたい。
加えていうなら自分は非力な子どもで、現在、家には他の住人が一人もいないときた。
このような状況下でおいそれと侵入を許す奴がいたら、きっと芯から善人ぶった成人君主様か、危険認識力が欠如した人物に相違ない。
「今晩泊まるところがないなら駅前のビジネスホテルをオススメするよ。なんだったら漫喫もある。二千円で漫画読み放題ってすごいよね」
年端もいかない外人の言い分である『宮ノ下さんを訪ねてきた』を信じるにしても、十中八九、近くに保護者がいるはずだろう。下手に匿ったりして、捜索の妨害をするのはどう考えたって得策じゃない。お泊まり交渉失敗は当然の既決なのである。
駅前をほっつき歩けば、直ぐ警察に保護され相応の措置が取られるはずだ。
なので、してあげることはない。
渋るかと思ったが、彼女は「そうか」と案外簡単に引き下がり、傘を広げて、雨中に消えて行った。
一体なんだったのだろうか。銀髪がキャンパスに線を引くように視界の隅にじんわり残った。
多大な存在感は徐々に薄れていく。