デジャ・ビュな恋
その1 メール
彼女は朝7時に目覚めてしまった。
昨日は、3時に帰宅して、
いつもは11時過ぎに起きるのだが、
眠りが浅く起きてしまったのだ。
鏡に向かうと顔が腫れぼったく、頭も痛い。
今日は、午後2時という少し遅い昼食の約束があった。
「やばい」と彼女は呟くと、
もう一度眠らなくてはと思い、
ウイスキーをあおり、
無理やり二度寝しようとした。
しかし、彼女は気持ちの高ぶりがあり、
ベッドの中で30分ほど横になっただけで、
眠ることはできなかった。
「なんでこんな気分になるんだろう?」
彼女は自問自答した。
彼女の心のなかのざわめきは、
数日前に受けたメールから始まっていた。
一時、彼女を目当てに通い詰めていたある年配の客が、
ぱったりと来なくなったのだが、
それが1年ぶりにメールを送ってきたのだ。
それにはこう書いてあった。
「ご無沙汰しています。
理由があって、しばらくあなたから遠のいていました。
でも、あなたのことを忘れているわけではありません。
あなたの顔を見たくなりました。
しかし店で会う前に、
少しお話しておきたいことがあります。
しばらくぶりに今度、
遅い昼飯でも、ご一緒しませんか。」
そのメールを読んでからというもの
胸がざわめきはじめ、落着きを失っていたのである。
「小娘じゃあるまいし、ただ食事をするというだけで、
なんでこんなに舞いあがっているんだろ」
と自問を繰り返す彼女は、
29歳になっていた。
その男は、いわゆる文筆業で、
いろいろな雑誌に投稿して、
それなりの収入を得ているということだった。
その男は、彼女がホールに出るようになって、
まだ慣れない気持ちでいるとき、
店の中で、素の自分になって話が出来た最初の客であった。
いつしか彼女は、彼が来るのを楽しみにするようになっていた。
その男が店にくると、
自分でも顔がぱっと輝いてしまうことが分るのだった。
そして他の客と接客していても、
その男のことが気になってしまい、
落着きを失くしてしまうことさえあったのである。
その2 その男
その男は他の客と違った独特な話し方をする男で、
話題も、愛とか感性についてなど、
ちょっと変わっていて、
彼女も、その男だと、
他の客には決してしない
自分の恋愛の修羅場の話までしてしまうのだった。
そして半年ぐらいたってからであったが、
店に入る前の時刻に、男の夕食に付き合ったりした。
また休日の夜にディナーを共にしたこともあった。
そして最後に、ホテルのバーで会った時に、
一度だけふざけてキスを許したことがあったが、
それ以上のことはなかった。
しかし、最後に会った日から、
突然、その男は店に来なくなり、
食事の誘いもしなくなったのだ。
彼女はその時は、
どうしてだろうと疑問に感じたが、
自分のことが原因とは考えられず、
きっと男が忙しくなったためだろうと
すぐに日常の慌ただしさのなかで、
その男のことを忘れていったのである。
しかしその男のことは、
彼女の心の深い部分に残っていた。
そして、久しぶりにその男のメールを見たとき、
胸がときめくのを抑えられなかったのだ。
彼女は男に会いたいと思う気持ちがこみ上げてきて、
即座にOKしてしまったのである。
「ただ昼食を一緒にするだけなのに、
なんでこんなに胸がザワザワと騒いでしまうのか。」
その男のことを、好きになってはいたが、
ただ会って食事するというだけでは、
自分の気持ちの異様な高ぶりを説明できなかったのだ。
約束の時刻になり、
待ち合わせ場所に指定されたホテルのロビーに近づくと、
はっと閃くものがあった。
彼女は、6年前の事を思い出していた。
その3 6年前
それは彼女が大学を出て上京し、
ウエイトレスとして、この店で働き始めたころであった。
時々来るときに、
いつも一寸気の利いた菓子を持ってくる初老の客がいた。
そして、店に来ると必ず彼女に一言声をかけるのだった。
時には
「これは君だけの分だからね」
と彼女だけに特別な菓子を渡すこともあったし、
短い時間ではあったが、
彼女の他愛のないおしゃべりを
いかにも面白そうに聞いてくれるのだった。
また、店を出るときも必ず、
彼女に優しい声をかけて帰っていった。
そのころまだ仕事に慣れておらず、
不安な気持ちでいっぱいであり、
故郷を離れて初めての一人暮らしの淋しさもあり、
心細い気持ちでいた彼女にとっては、
その客の振舞いは、
非常に嬉しいものであったのだ。
いつしか彼女は、
その客の来るのが楽しみになっていた。
彼女はその客からコートやカバンを渡されると
大事に抱えるようにして、
ちょっと他の客とは離して置くのであった。
そして店に客が少なく時間を持て余しているときなどに、
彼女は
今度その客がきたら、
「こんな話をしてみよう。」
と考えたりするようになったり、
その客が来ている間は、
気なって仕事の手が疎かになっている自分に驚いていた。
そしてある日、その客の請求されるままに、
自分の携帯の番号を書いた紙を渡してしまったである。
そしてすぐその客から昼の食事を誘う電話が来た。
そして食事ぐらい付きあってもいいだろうと、
なんとなく承諾してしまったのだ。
「昼食なんだし、
あぶないこともないだろう。」
と考えていた。
いやそのときすでに、
彼女はまだはっきりと自分の気持ちを自覚していなかったが、
その客のことが、
かなり好きになっていたのだ。
だから二つ返事でOKしたのであった。
その4 ホテル
その約束の日の昼過ぎに待ち合わせたのは、
都心にある大きいホテルのロビーであった。
しかし、その客に連れて行かれたのは、
レストランではなく、客室であった。
そこには、ルームサービスの食事が用意されていた。
ここではいやですか?」
とその客は、
彼女の顔色を窺うように聞いたが、
彼女は首を振って言った。
「いいえ。お客さんが私のような小娘を
相手にされるはずがありませんから。」
するとその客は言った。
「僕だって男だよ」
彼の顔を見上げると彼の目は充血していた。
彼女は、急に彼に男としての気配を感じたのである。
彼女は言った。
「私は、お客さんのことが、
自分の父みたいに大好きだったんです。
お客さんの来るのが楽しみだったんです。
尊敬して信頼していました。
それなのにひどいです。」
そして無我夢中でその部屋を飛び出たのである。
それきり、
その客は店には来なくなった。
それから3年後、
彼女はホールに出て接客するようになっていた。
その後、彼女はいろいろな経験をしたのだった。
それなりの修羅場も踏んだこともあった。
そして、そんな彼女が、
ふとしたときに、
そのときのことを、
思い出すことがあった。
そんなとき彼女は、
「なんであの時もっと優しくして
あげられなかったのだろうか。
同じ断るにしても、
違う言い方が出来なかったのだろうか。」
という後悔で苦しむのであった。さらには
「こどもじゃあるまいし、
あのとき抱かれても良かったのではないか。
だってあの時ほんとに好きだったのだから」
という考えが頭を支配して、
体が熱くなることもあったのだった
今日の2時に、待ちあう場所に指定されたのは、
あの時と同じホテルのロビーだった。
そして、男は彼女を伴ってエレベーターに乗ると、
レストランを素通りして、
宿泊部屋のあるフロアで降りようとしているではないか。
彼女は思わず呟いた。
「これってあのときと同じじゃない!?
これってデジャ・ビュ!?」
そして彼女が考えたのは次のことであった。
私は、あのときと同じ事をするのだろうか?
そしてさらに思うのであった。
今日、もし6年前と同じようなことになったら、
今度はきっとあんな風には逃げられないだろう。
あの時私はまだ、
ひよっこで、
23歳の駆け出しの小娘に過ぎなかった。
でも今はいろいろ経験した大人の29なのだから・・・
完