若者
十番線に停まっていた京浜東北線の電車は、五両目のドアにビニール傘を挟んでいた。傘はちょうど真ん中でくの字に折れ曲がっている。伊藤は茫然自失とした表情で、傘を引っぱり出そうとする。当然ながら、傘はびくともしない。引き抜けたとしても、傘は二度と使えそうにない。雨が電車の屋根を打つ音がする。この中を傘なしで歩くのは無茶苦茶だ。後でコンビニで傘を買わなくては。痛い出費だ。
ドアが突然開いた。伊藤は思わず尻餅をつく。それと同時に車内の乗客の姿が見えるようになる。乗客は、まるで水族館で面白い芸をするアザラシを見るような目で伊藤を見ていた。ぽおっと顔が赤くなる。そそくさと伊藤は立ち上がり、恥ずかしさを紛らわそうと、ワイシャツの汚れてもいない箇所を手ではたいた。
電車に乗り込む。普段は学生たちで混雑している電車が、今日は空いていた。そういえば今日は金環日食の日だった。各地の学校で金環日食の為に、始業時間を遅らせる、または休校などの措置が取られたと、昨日のニュースで聞いた。自分はあのやかましく常識の無い学生がいないだけで、十分幸せだった。
ついこの間、ドアの上部に取り付けられた小型モニターでは、今入っているニュースが淡々と流されていた。「民政党と自由党の党首会談」「賞味期限偽装また発覚」「有名映画監督の死去」どれも明るいニュースでは無かった。だからと言って、顔を覆って号泣したり、絶望の果てに飛び降り自殺をしたりする程でもない。自分が子供の頃から、日本はずっとこんな、暗いけれど真っ暗じゃない、そんな感じだった気がする。慣れとは恐ろしいものだと思ったが、事実、日本はずっと変わっていないのかも知れない。
変わっていないのは日本だけではない。伊藤自身も、またそうだった。伊藤は鞄からiPodを取り出し、今時珍しいホイールを回す。選んだのはビートルズの「リアル・ラヴ」という曲だ。ビートルズが好きなのは、中学生の頃からずっとだ。小遣いをコツコツと貯めて、ビートルズのアルバムは全て買ったし、大学生の頃にはビートルズファンの聖地「アビーロード」に友人を連れて行き、四人並んで写真を撮った。たまにビートルズから離れて、他のミュージシャンに傾倒したりもしたが、結局はビートルズに回帰し、圧倒させられ、熱中する。それは今も変わらない。
「リアル・ラヴ」は、他の曲と比べて少しばかり「異質」だ。「異質」というのは、これが一九七〇年の解散後に、さらには一九八〇年の、ビートルズの中心メンバー、ジョン・レノンの暗殺の後に作られたからだ。ジョンの未亡人オノ・ヨーコが持っていたジョンのテープをポール、ジョージ、リンゴの三人に託し、キー変更や編集をして、この曲は作られた。だから、ジョンの声が普段とは少し違って聴こえる。でも、それがいい。
鞄の中の、ぐちゃぐちゃに絡まったイヤホンを取り出してほどき、穴に差して耳にはめる。決して高級なものではなかったが、「慣れた物は変えにくい」と、伊藤は愛用している。電車の雑音、人々の混雑の中、伊藤は軽く深呼吸し、ボタンを押した。
開始一秒間の微妙な空白の後、悲しいマイナーなチェンバロとピアノの音が流れる。まるで葬式のような、不穏な空気が漂うが、すぐにジョンの声が心を安らぎに導く。歌詞は英語だsが、なんとなしに意味が思い浮かばれる。リンゴの決して技巧派ではないドラムが入り、音が厚みを増す。人の声、ギター、ベース、ドラム。何も複雑なものは無いのに、全く空白のない、ぎっしりご飯が詰まったお弁当箱のように複雑な現代の音楽よりも、ビートルズの音楽は人を感動させる。それがなぜかを語るのは無理だし、したとしても、それは国語の試験の解答であって、本当の理由ではない。
始まって一分。サビに入る。一人になる必要はない。一人になる必要はないんだよ。ジョンが語りかける。そして、
It’s real love. It’s real, yes
それが本当の愛。それが本当の、そう。
それが本当の愛。
「オッサン、音、漏れてるんだけど」
一番の終わりのところで、隣から軽い声がした。伊藤は再生を止め、イヤホンを外す。すると、今度はチッ、と舌打ちの音が聞こえた。横を見ると、頭からグレーのフードをすっぽりとかぶったおそらく若者が、腕と足を組んで、いかにも不満そうにしていた。最近の若者は凶暴化しているという話をどこかで聞いた。聞かなくても、若者は伊藤だけでなく、周りの全てに、威圧感を発しているのは明らかだった。伊藤は無意識の内に、「すいません」と頭を下げていた。いわゆる反射という奴だ。
若者は何も言わない。それが余計に威圧感を感じさせる。もし今度、こんな若者が近くにいたら、真っ先に離れることを、伊藤は心に誓う。そして伊藤は、まるで、今まさに怒り心頭に発しているガキ大将の気を遣う子分のような姿勢で、若者に聞いてみた。
「あの」
「なんだよ、うっせーな」
「さっきは、すいませんでした。イヤホンの音漏れに気付かないなんて、本当、社会人どころか、人間失格ですよ。太宰治じゃないですが」
「あんた、太宰なんて読むのか」
「僕は、小説とか、そういうの読まないんです、子供の頃から。ずっと音楽ばかりで、しかもビートルズぐらいしか」
「古くせえ」
よく人はビートルズを「古くさい」「過去」という。しかし、それを誰かが言う度に伊藤は「ビートルズを古臭いって言うんなら、ヘルター・スケルターでも、アイ・アム・ザ・ウォルラスでも聞いてからにしろ」と、頑として認めなかった。自分の中でビートルズがデビューしたのは中学の時で、しかもまだ解散していないからだ。ビートルズの解散は自分が死ぬときだ。しかも、自分が死んでも誰かの心の中でデビューしている。ビートルズは永遠だ。そんな中学校時代の感慨を今でも引きずっているな、と言われるとまた怒る。それを面倒臭がって、伊藤の同僚も友人も、ビートルズを否定することはしなかった。なので、ビートルズを否定されるのは、久しぶりだった。
「何を言うんですか。ビートルズは古臭くなんかない。永遠に不滅です」
あの反射は、まだ抜けていなかった。それを伊藤は悔い、そしてこれからの自分を案じる。もしかしたら、あの若者にきつい目で睨まれるのではなかろうか。まさか、どこかに連れて行かれ、暴力でも振るわれるのでは無かろうか。軽く赤らめた顔が、一瞬の内に青白くなる。体中に鳥肌が立ち、がくがくと震える。
しかし、若者はぷっ、と軽く吹き出し、
「すまねえ、すまねえ。俺もビートルズが好きなんだよ。ちっとムカついてたから、ひでえ事言っちまったな」
と言った。伊藤はひどく安堵し、同時に体がへなへなとしおれる。一体なんだったんだ。
「で、今聞いてたの、何だったんだ」
若者は話を進める。伊藤は訳が分からずに、混乱している。
「い、今聞いていたのですか? いや、あの、ビートルズの曲ですが」
「へえ、やっぱりビートルズか。で、何の曲」
「『リアル・ラヴ』って、ご存知ですか?」
「ああ、あれか。『リアル・ラヴ』ね。ビートルズ最後のシングル。良い曲だけど、俺はどうも、あのジョンの声が気に入らねえ。『アイ・アム・ザ・ウォルラス』もそう。変に編集してやがる。まあ、ジョン本人が自分の声が嫌いだってんだから、しょうがねえ。けど、俺は同じラヴなら、『オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ』の方が好きだ」
「『愛こそは全て』ですね」
二人の会話の歯車が、徐々に合い始める。
「ビートルズって本当、愛が好きですよね。『僕の全ての愛を、君に送るよ』と言ってみたり、『彼女は君を愛しているよ』と嫌味を言ってみたり」
「愛の言葉をささやかれたり、『僕を愛して、僕が君を愛しているの、知ってるだろう?』と言ってみたり」
「追伸にしたり、『愛は買えない』ってみたり」
「本当、ビートルズは愛が好きだな」
「ですね」
二人がにこにこ笑う。さっきまでの主従関係は、もうどこかに消えてしまった。二人は今、ビートルズで結ばれている。
それからすぐ、伊藤の会社の最寄り駅に着いた。伊藤は「じゃあ」と言って席を立ったが、若者は「俺もここで降りる」と言って付いて来た。
「そちらさんもこの辺りで働いてるんですか?」
改札を出て、伊藤は訊いた。
「いや、別にそうじゃない」
「じゃあ、バイトか何か」
「俺が通ってた小学校に行こうと思って。今日さ、金環日食だろ。俺の家はチビでボロで、おまけに周りが高層マンションだ、三階建てだってんで、全然太陽が見えねえ。それに、こんな世紀の大イベント、一人で見るのは、やっぱ寂しいじゃんか。だからといって、あのテレビのバカ共と馬鹿騒ぎするのは御免だし、俺、恥ずかしながら、友達がいねえんだ」
「だから、自分の出身の小学校で」
「そ。俺の好きだった、黒田っていう先生。もう今はすっかり爺さんだが、まだ現役だ。その先生と一緒に見たいと思って。黒田先生と会うのは、何年かぶりになる。こんな近所なのにな」
「中学校や、高校とか、大学じゃないのは、どうしてですか。好きな先生がいないんですか?」
「そういう訳じゃないが、俺、中学高校は私立通ってて。こっから電車と歩きで一時間もかかっちまう。そんなことしてたら、金環終わっちまうだろ。それじゃあ、何のために出かけたんだってことになる。それこそ御免だ」
「いいですね。小学校に良い先生がいて。僕なんか、全然ですよ。一年の頃の山本先生。この人、いっつも怒りっぽくて、そこで僕の小学校観が決まってしまいましたよ。『怒りっぽい先生に、怒られながら面倒な作業をする憂鬱な場所』という小学校観が。それがずるずると引きずられたまま、僕の小学校は終わりました。そこからの先生は、大して面白くない先生でした。生徒をやる気にするとか、好奇心をかき立てるとか、そんなのを教えた事が無いような先生ばかりでした。勉強もつまらなかったです。テストなんて、あんなの勉強しなくたって誰にでもできますよ。ゆとり教育なんて言われましたが、あったのはゆとりじゃなくて、たるみですね」
「お前の愚痴はいい。早くしねえと、金環終わっちまうぞ。お前さんはどこで見るんだ?」
「会社で。同僚と一緒に」
「いいよな、一緒に見れる同僚がいて」
「そちらこそ、いい先生に恵まれて」
二人の間は、暫く沈黙だった。お互いに嫌な事をさらけ出したから、それで心をブルーになってしまったのかもしれないと、伊藤は推察する。ブルーな気分は嫌だったが、それを打破するだけのエネルギーがない。隣にいる若者もそうなのか、と思うと、若者が意外に可愛く見えた。もしかしたら、最近の凶暴な若者は皆、荒々しい鎧をかぶっているだけで、中身は優しいのかも知れない。鎧は何からか自分の身を守るためにある。ならば、その何かは自分たち大人が作り上げているのではないだろうか。伊藤は自分の身を恥じる。なんだか申し訳なくなる。
駅を出て暫くして、伊藤は毎日同じ道を通って会社に通う癖に、その土地柄や、近所に何があるかなどを、全然知らなかったに気付いた。同じ景色が、全く違って見える。伊藤の会社は駅から歩いて十五分程の所にある。左腕の手首に巻かれた腕時計を見る。七時一〇分。駅に着いたのが七時丁度だったから、あと会社までは五分ということになる。若者はまだ付いてくる。こんな近くに小学校があったとは。伊藤は自分の視野の狭さに呆れた。小学校の名は「東池ノ台小学校」というらしい。
前方から、一人の女性が歩いてきた。黒く艶のある髪が、腰の辺りまで伸びている。体はまるでポッキーの様に細い。だからと言って、気持ち悪いわけでもなく、むしろ美しかった。服装は白のワンピースだ。清楚。その言葉がまさに似合う女性だ。少し眉を顰め歩く姿が余計に好意をそそる。昔、中国にいた西施という美人の眉を顰める姿が美しいと、東施という別の女性がそれを真似たところ、みんなに奇怪がられたという故事を思い出した。この女性は、西施を真似るに相応しい。
その姿に見とれていると、いつの間にか、女性は自分のすぐ前方にまで来ていた。このままでは、彼女が手に持っているバッグがと、自分の体がぶつかってしまう。これではいけないと思ったが、もう時間は無かった。伊藤の腕と女のバッグが呆気なく、ぶつかった。しかもその勢いで、バッグの中の手帳が落ちてしまった。伊藤は急いで拾う。
「大丈夫ですか?」
「いえ、大丈夫です。そちらこそ、大丈夫ですか?」
「いえいえ。こっちは全然」
若者が伊藤を一歩引いた目で見る。伊藤はそれに気付かないのか無視しているのか、一切関せず、女に拾った手帳を渡そうとする。
「手帳、落としましたね」
「あ、はい。ありがとうございます」
伊藤が両手で丁寧に渡そうとすると、手の平に、手帳の革ではなく、紙でもない。何かプラスチックの板の様なものが当たった。これは何だろうと、伊藤は手帳を開こうとすると、
「あ、ありがとうございます!」
女性は何か見られてはいけないよう物があるかのように、手帳をぐいと引っぱって取り戻し、鞄に押し込んだ。
「ありがとうございました!」
女性は足早にその場を去る。伊藤はその後ろ姿をうっとりと眺める。長い髪が前後左右に乱れ打つ。鞄を大事そうに抱える。その一つ一つが、どれも美しく見えた。
「おい、おっさん」
若者の声で、伊藤は現実に引き戻された。
「ああ、何だい」
「あんた、一目惚れしちまっただろ」
「もしかしたら、そうかも知れない」
伊藤ははっきりとしない声で答える。
「で、結局、手帳には何が入っていたんだ?」
「全然覚えていないですね」
若者がちぇ、と不満げな顔をする。
「あ、でも、何か赤い板が入っていましたよ。真っ赤でした。まるで薔薇のように」
「薔薇の赤は、血の赤」
「え、何ですか?」
「いや、何でも無い。さっさと行こう。金環終わっちまうぞ」
伊藤は腕時計を見る。七時十三分。まだ大丈夫じゃないか。よほど若者は金環日食が見たいようだ。確かに、次に首都圏で見られるのは三百年後だと言う。三百年も生きられるのは、仙人かロボットか、はたまた神か。それと、みんなの頭の中で生き続けるビートルズか。
歩き始めて間もなく、二人は一本の丁字路にぶつかった。若者は伊藤に別れを告げる。
「じゃあな」
「じゃあ」
二人はそれぞれの目的地へと向きを変える。
「あの」
伊藤が若者を引き止める。
「本当の愛って、『リアル・ラヴ』って、何なんだろうね」
「少なくとも、あんたの今の一目惚れは、『リアル・ラヴ』じゃねえ。あんたが惚れたのは外見だけだ。中身は全然愛しちゃいないね、当たり前だけど。本当の愛と恋愛は、はっきりと区別すべきだ。英語じゃ同じloveだけど、日本語じゃ別物だ。日本語の方が表現が豊かなんだぜ」
「じゃあ、そんな汚い言葉遣いしなけりゃいいのに」
「何か言ったか」
「いや、何でも無いですよ」