星雲 爆発
若者と別れてから三分くらい歩いたところで、伊藤は会社に着いた。伊藤が働いているのは小さなインターネット新聞社だ。インターネット新聞社は、五年前に列島通信と朝毎新聞社の支援を受けて誕生した日本ウェブ新聞社の誕生を皮切りに、一般大衆向け新聞からスポーツ紙、経済紙やサブカルチャー紙など、大小合わせて三百誕生した。新聞と言っても、もちろん紙ではなく、いわゆる電子書籍という奴だ。そして伊藤の働く「横浜科学新聞社」は、科学雑誌に載るような内容を掲載する、ごく小さな、しかしコアなファンのいる新聞社だ。
一階の小さな受付、さらに二階の一般フロアにも、人一人居らず、パソコンも一切ついていない。伊藤は屋上に行ってみる。案の定、そこには社員十人全員が、首を上げ、真っ黒なレンズの眼鏡をして立っていた。
「伊藤先輩、遅いじゃないですか」
一人の青年が声を掛ける。同じ若者でも、さっきの若者とは大分印象が違う。小林という新入社員だ。
「いや、ちょっとね」
「なんですか、ちょっとって。それよりも、早く、金環見ましょうよ」
伊藤は鞄から日食眼鏡を出し、目にかぶせる。橙色の丸が浸食されていく様子を想像していたが、見えたのは一切の暗黒だけだった。
「あれ、見えないね」
「やっぱりですか。今日は天気が悪いって、昨日天気予報で言ってましたもん。雲に隠れて、太陽は全然見えませんし、見えても光量が弱くて、この眼鏡じゃ見えないですよ。これ、性能が良すぎですもん」
「どこかのメーカーの商品が全然光を防ぎきれないって話題になったけれど、それで良かったかもな」
「でも、紫外線に当たって、目が見えなくなるのは御免です」
「そりゃそうだ」
今日は眼科が儲かりそうだと勝手な想像をしながら、伊藤は意味も無く、場所を変える。立っている社員の中で一人だけ、座って望遠鏡を操作している社員がいた。
「調子はどう?」
伊藤はその社員に話しかける。
「やっぱり全然だね、伊藤君。何も見えない。これじゃあ、また今日も通信社から写真を借りる事になるよ。本当、最悪。神様はいつも私たちに味方してくれない」
「潰れないだけましじゃないか。この不況の時代に、まともな職にありつけて、ちゃんと働いて給料貰えるだけ、ましじゃないか」
「なんで儲かるのよ。こんな弱小新聞社が」
「そりゃあ、君の社説のおかげだよ」
この女性社員、飯塚の書く横浜科学新聞の社説「星雲」は、この新聞の目玉となっている。誰も知らないような記事について、まるで一つの詩の様に書くのだ。飯塚の書く「星雲」は、まさに星雲の姿を想像させる。しかもそれは平面的な一画像ではない。星雲の経てきた何億年もの悠久の歴史が、「星雲」にはある。今までに出した「星雲」をまとめた本を出したときは、天文学界で話題となった。「これぞ宇宙のロマンである」ノーベル賞科学者をもってそう言わしめた。
「あなたたちが頑張らないから、私が頑張ってるんですよ。何が新聞の目玉? そんなナルシズムに耽るんだったら、さっさと良い記事書きなさいよ」
「すまないね。いつも」
結局、金環日食は見れなかった。果たしてあの若者は見れたのだろうか。
二階に戻ってテレビをつける。NHKから民放まで、みな金環日食で大騒ぎだ。知ったかぶりをして、さも博識そうなコメントを、流れる水の様に言うコメンテーターもいれば、「すごいですねえ」と単調なコメントを感情を込めることでカバーするアナウンサーもいる。だが、どちらにせよ、それが不快なものである事には変わりなかった。
仕方なしに、伊藤はNHKを最後に見て、テレビを切ろうとする。金環日食が終わったら、それを引きずらずに淡々のニュースを伝えるのは、まさにNHKだな、と伊藤は思った。
ピロロン、ピロロン。
突然、軽快ながら恐怖心を煽る音がした。緊急地震速報かと思ったが、違った。テレビの画面には「NHKニュース速報」という文字が出ている。アナウンサーはさっきまでの穏やかな形相を一変させ、焦った様子で原稿を受け取る。
ニュース速報のテロップが変わる。
東京 霞ヶ浦 厚労省など入る中央合同庁舎第五号館で爆破テロ
「まじかよ!」
小林が絶叫した。アナウンサーが原稿を読み始める。
「今入ってきた情報によりますと、午前七時三十分頃、東京霞ヶ関にある中央合同庁舎五号館が爆破を受けました。中央合同庁舎五号館は厚生労働省や環境省などの入るビルで、死者、けが人の数などは今のところ分かっておりません」
テレビには爆破された中央合同庁舎五号館の現在の映像が早くも映し出された。右下の辺りから真っ黒な煙と真っ赤な炎が立っている。炎は建物の半分を、煙は全体を覆い隠し、建物自体は全く見る事ができない。その姿は、まるであの九・一一テロを彷彿とさせる。
「今日のニュースはこれで持ち切りだろうな」
伊藤は呑気につぶやいていた。その言動に小林が
「何、へらへらしているんですか。これはテロですよ。テ・ロ! 大勢の人が亡くなっているかも知れない。ご家族だって心配しているでしょう。けが人も一杯でるのは確実です。日本でのテロなんて、地下鉄サリン事件以来じゃないですか。なんで驚かないんですか、先輩!」
小林の意見はまともだった。しかし、それはまともなだけだったとも言えた。
「だってさ、普段はここの霞ヶ関の官僚達、『シロアリ』とか呼ばれてるじゃん。それで『シロアリ駆除はどうした物か』なんて政治家をみんなして叩く。民政党も自由党も、結局は官僚どもの言いなりだ、って言って。その癖してその官僚が死んだら悲しんでる。その姿見てると可笑しくて。テレビの言う通り、官僚というシロアリは駆除されましたよ、って言いたくなってさ」
「所詮、テレビなんてそんな物ですよ。視聴率がとれればそれで良いっていう世界ですもん」
「だな。さて、こんなテレビ見ていたってしようが無い。さっさと原稿書くぞ」
「わかりました、先輩」
伊藤はテレビのリモコンの電源ボタンを押す。爆破された中央合同庁舎五号館の映像を最後に、テレビは元の真っ暗な画面に戻った。
※
鳴子は朝から汗だくの体で、身支度を調えていた。時間がないので、髪の毛はぼさぼさのまま行く事にした。朝食はコンビニでおにぎりでも買おう。
洗面所からリビングに戻る。テレビでは中央合同庁舎五号館爆破事件の特番が流れていた。黒い煙は周囲数十メートルに渡り、消防車も迂闊には近づけない状況だ。その間に炎はどんどんと庁舎を覆っていく。その様子を見ながら着替えていると、タイミング悪くケータイが鳴った。鳴子の同僚、坂口からの電話だ。なんでこんな時にと、鳴子はイライラした状態で電話を取る。
「おい、なんだよ坂口」
「テレビ見てる?」
「ああ、当然だ。霞ヶ関の爆破の事件だろ」
「そう。お前、行く気か?」
「もちろんだ。お前は行かないのか?」
「ああ。こんな時に霞ヶ関に突入していって、無理に取材しようとしたら、警察にお縄になるのがオチだ。取材すんなって、上層部から指令が出てるだろ」
「何が上層部だ。フリーって名乗りながら、全然自由じゃないじゃないか」
鳴子と坂口が所属しているのは、日本フリージャーナリズム連盟、通称JFJという、フリーランスの記者の集まりだ。その中でも鳴子達は、禁忌取材部、通常『赤班』に所属している。『赤班』の赤とは、血の赤だ。『赤班』が取材するのは、極左や極右の過激派、暴力団、宗教団体の追及、警察やマスメディアの内部事情など、いわゆる禁忌だ。それらの取材が平穏に行くはずも無く、今までに内ゲバ闘争、暴力団同士の抗争で実際に死んだ人間は活動から十年でおよそ七人、血を流しただけの人間なら数えきれない。また。警察やマスメディアに社会的抹殺を受けた人間、あるいは宗教団体からの嫌がらせを受けた人間も多数いる。ゆえにこの禁忌取材部は『赤班』と言われ、このJFJ内でも禁忌視される存在となっている。
「だってそりゃ、お前があんな事をするからだろ」
JFJ上層部は、禁忌取材部の行動を常々危険視してきた。そして先月、鳴子は大手在京テレビ局の役員と指定暴力団『須藤一家』の執行部との面会のスパイ取材を決行した。取材自体は見事成功し、その記事がJFJが不定期で発行する新聞「日本自由新聞」の一面に載ることとなった。
この記事は週刊誌やインターネット上で一躍話題となる。「やはりマスコミはそうだったか」「暴力団を排除せよ」インターネットではそんなコメントが溢れ帰った。そして、JFJは鳴子に対し特別功労賞を授与した。
しかし、マスコミそして暴力団が黙っているはずが無い。在京各社テレビ局や系列局のみならず、国内全新聞社、全テレビ局に対し、その大手在京テレビ局は箝口令を敷いた。一テレビ局がなぜ箝口令を敷けたのか。それはそのテレビ局の会長が日本のマスコミを牛耳っているからに他ならなかった。「もしこれを報じたら、我々は全力でその新聞社あるいはテレビ局を潰す」会長は社内の秘密会議にて、こう言い放った。
暴力団の方はというと、東京永田町にあるJFJ本部に手榴弾を三発投げ入れ、銃撃を十発にわたって行った。幸い死者は出なかったものの、全治一週間の怪我を負った者がいた。それが坂口だ。
そして警察はJFJに対し「過激化の恐れがある団体」という指定をかけた。この事態にJFJ上層部は「緊急措置」として、赤班に対して半年の取材禁止令を出した。そして、鳴子の特別功労賞も剥奪となった。
「俺はもう怪我したくないんだ。赤班にいるならまだしも、俺は一介の政治部記者だぜ。いい加減にしてくれよ」
「じゃあJFJを抜けろよ」
「何を言っているんだ。お前が抜ければいいだろうが」
「じゃあ、いいぜ。取材し終わったら。JFJに退会届出してやる」
「マジかよ」
「俺はいつだってマジだぜ」
「わかった。但し、俺に迷惑は掛けるな」
「あったりまえだ」
鳴子は電話を切る。鳴子の気分は爽快だった。日本フリージャーナリズム連盟などという名ばかりの自由を標榜する団体を抜け、本当に自由に日本の禁忌を取材できる。それで俺が怪我しようと、死のうと、それは自分の責任であり、誰にも関係の無い事だ。社会的に抹殺されていても良い。誰か一人だけにでも伝えられれば、それで良い。それ以上に、知りたいというまるで子供のような好奇心が、鳴子を突き動かしていた。その好奇心を阻害する物から抜けられる。そして、これから巨大な禁忌に立ち向かうのかも知れない。そう思うと、鳴子の頭からは恐怖は消え去り、興奮だけが残った。巨悪に立ち向かう正義の味方の心情は、こういうものなのか、と鳴子は思った。
テレビと電気を消し、鳴子は家を出る。
出てすぐのところで、ポケットの中の携帯電話が震える。またあいつからか。鳴子は興奮が冷めたと文句を言おうとした。
「おい、鳴子」
案の定、電話をかけてきたのは坂口だった。
「なんだよ、おかげで俺の興奮が冷めちまっただろうが」
「俺の事、忘れんじゃないぞ」
鳴子は一笑し、
「当然だ。忘れる訳が無い」
「I send all my loving to you」
「ん、なんだって?」
「なんでもない」