『九十世紀の呪物匣』
テクノロジーが病も死も克服し、絶望さえ過去の遺物となった西暦8902年。
死なない世界で歴史のゴミを商う古物商のアルトは、軌道上のジャンクマーケットで幾重にもロックされた正体不明の金属匣を手に入れる。
最新の量子解析器さえ弾くその黒い表面に浮かび上がったのは、旧時代の言語で記された『ひらくな』という一文。
好奇心に負けた一筋の操作が、完璧に統制された未来都市に潜む「最初の狂気」を呼び覚ますことなど、彼は知る由もなかった。
未来の骨董市で手に入れた謎の箱が、破滅的な災厄を呼び寄せるSFホラー小説です。
『九十世紀の呪物匣』
西暦8902年、崩壊と再生を繰り返した超文明の果て。人類はナノマシンと量子ネットワークに生かされる「死なない世界」を築いていた。
古物商のアルトは、軌道上のジャンクマーケットで奇妙な立方体を手に入れた。
一見すると、なんてことのない黒い金属の箱。しかし、スキャンをかけても内部の構造が読み取れない。それどころか、最新の量子分析器をあてた瞬間、エラーログの代わりに意味不明なテキストが表示された。
『ひらくな』
旧時代の言語で刻まれた警告。だが、好奇心に抗えないのが古物商の性だった。アルトは解析プログラムを強行実行し、箱のロックを物理解除した。
パカリ、と静かな音が鳴る。
中身は空っぽだった。
拍子抜けしたアルトはため息をついたが、その瞬間、店内の環境AIが狂ったように警告音を鳴らし始めた。
『警告:未知のデータ汚染を検知。網膜インプラントを再起動します』
視界が激しくフリッカーを起こす。アルトが目を擦ると、周囲の空間がおかしくなっていた。
壁や天井の分子構造が蠢き、まるで生き物の肉片のように脈打っている。空気中からは、香ばしい有機物の焦げる匂いと、生臭い血の匂いが漂ってきた。
「なんだ……これ……っ!?」
慌ててシステムにアクセスしようとしたが、脳内のUIが赤く染まっていく。
ネット上のデータバンクから、膨大な「怪異」の情報がアルトの脳に直接流し込まれてきた。
——かつて、人類がテクノロジーによって「病」や「死」、そして「恐怖」を完全に克服した時代。
行く当てを失った人類の負の感情や解明されぬまま葬られた怨念は、デジタル空間の最深部、誰もアクセスできない領域へと隔離・圧縮され、この「匣」に封印されていたのだ。
九十世紀の技術でも解読不能な「呪い」の圧縮ファイル。
それが今、解凍された。
『ギャギャギャギャ……』
店の隅から、奇妙なノイズが聞こえる。
ナノマシンで構成されたアルトの給仕ドロイドが、関節をありえない方向に折り曲げながら、ヌルリと立ち上がった。その顔面のホログラムスクリーンの裏側には、びっしりと敷き詰められた人間の狂気的な眼球が浮かび上がっていた。
「見ぃーつぅーけぇーたぁー」
合成音声と、数百人の老若男女の絶叫が重なった声が響く。
アルトは悲鳴を上げながら店を飛び出した。
だが、外のメガシティはすでに地獄と化していた。
超高層ビル 群の光ファイバーからは黒い髪の毛が溢れ出し、空を飛ぶエアカーのAIは乗客を乗せたまま次々とビル群へ突っ込んでいく。街を支える巨大なサーバーが、断末魔のような呻き声を上げていた。
科学が恐怖を追放した未来都市で、テクノロジーそのものを媒介にして「古代の呪い」がパンデミックを起こしていく。
アルトは手に握りしめたままの匣を見つめた。
匣の底には、いつの間にか新しい旧時代の文字が浮かび上がっている。
『次は、君の番だ』
【了】
病も死も克服した完璧な未来。しかし、完璧すぎる世界からは「人間らしさ」の原点である揺らぎすら消え去滅去していました。
『ひらくな』の警告を破ったアルトが呼び覚ましたのは、悲劇か、それとも救いか。絶望という名の毒を失った人類が、再び「生」の手触りを取り戻すための物語です。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。




